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『主目標』は飛行機工場だが…
米軍資料から見る B29東京初空襲の意図
米爆撃機B29の東京初空襲に関し、新たに見つかった米軍資料の分析結果を「多摩地域の戦時下資料研究会」会員、楢崎茂弥さん(58)=東京都立川市=がまとめた。「作戦任務報告書」(TMR)をはじめ、爆撃目標から損害の評価、日本側の反撃まで書いた詳細な記録だ。二百ページ以上に及ぶ資料から見えてくる米軍の意図を探った。 (橋本誠)
「目標は東京である。主目標は中島飛行機武蔵製作所」
一九四四年十一月二十四日、百十一機のB29がサイパン島の基地を飛び立った。四二年に空母艦載機B25が行った爆撃以来の首都攻撃。サイパンが陥落し、日本の主要地域がB29の爆撃圏内に入って最初の攻撃で、マリアナ諸島を拠点に全国百以上の都市を襲った本土空襲の幕開けだった。
四五年二月の神戸空襲より前のTMRなどは現存しないといわれていたが、昨年七月、楢崎さんが米国立公文書館に保存されているのを発見した。
それによると、この日の作戦名は「サンアントニオ1」。主目標は最大級の軍用機工場だった中島飛行機武蔵製作所(現・東京都武蔵野市)で、製作所西地区の中心と、東地区の発電所を攻撃するよう命じた。
■「命中7%だけ 成果には不満」
午後零時十二分から二時三十二分まで、八十八機が爆撃に参加。このうち二十四機が武蔵製作所に普通爆弾百六十三発、焼夷(しょうい)爆弾六十八発を投下し、十六発が命中した。作戦後の報告は「7%が目標内に命中したことが確認されているだけなので、爆撃の成果は不満足」と分析。失敗の原因として雲や事前の情報の誤り、編隊の規模などを挙げている。
米軍は地上の高射砲から激烈な反撃を受けるとも予想していたが、「目標上空の対空砲火は貧弱で、全般的に不正確」だった。四百−五百機は出てくると見ていた迎撃戦闘機も百二十五機にとどまり、「多くは連携した戦法をとらず、動きは個々の飛行士に任されている」と分析。米側が失った二機のうち、一機は日本機の体当たりによるものだったことも記している。
注目されるのは、爆撃の第二目標として、東京の下町地区が指示されていることだ。命令書は、レーダー爆撃の目標として「隅田川河口の島」と「荒川河口」を指定。目視での爆撃については、現在の中央区晴海付近、台東区入谷付近、葛飾区新小岩付近、江戸川区臨海町付近の四点で仕切った範囲を指定し、この中の産業施設なら「ANY(どれでも)」構わないとした。
■範囲指定地図『東京大空襲』とほぼ一致
添付された爆撃指定範囲の地図と、約十万人が亡くなった翌四五年三月十日の東京大空襲の焼失範囲の写真を並べると、ほぼ一致する。楢崎さんは「米軍は最初の空襲から下町地域を第二目標として爆撃を繰り返し、東京大空襲でついに主目標として焼き払ったのでは」と話す。
実際の爆撃では雲が多かったため、七割が主目標以外を爆撃。着弾はばらつき、下町地区の江戸川区のほか、杉並区や神奈川県まで爆弾が落ちた。日本側の被害報告によると、二百人以上が死亡、三百人以上が重軽傷を負った。
専門家の見方はどうか。今春渡米し、一連の文書を入手した空襲研究者の工藤洋三氏は「今までよく分からなかったものがゴソッと出てきた貴重な資料群だ。B29は戦略爆撃のために生まれた飛行機。離れた安全な所から飛び立ち、心臓部をたたいて終戦に持っていく新しい考え方がよく分かる」と評価する。
本土空襲は、航空機産業などを狙った初期の「高高度精密爆撃」、東京大空襲から四五年六月の大阪・尼崎空襲までの「大都市焼夷弾爆撃」、それ以降の「中小都市爆撃」の三期に分けて考えられてきた。
最初はハンセル司令官が精密爆撃を進めたが、効果が上がらず、四五年一月に交代したルメイ司令官が無差別爆撃を本格化したというのがこれまでの定説。楢崎さんは「ハンセルは市街地に対する無差別爆撃に反対して解任されている。第二目標の設定にはワシントンの意向が強く反映されているのではないか」と推測する。
「東京大空襲・戦災資料センター」館長の作家、早乙女勝元氏も「無差別爆撃の意図がルメイの登場前から米政府にあったことに衝撃を受けた。第一目標の中島飛行機は名目だけで、本命はむしろ第二目標の住民攻撃だったのではないか」とみる。
東京大空襲当時十二歳だった早乙女氏は、向島の軍需工場で働いていた。「総力戦で、鬼畜米英とか一億火の玉と言っていた時期。TMRは緻密(ちみつ)で、計画的で、科学的。よくそこまで準備なさってやったもんだ、とあきれかえる。爆撃の下で子供や女性がどういう運命をたどるかという想像力が欠如している」と憤る。
■爆弾残さぬため落とすケースも
これに対し、軍事評論家の熊谷直氏は「江東デルタ地帯について、アメリカは『航空機の家内産業がある軍事工業地帯で、無差別爆撃ではなかった』と戦後も言い続けている。ある程度はそういうものもあったと思うし、全くうそではない。イラクやレバノンでもそうだが、航空攻撃で、周りに一般住民が住んでいるかどうかを見分けるのは無理」とし、第二目標はあくまで工業施設を狙う目的で選定されたとみる。
司令官の交代で無差別爆撃が始まったという見方には「爆撃の方法を切り替えるには、ドイツで無差別爆撃をしていた第八空軍のルメイのほうがいいと交代させたのかもしれないが、それだけではない。技術的な理由もある」とくぎを刺す。
軍事評論家の青木謙知氏は、米軍が第二目標を範囲内の「どこでも」としている点について「まあ、そんなものだと思う。狙ったところで爆弾を落とせなかったときでも、持ち帰るとき万一爆発すれば被害が出るので、できるだけ基地に持ち帰りたくない。第二、第三目標まで設定し、それでもだめなときはどこでもいいから落とす。アフガニスタン攻撃で誤爆とされているものの中にもそうしたケースは少なくなかった」と爆撃機搭乗員の心理を語る。
■第二次大戦で成功 脱却できず
爆撃は「空爆」という名で、最近の戦争でも繰り返されている。青木氏は「第二次大戦で発電所や軍事産業に対する航空作戦に効果があることが分かってしまった。米軍はその発想から脱却できず、朝鮮戦争、ベトナム戦争から湾岸戦争まで、最初にどんどん爆撃して弱体化させる方法をとってきた」とし、当時の爆撃思想が長く米軍の中に生きていたことを明かす。
前出の早乙女氏は米軍資料を見るときの心境を「いい気持ちはしませんよ。何たって、その火の下にいたんですから」と表現する。その一方、戦後六十一年たって、今回のような資料が出て来ることに驚きを感じている。
「最近一つ一つの空襲の記憶がよみがえって憂うつになってしまうが、まだまだ埋もれている記録があり、今の子供、孫に伝えきれていない思いがある。そういう意味で貴重な資料でもあります」
<デスクメモ> 「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需施設を破壊したのだ」。本土空襲の指揮を執った米軍のカーチス・E・ルメイ司令官は、戦後の回想記の中でこう述べたが、今回の米軍資料はこうした説明や米国の公式見解に一石を投じるものだ。時間がかかっても、歴史的事実を確認する作業は尊い。 (吉)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060813/mng_____tokuho__000.shtml
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