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『原爆症認定訴訟』亡くなった原告の思い
最期まで『裁判見届ける』
がんなど病魔の原因は被爆体験にあるとして、全国十五地裁で約百八十人が国を相手に争う「原爆症認定集団訴訟」。原告団の高齢化は進み、二〇〇三年四月の提訴以後、すでに二十四人が死亡している。なぜ国は、かたくなに認定を拒むのか。なぜ訴訟を長引かせるのか。広島地裁で判決が言い渡される四日を前に、亡くなった原告の思いを聞き、背景を探った。 (橋本誠)
「死ぬ間際まで『裁判を最後まで見届けたい』と言っていました。『車いすに乗ってでも行きたい』と」
昨年三月に亡くなった萬膳ハル子さん=当時(68)=の最期を、めいの池田ハツ子さん(63)が振り返る。
萬膳さんは九歳のとき、広島市の爆心地から約二・五キロの自宅近くで被爆した。顔、胸、手足に火傷(やけど)を負い、皮膚がぼろ切れのように垂れ下がった。ケロイドのため、銭湯では人が近寄らず、夏でも長袖の服しか着なかった。結婚して妊娠したが、義父母の反対で中絶。その後、離婚した。
子宮筋腫、肝機能障害などに苦しみながら一人暮らししていたが、一九九九年、肝臓がんで手術を受け、月額約十四万円の医療特別手当を受けられる原爆症認定を申請する。二年あまりたって来た通知は「却下」。萬膳さんは「私が死んだらケロイドをはぎ取り、研究材料にしてほしいと、必死の思いで申請書を出した気持ちが、なぜ理解してもらえないのか」と悔し涙を流し集団訴訟に加わった。
「被爆していなかったら、子どもを産んで、孫ができて…と想像するだけで涙が出る。肝臓がんの原因が原爆のせいと認めてもらうまで、死んでも死にきれない。これだけは絶対せにゃいけんのんじゃ」と傍聴に通い続けた。昨年四月に入院。病床で弁護士に「病気が原爆のせいと認めてもらいたい」と訴え、ふるえる手で陳述書に署名した。
今年四月に死去した西博さん=当時(74)=は原爆孤児だった。爆心地から一・六キロの広島市の自宅で被爆。母親と別れ、父親が亡くなった後、育ててもらった祖母の遺体は捜しても見つからなかった。発熱や下痢が続き、頭髪も全部抜けた。救護所から孤児収容所に移り、学校では「親なし子」といじめられた。十二指腸かいよう、肺炎、肺気腫などに次々にかかり「健康な日は一日もなかった」。
三十三歳で結婚したが、被爆は隠していた。
「(健康診断などを受けられる)被爆者健康手帳も、離婚の原因になりかねないと取っていなかった。結婚してから取りましたが、被爆者はみんな内証でやっているから、横の連絡がない。(原爆症の)認定を申請する制度を知らなかった。何事も自分から申請しなければ、役所はやってくれませんから」と、妻の妙子さん(65)は代弁する。
二〇〇一年、胃がんの手術を受け、原爆症認定を申請したが、却下された。「やっぱり国は認めてくれん」と途端に体力がなくなった。体重は三五キロまで落ち、昨年八月から酸素ボンベが手放せなくなった。
それでも「原爆でいかに人生を狂わされたか知ってもらいたい。原爆は人間に残酷な人生を強制する」と、今年一月に肺がんの手術を受けてからも車いすで記者会見に出席した。
■「国は死ぬのを待っているのか」
判決を待たずの死に、妙子さんは「残念無念が混じった複雑な気持ち。国は(被爆者が)死ぬのを待っているとしか思えない」と憤る。
被爆から六十一年もたって、高齢化した被爆者が裁判を闘っているのはなぜか。日本原水爆被害者団体協議会の田中煕巳事務局長は「以前は放射線の影響に関する研究結果を被爆者が知る手がかりがほとんどなく、国の認定基準が間違っている確信が持てなかった。ほとんどの人があきらめており、国を相手に裁判を起こすことに抵抗がある人も多かった」と事情を明かす。
一九九〇年代に入り、長崎県や京都府の被爆者が個人で原爆症認定を求めて訴えた訴訟で、原告側の勝訴が相次いだ。爆心地からの距離で推定した放射線量を機械的にあてはめていた方法が批判され、国は二〇〇一年五月に審査基準を改めたが、認定率はかえって下がった。現在でも、被爆者健康手帳を持っている約二十七万人のうち、認定されているのは約0・8%しかない。
度重なる司法判断にもかかわらず、国が認定基準を緩めないことについて、東京訴訟で弁護団長を務める高見沢昭治弁護士は「死ぬべき人は原爆の投下直後に死んでしまったというのが米国の立場。六十年も苦しんでいる人がいる恐ろしさが分かると、核兵器を保有できなくなる。米国の核の傘に守られている立場の日本政府としては、米国が困ることはできず、原爆の被害を小さく見せようとしているのではないか」と推測する。
被爆者側は二〇〇三年四月、「一人ずつ裁判を起こしていたのでは、皆死んでしまう。共通の要求を束ね、判決の力で認定制度自体を変えよう」と集団訴訟を開始。今年五月、全国で初めて大阪地裁が言い渡した判決では、被爆者側が全面勝訴した。これまでほとんど認定されなかった爆心地から二キロ以上の遠距離被爆者や、被爆後に救援などで被災地に行った入市被爆者も全員請求が認められる画期的な内容だった。
■生き残った“罪”の意識背負い
被爆者側の控訴断念要求を押し切って国は控訴したが、全国弁護団連絡会事務局長の宮原哲朗弁護士は「広島地裁でも大阪地裁のような判決が出れば、人数でも、時期でも大きなインパクトになる。制度を変えるところまで国を追い込みたい」と意気込む。
「被爆者は周りの人がどんどん亡くなっていく中で、自分だけが生き残ったという罪の意識を持っている。一面では話したくないが、他面ではそうした気持ちを乗り越えて語らなくてはという義務感があり、認定訴訟がきっかけで表に出た」との考えだ。
前出の高見沢弁護士も「行政が押さえつけてきた思いが募ってきて、集団訴訟になった。現在は原則却下みたいになっているが、被爆したのが確実でがんなど一定の病気になったときは原則として原爆症と認めるべきだ」としたうえで、こう付け加える。
「戦争は国の行為で起こされる。国が被害者に補償しないことになると、また戦争を起こせることになる。被爆者は単に補償がほしいのではなく、戦争を防ぐために闘っているんです」
<デスクメモ> 「としとったお母さん/このまま逝ってはいけない(略)/かなしみならぬあなたの悲しみ/うらみともないあなたの恨みは/あの戦争でみよりをなくした/みんなの人の思いとつながり/二度とこんな目を/人の世におこさせぬちからとなるんだ」(峠三吉・原爆詩集)。きな臭い時代にあらためて胸に刻みたい。(充)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060803/mng_____tokuho__000.shtml
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