★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK24 > 494.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
2006年07月25日
http://anarchist.seesaa.net/article/21393945.html#more
今回、発表された昭和天皇のA級戦犯合祀不快メモ、スクープが経団連機関紙の日経だから、コイズミ参拝の所為で中国市場でババを引いている、財界からの要望で遺族が公開に同意したのだろう。
昭和天皇が、不快感を示していたのは、以前より言われていたこと。それがこのメモにより決定的となった。
ところが、大東亜戦争が侵略戦争ではないと肯定する国賊どもが、この場に及んでも、曲解し否定しようとしている。
何を言っても、「天皇の発言」は、都合よく利用されることが、戦後60年も経っても変わらないこの国。
仕方ない。憲法1条から8条も死守しようではないか。
特に第4条。
「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」
これは、絶対に死守しなければならない。
そうしなければ、また、いつ何時、天皇を利用し、チョウシコク輩が出てくるかもわからない。
安倍晋三を首相にしたい、などという馬鹿が多数の日本では、天皇制現状維持。残念ながら、これしかないのである。朝日新聞(01年8月15日付)によれば、75年11月、小雨降る中での参拝が、昭和天皇の最後の靖国参拝となった。靖国国家護持法案を自民湯が画策していた時期だった。三木武夫が首相として初めて8月15日に参拝。天皇参拝の前日、野党が国会で「天皇を政争に巻き込むのか」と追求したが、政府自民湯側は「私的行為で問題ない」と反論した。
3年後、皇居に靖国から合祀名簿が届いた。戦前、天皇が合祀者を裁可していた名残りだ。A級戦犯14人の名前が、その中にあった。
天皇の参拝は、それから途絶えた。宮内庁は「議論が割れる所には行かれない」と説明した。合祀はその半年後に表面化して非難の声が上がった。しかし、元側近らは証言する。「陛下は、合祀を聞いた時点で参拝をやめるご意向を示されていた」
この年の
この日にもまた
靖国の
みやしろのことに
うれひはふかし
86年の終戦記念日にあたって、昭和天皇はこんな歌を詠んでいた。前年は中曽根が首相として初めて公式参拝したが、中国、韓国などの反発が強く、後藤田官房長官の「強い助言」もあって、この年は参拝を見送った。
昭和天皇の崩御以降、この歌が歌集で公表されると、一部の首相参拝を求める国賊から、陛下が首相の参拝断念を憂慮されていたという雑音が聞こえてきた。
半世紀にわたって昭和天皇の側近を務めた徳川義寛侍従長は生前「都合のいい解釈をしている」と憤っていた。
彼の手元には、A級戦犯合祀についての昭和天皇の想いが率直に表現された別の歌が残されていた。1年前、中曽根が公式参拝した年に詠んだが、「騒ぎの種をまくことはない」と公表は見送られた。
私は、東條さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったんです。(中略)
それに、靖国神社は元来、国を安らかにするつもりで奮戦して亡くなった人を祀るはずなのであって、国を危うきに至らしめたとされた人も合祀するのでは、異論も出るでしょう。筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったんですよ。それで中曽根首相が参拝して、ワッと言われたんです。(中略)
(陛下が詠まれた歌は)合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいとも、どちらともとれるようなものにしていただいた。陛下の歌集『おほうなばら』に採録された時に、私は解題で「靖国とは国をやすらかにすることであるが、と御心配になっていた」と書きました。発表しなかった御製や、それまでうかがっていた陛下のお気持ちを踏まえて書いた。それなのに合祀賛成派の人たちは自分たちの都合のよいように解釈した。
徳川氏は「祭神には戦争を仕掛けた人もいる」とも語っていた。
護国神社は靖国と密接な関係にある。靖国の祭神は地元の護国神社にも祀られる例が多い。昭和天皇は。靖国とともに護国神社参拝もキッパリとやめていた。
今回の「富田メモ」により、昭和天皇が靖国神社への参拝をやめたのは、A級戦犯の合祀が原因だったことがはっきりした。
浅卑新聞は社説にて「A級戦犯が合祀されているところに参拝すれば、平和国家として生まれ変わった戦後の歩みを否定することになる。昭和天皇はそう考えたのだろう」と、無難な解釈をしている。
http://www.asahi.com/paper/editorial20060721.html
A級戦犯が合祀されているところに参拝すれば、マッカーサーとの「国体護持」密約を破ることになる。昭和天皇はそう考えていたはずだ。
天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐たる大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。 朕茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。 抑々東亜の安定を確保し、以て世界の平和に寄与するは丕顕なる皇祖考丕承なる皇考の作述せる遠猷にして、朕が挙々措かざる所、而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕にするは、之亦帝国が常に国交の要義と為す所なり。今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る、洵に巳むを得ざるものあり。豈朕が志ならむや。 中華民国政府、曩に帝国の真意を解せず、濫に事を構へて東亜の平和を攪乱し、遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸に国民政府更新するあり、帝国は之と善隣の誼を結び相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭を恃みて兄弟尚未だ牆に相鬩くを悛めず。米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむとす。剰へ与国を誘ひ、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに彌りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒に時局の解決を遷延せしめて、此の間却つて益々経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり。 皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘し、速に禍根を芟除して東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す。 御 名 御 璽 昭和十六年十二月八日
詔書
開戦の詔勅を発した昭和天皇は、東京裁判で、戦犯扱いとならず、ましてや参考人招致さえもされなかった。
「軍人から言うと、天皇の責任はもちろんある。最高指揮官であり、私たちは開戦の詔勅を信じて命をかけて戦った。命令した人に責任がないなどということはありえない」ゼロ戦による撃墜王・坂井三郎海軍中尉
A級戦犯が、「国体護持」のために、米帝への生贄とされたのは明白な事実。東京裁判A級戦犯28名中、絞首刑となった者は7名。そのうち、陸軍出身の軍人が東條を筆頭として6名を占める。あとの1人は文民の元首相・外相の広田弘毅。日本海軍の軍人は、海軍大将・海軍大臣を務めた嶋田繁太郎ただ1人のみ。終身禁固判決を受けるも、1955(昭和30)年仮釈放後、赦免され、92歳まで長生きしている。
これは、何を意味するのか?
東京裁判は、裁判の進行と冷戦への転換の過程がほぼ平行していたため、東京裁判の主導権を握った米帝の防共を目的とした対日宥和政策が裁判の性格に重大な影響を及ぼすこととなった。裁判長や主席検察官の任命自体がマッカーサー元帥の権限に属していた。
天皇との「密約」に従い、「国体護持」を前提とした東京裁判によって、昭和天皇は「生かされ」、米帝に日本統治の道具として利用されることとなる。
首都が陥落したナチスと違い、日本は本土決戦を回避された。ポツダム宣言受諾から、米軍の先遣隊が厚木飛行場に到着する8月28日までの間に、ほぼ2週間の空白期があり、この期間を利用して軍関係文書を中心とした機密文書は徹底して焼却された。これは憲兵司令部からも命令され、自宅に所有されている文書手紙なども全部調査焼却されることが徹底された。これにより、戦争犯罪の証拠は、ほとんど無くなってしまった。この結果、東京裁判は、日本人関係者からの証言に依存する裁判となってしまった。
公文書がほとんど存在しない状況は、天皇の免責をきめていたGHQにとって大きな意味をもった。公文書が存在しない以上、天皇の「無罪」を「論証」するための「証拠」を、それ自体大きな政治的バイアスをおびた日本人関係者の供述や証言のなかから自由に選択することが可能になったからである。(吉田裕「昭和天皇の終戦史」岩波新書より)
46年3月と5月に行われた国際検察局(IPS)の尋問に、米内光政は次のように証言している。
陸軍の中堅将校が好戦派を形成したと供述した上で、満州事変や三国同盟に責任のある軍人として土肥原賢二と板垣征四郎の名前を、日本のファシズム化を推進した軍人として武藤章の名前を再三にわたってあげ、武藤を陸軍の中堅層の政治的代弁者であったと断言している。また、政治家のなかでは、松岡洋右が陸軍の影響下にあったと供述している(同上)
東京裁判のキーナン主席検察官は緒方竹虎に言わせれば「米内の善き理解者」であったという。
また、岡田啓介(首相・海軍大臣)は、天皇や重臣の多くが太平洋戦争の開戦に反対であったことを強調しながら、彼らが陸軍と正面衝突までして阻止しなかった理由についても説明し、もし陸軍との正面衝突になれば、陸軍が天皇に退位を強要して全権を掌握する可能性があったとしている。また、荒木貞夫陸軍大将が陸相時代に天皇を退位させ、ヤング・プリンス≠即位させる計画をもっていたとも供述している。
このように、海軍側の重臣たちにより、巧妙に陸軍の有罪が印象づけられていった。よって、陸軍側のみが絞首刑となったと言えよう。海軍側には陸軍よりも親米派が多く、米帝にとって利用しやすい存在であったことも記しておく。
昭和天皇にとって2・26事件以降、陸軍の中堅幕僚層の政治的行動に対しては終始警戒しており、田中義一、宇垣一成、小磯国昭などの陸軍出身の政治家には、はっきりとした不信感を抱いていた。
それは、GHQに対する、「東京裁判」弁明書と解釈される、所謂「独白録」のなかでハッキリと好悪の感情を告白している。
さて、ここからは余談となる。
この「富田メモ」は、靖国肯定者の持論、「昭和天皇は、三木首相の私的参拝が問題となったので参拝しなくなった。A級戦犯の合祀が理由ではない」という持論が覆されるという、衝撃的な内容であった。
しかし、「諸君」や「正論」に群がる自称「愛国者」から、早くも否定する内容が出ている。
特に、シンゾーは23日の講演で
「国際法の慣例では、講和条約が結ばれたら戦争裁判の判決や刑は無効になる」と言っているが、それならば、上記した嶋田繁太郎は、なぜ講和後すぐに釈放されず、4年後の、1955(昭和30)年仮釈放後、赦免されたのか。
日刊ゲンダイによれば、安倍の暴論にはこんな解説≠ェある。
「天皇メモにある『A級が合祀され、その上 松岡までもが』とある松岡洋右は日独伊三国同盟を結んだ元外相ですが、その松岡は安倍と縁戚。松岡の妹が安倍の祖父・岸信介の叔父と結婚しているのです。安倍が縁戚の松岡を批判する天皇発言を快く思っていないとすれば、なんとも度量の狭い政治家ということになります」(事情通)
天皇は「独白録」のなかで、日本を米英との対決に持っていった三国同盟を締結した責任者の松岡洋右を「松岡は2月末に独乙に向い、4月に帰って来たが、それからは別人のように非常な独逸びいきとなった。恐らくはヒトラーに買収でもされたのではないか」と批判している。
天皇だけではなく、IPSの尋問に応じた日本人証言者の多くが、松岡洋右を戦争責任者と名指ししていることは事実である。そして、戦犯・岸信介の名も多く証言され、また、ほとんど全部の日本人証言者が「太平洋戦争の正当性を否定した上で、自分はその戦争に反対だったと供述している」(吉田裕「昭和天皇の終戦史」岩波新書より)
▲このページのTOPへ HOME > 政治・選挙・NHK24掲示板