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閣僚の口から出た「敵基地攻撃論」は早く攻撃したい、武力行使できる日本になりたいという本音が表れてしまった格好のようである。
専守防衛の原則が崩れる 敵基地攻撃能力【西日本新聞社・社説】
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/column/syasetu/20060714/20060714_001.shtml
麻生外相が「金正日に感謝しないといけないのかもしれない」と口走ったことは、9条さえなければとっくに攻撃していたかもしれないと思わせるものだ。
相手がアメリカなら下手にでるが、北朝鮮なら勝てると踏んでの彼らの発言でもあろう。半世紀前の朝鮮戦争が今起こったなら、参戦する意思を示すかもしれない。それほど今の日本は戦争に対する心構えとシミュレーションを示したがっている。ここで改憲でもされようものなら、一気に武力行使のタガは外されるというもの。
欧州の大学で歴史学教授が出した「人間は何をしてきたか」という試験問題に対し、最高点を得た答案が「平時には戦争の、戦時には平和のことを考えてきた」という内容のものだったという。
60年という平和の時間の中で、戦争へのイメージを大きく膨れ上がらせ、平和に慣れた人々に危機意識を植え付けるものが北朝鮮の存在である。北朝鮮が崩壊しようが、体制維持しようが、タカ派の政治家たち・武装国家を願う人々にとってはとてもありがたい存在であることには間違いない。
危機感に翻弄され、ヒステリックになる国民は彼らにとっておいしい餌であることを忘れてはいけない。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/column/syasetu/20060714/20060714_001.shtml
専守防衛の原則が崩れる 敵基地攻撃能力
北朝鮮の弾道ミサイル連続発射を受けて、自衛隊に敵の基地を攻撃できる能力を持たせるべきだという議論が政府・自民党内で急浮上している。
政府・自民党内の一部に以前からあった「敵基地攻撃能力保有論」ではある。が、いまは北朝鮮の「暴走」を制止し対話の場に引き戻そうと、国際社会挙げて外交努力をしているさなかである。
この時期「専守防衛の範囲」見直しにつながる敵基地攻撃論の再燃は、北朝鮮脅威論に便乗した先制攻撃論との誤解を国際社会に招きかねない。それは日本外交にとっても得策ではないはずだ。
議論の口火を切ったのは額賀福志郎防衛庁長官である。「国民を守るためなら独立国家として限定的な攻撃能力を持つことは当然」と語り、敵基地攻撃能力を保有しておく必要性を指摘した。
麻生太郎外相も「ミサイルが日本に向けられるなら、被害を受けるまで何もしないわけにはいかない」と表明した。これらの指摘を受け、安倍晋三官房長官は「今後そういう能力を持つべきかどうか、議論を深めていく必要がある」との考えを示した。
北朝鮮が日本に向けてミサイルを撃ってくる前に、発射基地を先制攻撃して破壊する。そのための攻撃用兵器と装備を日本は持っておくべきだというわけだろう。安倍長官は後日「先制攻撃論ではない」と否定したが、周辺国にはそう受け取られている。
北朝鮮は日本列島を射程に収める中距離弾道ミサイル「ノドン」を200発以上配備しているとされる。核兵器開発や拉致問題で、北朝鮮に対する日本国民の不信や憤りが高まっているなかでの、今回のミサイル連続発射である。
漠然としていた北朝鮮の脅威が現実となり、私たちは強い衝撃を受けた。国民の間に「攻撃される前に北朝鮮の基地をたたくべきだ」という声が出ているのも、感情論としては理解できる。
しかし、このような時期だからこそ、冷静に対処したい。三閣僚の発言は日本の安全保障への問題提起ではあろうが、敵基地攻撃能力保有論はわが国が防衛政策の大原則としてきた「専守防衛」を揺るがしかねない問題である。感情論に乗った短兵急な議論は避けるべきだろう。
他国から攻撃を受けた場合「他に手段がないと認められる限り、誘導弾などの基地をたたくことは法理的には自衛の範囲に含まれ、可能である」(1956年、鳩山一郎首相答弁)というのが政府の見解ではある。
しかし、法理論としては可能であっても、日本の歴代政権が選択した道は、平和憲法の理念を尊重し日米安保体制の下で「専守防衛」を基本とすることだ。
戦後60年、他国を攻撃できる軍備を持たないことで、日本は国際社会の信を得てきたのではないか。その歴史の重みをあらためて考えるときでもある。
=2006/07/14付 西日本新聞朝刊=
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