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OB記者の目:「すがすがしい日本人」増やす 黒岩徹
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060705k0000m070188000c.html
30年以上も前、外信部時代に英国留学していた時のことである。英国で2歳の息子が最初に覚えた言葉の一つが「ノット・フェア」だった。日本語でいえば、「公正じゃない」。もっと端的にいえば「卑怯(ひきょう)だよ」となる。幼い友だちと遊ぶうちに自然に覚えた言葉だった。以来、英国人の行動をつぶさに観察していると、フェアであるかどうかが行動基準となることを知った。
英国で生まれたスポーツ、たとえばゴルフでは、ボールを打った数を人が見ているいないにかかわらず、正確に申告しなければならない。フェアプレーこそ競技の基礎である。それは政治の世界でもいえる。ブレア首相が指導力を失った最大の原因は、イラク問題で、情報を操作した、議会でうそをついた、との国民の疑惑を払しょくできなかったためである。
議会でのうそは最も唾棄(だき)すべきものとされるが故に、討論の相手を「うそつき」と呼んだものは、逆に侮辱的行為をしたとしてしばらく登院停止処分を受けるのだ。
フェアの精神がまだ残っている英国と比べて日本社会は卑怯をいやしむ精神を忘れてしまった感がある。数を頼んで他人をいじめるのは卑怯である。か弱きもの、自分より弱いものを傷つけたり、殺したりするのは卑怯である。金融の番人、日銀総裁が利殖をするのは卑怯である。
「勝ち組」「負け組」といった言葉自体がフェア精神の欠如を示している。郵政民営化が日本をどう変えるか、との根本的議論なしに、反対論者に刺客を差し向け「負け組」にさせるというあこぎなやり方を政治がとれば、金融界でも法の抜け穴をくぐるM&Aで「勝ち組」になろうとするものが現れる。
新渡戸稲造は、「武士道」(岩波文庫)の中で、源平の一ノ谷の合戦に触れている。源氏の猛将、熊谷次郎直実が敵の武将を組みふせ首をはねようとしてかぶとをはらったとき、15歳の平敦盛であると知った。逃がそうとしたが、拒否され、泣く泣く若武者の首をはねた。直実は後に出家する、という話だ。猛将が弱い若者の首をはねるのは卑怯という考えが直実の中にあった。藤原正彦氏は、これを例にひいて本来の日本人は弱者を哀れむ「惻隠(そくいん)の情」にあふれていたと指摘している。
だが幕末、明治期に日本に滞在した英国人医師ウィリアム・ウィリスは、北越戦争を目撃して武士の勇気をたたえる一方「現在までのところ敵方の負傷した捕虜を一人もみていないという重大な事実を私は無視するわけにはいかない」と記し、捕虜を殺してしまう日本の武士の不当さを非難している(「幕末維新を駆け抜けた英国人医師−−甦るウィリアム・ウィリス文書」大山瑞代訳、創泉堂出版)。その後の捕虜虐待を他国から非難される原形がここにあったのだ。
日本の武士は弱きものを助けたことも、逆に殺したこともあった。民族のもつ二面性であろうか。卑怯さを嫌うすがすがしい日本人とそれを無視する高慢な日本人である。
最近報道される事件を見る限り、われわれの持つ二面性の暗い部分が露出しているようにみえる。だからいま必要なことは、卑怯な振る舞いを非難し、フェアの精神を尊ぶことではあるまいか。教師が生徒に、親が子供に「卑怯な振る舞いをするな」「他人を思いやれ」と教え込むことが大事であり、それを忘れた大人に「卑怯者め」と叫び続けることだろう。
現在勤務している女子大で、就職時期の学生に自己PR文を書かせると、「他人への思いやり」を強調するものが多い。具体的な例を聞いたり読んだりすれば、彼女たちの中に、批判されるような「自己中心的」な部分だけがあるのではない。他人を思う気持ちをもともとはもっていた、と判断できる。その心が育つ環境が少なかったのではあるまいか。大人の責任である。
若者たちが新潟県中越地震やその後の豪雪のときボランティアとしてどれだけ人のために尽くしたか、尽くそうとしたか、といった事例を見聞すれば、若者の将来を嘆くのはまだ早い。
現代社会は「金ですべてが買える」と豪語する若者を生んだ。結果オーライと思う風潮をも生んだ。だが、フェアの精神に満ちた若者もいる。彼らは原日本人の豊かな精神をもっていたのだ。
彼らをどうやって社会の指導者にすべきか。再び言わせてもらいたい。「卑怯さを憎み、フェアを行動の規範とする」ことを声高く叫ぶことであろう。「すがすがしい日本人」を日本中にあふれさせるために。(東洋英和女学院大教授)
毎日新聞 2006年7月5日 0時19分 (最終更新時間 7月5日 1時10分)
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