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8/26ティーチイン615樺美智子追善9条改憲阻止の会
封書の呼び掛けが届いた。
8月26日(土)13時半から、社会文化会館(千代田区永田町)3F第1会議室
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http://homepage2.nifty.com/ikariwoutae/starthp/newpage3.htm
60年安保の同志再び
2006年6月16日(金曜日) 朝日新聞 朝刊
かつて60年安保を闘った元全学連の「同志」たち約170人が15日、改憲阻止を訴えて国会周辺をデモ行進した=写真、筋野健太撮影。東大生、樺美智子さんの命が奪われた60年6月15日の国会突入から46年。平均年齢は70歳近い。高まる改憲論議に「死んでも死にきれない」と再び結集。
「9条改憲を阻止するぞ」
「平和主義を葬るな」と、雨の中、声を張り上げた。
きっかけは、桃山学院大名誉教授の小川登さん(70)=大阪市=が教え子からもらった今年の年賀状。「改憲の動きに先生がどうなさるのか注目しています」とあった。安保闘争以後、政治運動からは距離を置いてきたが、1人で署名活動や国会傍聴を始めた。その活動に昔の仲間たちが共鳴し、この日のデモに。小川さんは「今は昔のような体力はない。70歳なりの闘い方で改憲の流れを断ち切りたい」。
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6/15行動に賛同された皆さんへ
蔵田計成
あの日、現場でお会いした知友人の一人ひとりの笑顔を、そして、お会い出来なかった知友人の表情を想い描きながら、キーを叩きはじめたところです。
参加された皆さん、互いにご苦労さまでした。声援を送って下さった皆さんに、感謝します。固い握手も、歓談もないままに、出会いだけで、その日が終わってしまいました。せめて、「また会おうな」という言葉くらいは交わしたかったのですが、そんな瞬時もないのが心残りです。でも、互いに参加した行為が、交わした最大の言語であり、たった1キロのデモ行進の肉体的代償として得た「筋肉痛」が、友誼と連帯の証になるでしょう。
やはり、当日も雨でした。確率的には、降水60%、曇り20%、晴れ20%、というのが、ネットで調べた過去5年間の降水確率です。当日の降雨についても諸説ありました。自然現象説に始まって、死者の感涙説や悲雨説、デモつぶしの政治的陰謀説など、真顔で語る人もいました。
そのような悪条件にも関わらず、当日は、230名の参加者(予想が的中!)があり、量的には上々の成功といえるでしょうか。出発時点では約170名でしたが、解散地点では230名近くに増えていました。その他、私達の青春を彷彿させたに違いない、若い学生諸君150名の飛び入り参加組を加えれば、老と若の対極世代・400名近い堂々たる行進でした。
かって、「安保は重い」とばかり、闘わないための口実として語られていた59年初期の、「全学連書記局通信」風の表現を用いれば、「500名、堂々の国会デモ戦取」といったところですが、そんなハッタリは、今は「つわものどもの夢の後」です。しかも当時の全学連部隊が、国民会議のデモを横目に、お焼香デモを批判した構図までが、見事なまでに歴史上に再現されるという寸劇もあり、ため息混じりの感慨を覚えました。
それはともかく、先に触れたように、終着点で参加者が増えるというハプニングが起こりましたが、このような事態が発生した原因は、新聞の記事でした。警備側との取り決めが2転3転して、出発時間の変更を余儀なくされ、新聞報道の予告時間よりも早めに出発したからです。新聞記事にまで目配りしないで、コトを進めてしまった、不注意が原因でした。
ところが、心配ご無用! 遅れて参集された40名前後の人達は、突発的事態に対して機敏さを発揮し、最終的には無事隊列に合流を果たしました。以下、その見事なお手並みを報告しないわけにはいきません。
デモ隊の出発時間に間に合わなかった人達は、日比谷公園出発地点(霞門)付近で、それらしき年輩者を探し出し、声をかけ合い、グループを作り、同時刻に野外音楽堂で集会中の自治労主催者に「強訴、直談判!」して、場内放送してもらったり、自宅の家族に「ネット検索」してもらって、デモ隊の動静を把握したり、最後には、タクシーに分乗してかけつけたり、地下鉄に乗って国会議員面会所を目指したそうです。
結局、60年安中派世代が引き起こした不始末を、同世代の経験、知恵、機転という連係プレーによって、互いに補完し合い、新しい連帯の輪を広げるという、予期しない結末を迎えることが出来たのは、救いでした。
久しぶりの邂逅には、興奮に近い感動を覚えました。おそらく、闘争や運動の現場にいるかいないかに関わらず、各自が各様な思いを抱きながら、集まり散じたはずです。参加者の中には、50年代の闘争を経験したという人達のグループもあり、幾重にも重なる世代が、60年安保闘争という共通な原体験に寄せる思いと、感慨が飛び交っていたのではないでしょうか。
そのような感慨とは別に、「いま、何故6/15だったのか」「そこにあったからだよ」と自問自答を試みてはみたものの、私自身が「呼びかけ人」の立場にありながら、明快な理由と答えを用意することは出来ません。
確かなことは、歴史の逆動化現象が、剣が峰に差しかかっているという深刻な歴史認識が、頭の中を駆けめぐっているという事実です。このまま、あと1歩を踏み越えれば、果てしない暗黒の世界に転がり落ちるに違いないという、歴史的教訓と、世代的経験に学んだ「確かな予感」に突き動かされながら、それを行動へのバネにしているという事実です。
「9条改憲阻止!」という、たった1本のスローガンがもつ意味を、これほどまでに重く、ずっしりと背負い込んだ記憶は、あの「安保粉砕!」のスローガンを除いては存在していないような気もします。つまり、安中派世代にとっては、60年安保闘争が内面に刻んだ原点とするならば、9改憲阻止運動は生きてきた証として重なり合う、自己存在の原点として位置付けることができるかも知れません。
その安中派世代にとっては、実に46年ぶりの国会デモでした。2〜3人を誘い合わせて参加したある友人は、60年安保闘争のあの挫折のあと、そのまま市井にあり続けた友人です。その友人は述懐していました。
「自分にとって過ぎ去った46年間は、昔流に言えば、『長い偽装転向の歳月』ではなかっただろうか、という気もする。それを裏付ける理屈もある。『果たして、自分は何をやり残したのだろうか…。しがらみも薄れたいま、何もやらないで、このまま終わってしまうと、きっと悔いが残るだろう』という思いが、日ごとにつのるような気もするよ。」
おそらく、その友人は私同様にきっと忘れ物へのこだわりがあるに違いありません。その忘れ物を探すための、自己再生への旅立ちを試みようとしているはずです。おそらく、このような試みは、私や友人に限定するまでもなく、安中派世代に通底するような、心象風景といえるのではないでしょうか。
今回の行動への呼びかけに際して、留意したことが一つあります。それは、知友人達に対して不必要なプレッシャーを避けることでした。ところが、幾人かの知友人達は、その思惑を越えて明確な意思表示をしました。
この事実こそは、私達にとっては大いなる希望です。私達の生きざまの根底に流れ続けている、このような土壇場に際してみるような、原点への回帰志向は、ほとんどの参加者が、容易に共有できる思いかも知れません。そのような思いの総和の一端が、1000通の問いかけに対して寄せられた167通の賛同人であり、「6/15行動」に示された230名もの、最大公約数的な行動への決意性だと確信しています。
私の出身校「早大安保全学連名簿」80名中、当日のデモ参加者は、現認できただけでも24名を数えました。なかには、46年ぶりに再会した仲間も3名〜4名いました。これは「@@同窓会」の人数を上回る数字ですから、老いの中の心強さを実感させてくれました。おそらく、私同様「1度のぞいた井戸の深さは、忘れられない」のかも知れません。
問題は、この事実を確認した後の、その先にあります。9条改憲阻止運動の第二歩を何から、どこから、どのように始めるか、共々知恵を出し合っていきたいと念じています。次の行動としては、ティーチインを予定しています。
その他、皆さんのご意見を聞かせてください。どんなご意見、感想でも大歓迎です。1行でも、2行でも、心や、気持ちは伝わります。
(9条改憲阻止の会 世話人)
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追記
私の憲法第9条論(レジュメ)
第2次大戦中、すでに連合国側においては、太平洋憲章(41年)、カイロ宣言(43年)、ヤルタ協定(45年)にみるように、ファッシズム解体後の新しい国際的政治環境の中で、世界平和を実現・維持するための国際的枠組み作りが、具体的に検討されていました。
その基本理念は「国際平和主義」です。その平和理念を、現実政治の場において仮託・体現させようとしたのが日本国憲法9条です。その意味で、第9条は、世界史的教訓から学んだ、ある種の歴史的産物です。
ところが、憲法制定直後から、東西冷戦対立が始まりました。日本列島を反共不沈空母にするための占領政策の下で反古にされ、政治的現実が憲法理念から乖離を始めたわけです。
その意味で、河宮信郎も指摘しているように、日本国憲法は世界が平和を志向した、ある一時代の歴史の「隙間=瞬間」に生まれた憲法です。だから「憲法/押しつけ論」は、たんなる形式論理に過ぎません。いまこそ逆に、現実を理念に近づけていく政治的、社会的努力が問われている、というべきです。
遅れて制定されたドイツ憲法は、始まったばかりの東西冷戦下で制定されたために、平和主義を憲法条項に規定しませんでした。しかし、ドイツは戦時領有下の領土を、フランス、ポーランドに割譲して、近隣諸国に対して自国の犠牲を払って謝罪し、ナチズムを徹底的に断罪し、戦前と決別しました。
これに対して、米軍統治下の日本では、天皇の戦争責任を不問にし、国民統合の軸として温存することによって、対ソ第3次対戦に備えようとするなど、近隣諸国との戦後処理を曖昧にしたばかりか、敵視政策を日米合作で演じてきた。その後も内部の矛盾は内攻しつつも、60年安保闘争の高揚を結節点として「軽武装・高成長路線」に路線を転換させて、ひたすら経済大国への道を疾駆しました。だが、発展の基調路線は、東欧社会主義崩壊後も軌道修正させることもなく、いまや、アメリカ一極支配下の軍事一体化に示されるよな、日米軍事同盟を規定する諸関係は、半世紀を経て重大な転回点を迎えようとしています。
そうした中で、戦後処理の曖昧さがもたらした現在的な国家間矛盾は拡大しています。しかも、その矛盾を誇大に喧伝し、利用して9条改憲という「世紀の陰謀」を企てようとしています。これほど、無謀で危険な愚策はありません。何故か。9条改憲は「平和主義を葬り去ること」を意味します。その限りで、現実と理念の乖離という政治的不整合や不都合がもたらす事態よりも、日米軍事一体化、戦争国家化、武断外交への道の方が、数十倍も、数百倍も不都合で、危険この上ないわけです。しかも、果たして何発の北のミサイルが致命的脅威をもたらすというのでしょうか。むしろ、日本国憲法の改憲による歯止めを取り払う危険の度合いの方が、遙かに深刻であり、自国人民にとっても、断じて許せないのです。
戦争は、別な手段による政治の延長です。その悪しき政治としての戦争が、勝者に対しても、敗者に対しても、いかに愚かな代償を強いるか、これは明白な事実であり、過去、現在を貫く歴史の教訓ではないでしょうか。
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東京新聞2006年6月10日(土)朝刊
デモに行こう! 9条改憲阻止! 国民投票法案不要! 樺美智子追善!
6月15日 国会へ!
■2時〜3時 報告集会 場所:日本弁護士会館10階100会議室地下鉄各線とも「霞ヶ関」。優先順位:上京者・障害者・高齢者、入室不可は、隣接・日比谷公園の大噴水周辺で、待機、三々五々歓談
■3時40分 デモ出発 日比谷公園「霞門」、デモ・献花・国会請願
■5時〜6時 集 会 場所:衆院第2会館第1会議室、国会報告、問題提起:國広正雄氏、 報 告:9条をめぐる改憲阻止運動の現状
連絡先 〒160-000 新宿区四谷4-23 第1富士川ビル302 「9条改憲阻止の会」
問い合わせ 携帯 090-3087-1714 (蔵田)
呼びかけ人
青山到、味岡修、旭凡太郎、足立正生、井汲多可史、泉康子、奥田直美、栗山一夫、塩川喜信、最首悟、
平坂春雄、樋口篤三、望月彰、司波寛、鈴木達夫、鈴木迪夫、佐藤浩一、佐藤秋雄、
篠原浩一郎、仲尾宏、西村卓司、葉山岳夫、星宮昭生、前田知克、山中明、由井格
(世話人)代表 小川登、江田忠雄、蔵田計成、佐藤粂吉、平井吉夫、山田恭暉
問い合わせ・連絡先 新宿区四谷4-23 第1富士川ビル302
「9条を守る会(仮)世話人会」
行動予定が更新されましたPDFがダウンロードされます
行動アピール
いま、「グロ−バリズム」という名の資本の妖怪が、地球上を徘徊しています。民族、宗教、文化のカベを突き抜け、資本主義的市場原理主義が世界を席巻しています。それは「ジャングルの掟」と言われる「弱肉強食」と同義であり、共同体の内外に広範な社会的格差、失業、貧困を生み出しています。そればかりか、無慈悲な競争を社会原理とするがゆえに、人々の心から、連帯感、共生観、思い遣り等の人間的な心の豊かさを奪い去ってしまい、いちじるしい格差社会を生み出しています。
フランスにおいては、移民2世・3世の都市郊外暴動に続く、「新雇用法阻止」をめざした300万人の勝利的な街頭デモが展開されました。この街頭デモは、若年労働市場への新自由主義的な規制緩和、企業への柔軟化政策に対する労働者や学生の抵抗と反乱であり、議会制民主主義を越えた直接行動として、フランス的伝統の自己実現を図った闘いといえます。さらに、アメリカにおける移民法阻止を掲げた200万人の抗議デモも、現行の資本主義的繁栄が周縁部に波及・胚胎する矛盾を満天下に露呈しました。
極東アジアにおいては、どんな事態が進行しているのでしょうか。「小泉靖国参拝」に端を発したせめぎ合いが、「独島」や「釣魚台」など国境をはさんだ政治的経済的対立として発現しています。これは、過去の帝国主義支配の結果としの抑圧国と非抑圧国との間の「国益」「民族益」という形をとった対立といえます。
そうした事態を背景にして、アフガニスタン、イラク侵略戦争を嚆矢とした、アメリカの「テロ・ならず者国家」への先制攻撃論のしり馬にのって、帝国主義世界戦略の再編や戦略的転換と直接連動しながら、国内の「有事立法」や「周辺事態法」をもって本格化した日米軍事一体化をめざした、世界=極東軍事戦略の大転換がなされようとしています。そこには戦時体制への切迫した臨場感さえ伝わってきます。戦後60年余の歴史が、いまやかってない危険・破局・混沌の危機へと突き進んでいるかのようです。
事態の本質は誰の目にも明らかです。万が一、国家権力の行使に縛りをかけていた憲法、とくに第9条の「平和主義」条項のタガが、いったんはずされてしまうと、事態はセキを切ったように悪夢の再現へと転がり落ちることは必定ではないでしょうか。最悪の事態への切迫感や危機意識を、行動への逆バネにして、おそまきながら行動を開始すべきではないかと考えるに至りました。
今後、討論を深めていくのは当然としても、改憲阻止闘争がめざすべき唯一最大の目標は明快です。憲法9条が掲げている「戦争放棄(戦争しない)」(1項)と、その証としての「戦力の不保持、交戦権の否認」(2項)という二つの規定は、表裏一体をなしています。この第9条が掲げている「平和主義」をこそ、憲法理念として堅持するのは当然ではないでしょうか。
平和主義に徹するその最大の理由はどこにあるでしょうか。そもそも、戦争というものは本質的には国家による政治的行為の延長として継起するものです。例えば、あの太平洋戦争の開戦理由も、「自衛のための戦争」として正当化され、「国権の発動」として引き起こされました。この事実が雄弁に物語っていることは、「侵略戦争」といえども「自衛のための戦争」という論理の詐術と、「国益論」を援用することによって、容易に合理化されてしまうということではないでしょうか。この歴史の事実から引き出すべき教訓とは何でしょうか。それは、「国際貢献」等の口実のもとに海外出兵を合法化するような危険と破滅への道ではなくて、「非戦」「反戦」「平和」「共生」への道であると確信しています。
見逃すことができないのは、憲法と現実政治の乖離とその整合性という見え透いた理屈を押し立てて、改憲の正当化をはかろうとしている事実です。その背後では、「挙国一致」の国家的統合のカリスマとして、天皇制護持による民族主義や排外主義をも辞さない改憲への意図が露出しています。だが、「自衛軍」「集団的自衛権」を改憲規定し、日米軍事同盟の質的転換のもとで、アジア→中東→全世界に到る邪悪な侵略戦争への参加を合法化させることのなかに、どのような未来への希望があるというのでしょうか。
一連の改憲策動の中で見逃すことが出来ないもう一つの問題点は、国の最高法規としての憲法に対する近代法的概念を原理的に逆転させようとしていることです。つまり、これまでの近代法体系における憲法概念は、国民の側が国家権力の行使に対して「縛り」をかけるものとして、憲法を位置付けていました。ところが、自民党改憲草案は、この憲法の概念規定のなかの主客の立場を、根本的に逆転させています。国家権力の側が、国民に対する「公の秩序」「公共の利益」を持ち出して、「義務」「責務」を課し、人民主権に対して逆規制を加えようとしていることです。
「6.15国会突入闘争」から46年の歳月が過ぎました。あの60年安保闘争は、その後におとずれた「高度経済成長」と、その結果がもたらした「地球環境の深刻な破壊」という二つの経済的社会的状況にさらされる中で、固有の風化をとげた、といえるかも知れません。だが、そのこととは無関係に、いまや私達を取り巻く時代は、劇的な変貌を遂げており、政治的逆動化の真っ只中にあります。だが、多くの国民は、このような歴史への背理を決して許さないでしょう。国民の過半数が、「戦争放棄」「平和主義」に共感を示しているという社会的事実が明日への希望です。おそらく、いま眼前に進行しているこのような政治的事実と、過去の歴史の事実とを重ね合わせるならば、私達が、歴史の中から「真実」を取り出すことは可能であり、そのことが、限りなく未来への期待をつないでくれます。その期待感を実現するための唯一の手段は、いうまでもなく、私達一人ひとりが、今すぐにでも行動を開始することだ思います。
私達は、これまで何をやり残し、何を為し終えなければいけないのか、歴史への現在的な関わり方を、互いに模索しているのではないかと思います。あらためてその延長線上に、「改憲阻止」をめざした行動への参加、支援、賛同、共感等のさまざまな関係性の構築を、誠実に呼びかけたいと思います。己の行動を最初の出発点にして、一人目の友人に語りかけ、二人目の知人につなげ、三人目の他人を求めて、連帯の輪を広げていきたいと思います。他の市民運動との合流も含めて一歩でも、二歩でも前に踏み出したいと思っています。私達の仲間内には、健康に不安を持ち、杖を頼りに参加を決意している人も少なくありません。でも、共通な想いは、ギリギリの決意を込めて改憲阻止を目指し、仲間への確かな波動を希求しているということです。
併せて、志半ばで斃れた樺美智子さんや、おおくの御霊に対して、改憲阻止の決意を誓いたいと思います。世代を越えて、一人でも多くの人達が参加されるよう、心から呼びかけたいと思います。
呼びかけ人一同
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北海道新聞 06/6/3 記事(8段抜きコラム)
元全学連 46年ぶりデモ
あの日と同じ「6・15国会周辺」
60年安保を闘った学生運動組織・全学連(全日本学生自治会総連合)の元メンバーたちが15日、憲法九条の改正反対を訴え、国会周辺でデモを行う10万人が国会を取り囲んだ大衆デモから46年。その後、当時の全学連関係者が集結しデモを行うのは初めてという。平均年齢70歳近い元学生たちは「若さは失ったが、平和への思いは変わらない」と意気軒昂だ。(編集委員 嵯峨仁朗)
平和への思い 今も変わらない
9条改正反対呼び掛け 樺さん追悼も
桃山学院大名誉教授の小川登さん(70)=大阪市=、著述業蔵田計成さん(71)=東京=ら33人が世話人・呼びかけ人となり企画した。みな当時の全学連の役員・主要メンバーだった人たちだ。
デモは15日午後4時、東京・日比谷公園を出発。46年前の「6・15デモ」で警官隊との衝突の際亡くなった女子学生樺美智子さんの遺影を掲げ、約一時間かけて霞ヶ関から国会周辺を行進する。樺さんが死亡した南通用門で献花を行う。今回は「国会突入」のない順法デモだ。
きっかけは、今年1月、小川さんに届いた教え子からの年賀状だった。「憲法改正の動きに、先生はどうなさるのか注目しております」と添え書きがあった。60年代の「政治の季節」が終わった後、政治運動から距離を置いてきた小川さんは「今こそ動かなければ」と心を揺さぶられた。「遺言状を書くつもりでの再出発だった」署名運動や国会傍聴など小川さんの動きを知った全学連時代の知人たちの輪が広がり、「6・15デモ」再現に行き着いた。軍国主義と飢えの時代を知り戦後民主主義の洗礼を受けた世代に、平和憲法は特別な輝きがある。
「9条改正は見逃せない問題」と世話人の蔵田さん。「ここに至るまで、もっと何かできなかったのか、責任を果たしてこなかったという悔いがある。無念さを抱いて人生を終わりたくない」
蔵田さんらは5月下旬、全国の元全学連関係者ら千人にデモ参加を呼び掛ける手紙を送った。手紙を受け取った北広島市の主婦白石コウさん(65)は「あの後、それぞれ違う道を歩んできた同士がまた連帯できる」とうれしかった。全学連メンバーではなかったが、短大時代にデモに加わった。「当時は学生デモに市民がどんどん入ってきて大きく膨らんだ。今は政治への関心が低すぎる」と嘆く。15日は都合で参加はできないが、憲法を読む会など身近でできる運動で連携したいという。
約千通のうち、既に亡くなったり住所不明だったりで戻ってきた手紙も少なくない。
「賛同できない」と返事してきた人たちもいる。蔵田さんはいう。「いったい何人が再結集するのか、それもまた楽しみです」
あの日と同じ「6・15国会周辺」憲法9条を守れ! (東京新聞 2006年6月10日 朝刊)
元全学連46年ぶりデモ
60年安保を闘った学生運動組織・全学連(全日本学生自治会総連合)の元メンバーたちが15日憲法9条の改正反対を訴え、、国会周辺でデモを行う計画を進めている。1960年6月15日、日米安保条約改定に反対する学生、市民約10万人が国会を取り囲んだ大衆デモから46年、平均年齢70歳近い元学生たちは「若さは失ったが、平和への思いは変わらない」と意気軒昂だ。
桃山学院大名誉教授の小川登さん(70)=大阪、著述業蔵田計成さん(71)=東京=ら33人が世話人・呼びかけ人となり企画した。みな当時の全学連の役員・主要メンバーだった人たちだ。
デモは15日午後4時、東京・日比谷公園を出発。46年前の「6・15デモ」で警官隊との衝突の際亡くなった女子学生樺美智子さん=写真=の遺影を掲げ、約1時間かけて霞ヶ関から国会周辺を行進する。樺さんが死亡した南通用門で献花を行う。今回は"国会突入"のない順法デモだ。
きっかけは、今年1月、小川さんに届いた教え子からの年賀状だった。「憲法改正の動きに、先生はどうなさるのか注目しております」と添え書きがあった。60年代の「政治の季節」が終わった後、政治運動から距離を置いていた小川さんは「今こそ動かなければ」と心を揺さぶられた。「遺言状を書くつもりでの再出発だった」
署名運動や国会傍聴など小川さんの動きを知った全学連時代の知人たちの輪が広がり、「6・15デモ」再現に行き着いた。軍国主義と飢えの時代を知り戦後民主主義の洗礼を受けた世代に、平和憲法は特別な輝きがある。「9条改正は見逃せない問題」と世話人の蔵田さん。「ここに至るまでもっと何かできなかったのか、責任を果たしてこなかったという悔いがある。無念さを抱いて人生を終わりたくない」
蔵田さんらは5月下旬、全国の元全学連関係者ら約千人にデモ参加を呼び掛ける手紙を送った。
約千通のうち、既に亡くなったり住所不明だったりで戻ってきた手紙も少なくない。「賛同できない」と返事してきた人たちもいる。蔵田さんは言う。「いったい何人が再結集するのか、それもまた楽しみです」
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