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いざとなったらこれで死になさい (特別連載「戦争責任/戦後責任を考える」(1))
http://www.asyura2.com/0601/senkyo23/msg/508.html
投稿者 Kotetu 日時 2006 年 6 月 30 日 19:45:38: 7m23/iYy5J8l2
 

(回答先: 「大江健三郎・岩波書店訴訟」が狙うもの/鈴木龍治/06/03/15 投稿者 Kotetu 日時 2006 年 6 月 30 日 19:22:28)


『カルチャー・レヴュー』54号

■特別連載「戦争責任/戦後責任を考える」(1)■

いざとなったらこれで死になさい
野原 燐


  <1>

「一九四五年三月、米軍が沖縄列島ではじめて上陸した慶良間諸島で、住民たちが集団で自殺したということが起こりました。渡嘉敷島で、三百人以上、座間味島で百数十人が死に(あるいは殺され)ました。」大江健三郎は、2005年8月16日付けの朝日新聞・朝刊の連載エッセー「伝える言葉」の冒頭で、こう書いている。

「私はいま、一九七〇年に書いた『沖縄ノート』(岩波新書)での、慶良間諸島の集団自殺をめぐっての記述で、座間味島の当時の日本人守備隊長と、渡嘉敷村の同じ立場だった人の遺族に、名誉毀損のかどで訴訟を起こされています。」世界の大江が訴えられるという事件が最近起こっているのです。その割には話題になってないようにも思うがどうだろう。大江自身この文章で「私はこの裁判についてできるだけ詳しい報道がなされることを願っています。」と書いている。意外な反響の無さに大江自身も戸惑っているようにも思える。

 じつはわたしは「この裁判」そのものについてそれほど興味があるわけではありません。だが、この辺境の島の集団自殺をどうとらえるかは、「大東亜戦争」をどう捉えるかの根幹に関わる問題であるとも言えるだろう。そこでもう少し書いてみたい。
 わたしのブログ(下記参照)では、7月24日以降何度かこの問題を取り上げました。

 原告の日本人守備隊長たちの主張は、「大江氏らは、これらの島に駐屯していた旧日本軍の守備隊長の命令によるものだったと著書に書いているが、そのような軍命令はなく、守備隊長らの名誉を損ねたとしている。」といううものらしい。わたしはこれを読んで、ふーんといぶかしく思った。「そのような軍命令」があったかどうかを争おうとしている。だいたい守備隊長に住民の自決を命じる権限が法的に存在したのかどうか分からない。仮に権限がなかったとすればそれは命令ではなく依頼ということになろう。つまり法的には「軍命令」というものは存在しなかったということになる。おそらく原告はこれに類するトリヴィアルな法廷戦術を駆使して「命令はなかった」と言いつのるつもりだろう。原告に幾分かの勝ち目はあるだろう。とわたしは思った。

 しかしいぶかしい思いは残る。守備隊長の本当の名誉はそんなことで回復されるのだろうか。たくさんの日本人を死なせてしまったことへの悔恨はいま彼のなかにはないのだろうか。

 この提訴は最初から論点のすり替えを意図しているように思える。裁判の論点はどうあれ、わたしたち市民〜国民にとっての論点は、「国軍が市民(国民)を守る」という建前が崩れたかどうか? であろう。「国軍が村の上層部などと一体になって働きかけることにより、たくさんの市民の「自決」が行われた」ことはどうあがいても動かせないのではないか。

 当時の日本軍は「生きて俘虜の辱めを受けず」という命令を住民に強制しようとしていた。「自決」した住民たち(女性子ども老人が多い)は被害者であり、皇軍は加害者である。
 軍人は「命令を出さなかった」と主張しているようだが、仮にそうであるとして彼らの存在が被害者を作ったという因果関係は明らかにある、と言えるようだ、次の林博史氏の論文「「集団自決」の再検討」を読めば。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm

 また、林博史氏は別のインタビューでこう答えている。

 ■「集団自決」に至る背景をどうとらえますか。
 「直接だれが命令したかは、それほど大きな問題ではない。住民は『米軍の捕虜になるな』という命令を軍や行政から受けていた。追い詰められ、逃げ場がないなら死ぬしかない、と徹底されている。日本という国家のシステム が、全体として住民にそう思い込ませていた。それを抜きにして、『集団自 決』は理解できない。部隊長の直接命令の有無にこだわり、『集団自決』に軍の強要がないと結論付ける見解があるが、乱暴な手法だろう。」http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper55.htm

 わたしたちはすでに当時の沖縄の一般住民がどのような雰囲気のなかにおかれていたのかをうまく想像できなくなっている。林氏の文章からもう一ヶ所引くと、次のように「一人十殺」なんていう荒唐無稽なスローガンが、兵士に対してではなく、住民に対して真顔で強力に注入されていた、ということが分かる。

  軍は「県民の採るべき方途、その心構へ」として「ただ軍の指導を理窟な しに素直に受入れ全県民が兵隊になることだ、即ち一人十殺の闘魂をもつて 敵を撃砕するのだ」とし、この「一人十殺」という言葉を「沖縄県民の決戦 合言葉」にせよ、と主張していた(前掲『沖縄新報』一九四五年一月二十七 日)。(林博史)http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper04.htm
 
住民が「竹槍で米軍に勝てると本当に信じこまされていた(同上より)」というのは今の感覚からはどうも信じがたい。だが何が何でも竹槍で突撃だ! という方向に追い立てられていったことは確かなのだろう。

 大量の「自決」者を生んでしまったのは、皇国皇軍の構造的問題であり、それを一人部隊長に負わせるのは酷だという理屈は成り立たないことはないだろう。しかし皇国皇軍の構造的問題の批判は六〇年経っても充分出来ていないのだ。それなしにこうした裁判を提起することは、結局構造的問題はなかった(=一部の住民が自発的に死んだだけ)ということになる。一部の住民はなるほど無学だったかもしれないが、馬鹿だったわけではない。犠牲者を馬鹿にするのは許されない。

  <2>

 かって曾野綾子によって問題とされ、さらに今回名誉毀損裁判を起こされるに至った大江の「沖縄ノート」の一文とは次のようなものである。

 「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことだろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて 罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。」(『沖縄ノート』210頁)

「A大尉を、大江健三郎氏が「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。」と曾野は言っている(註1)のだが、この文章をそう読むことはできない。

 この文の主語たる彼、あるいは「責任者」は「自己欺瞞と他者への瞞着の試みをたえずくりかえす」者である、つまりそれを悪であると大江が指弾していることは確かだ。しかしながら「自己欺瞞」というキーワードが明らかに示すように、この文章は大江特有の実存主義的臭気にみたされている。罪といっても権力の発語する罪とは違い、Aという実在の人を白日の下に罰に導く力を持っているものではない。「たえずくりかえしてきたことだろう」という述語により「責任者」という主体は現実世界からズレ、自己(他者)瞞着を逃れえない実存の世界の住人となるのだ。そこにおいては、「彼」を指弾することは、「かれの内なるわれわれ自身」を指弾することでもなければならない。

 「あまりにも巨きい罪の巨塊」は<わたし>の前にごろんところがっている。つまり予め<わたし>と罪が結ばれているわけではないのだ。だのに<わたし>は、否認しなければという思いに駆られ、その「巨塊」をかみ砕きすり減らそうとする。それは確かに見たところ希薄化していく。しかしその努力こそが“わたしの内に罪を”根付かせるのだ。大江が言っているのはこういうことに近い。したがって「赤松大尉を、大江健三郎氏が「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。」というのは、虚偽である。

 ところで、Aさんに対し、「国民を守るべき「皇軍」の一員としての「集団自決」を阻止しなかった/認容した「政治上の罪」(集合責任)はあるだろう」といえるだろうか?

 たぶん言えるだろうと思う。だがAさんの責任について論じるためには、その時そこで何が在ったのか、を私自身追及し納得しなければいけない。わたしはすでにこの問題に言及しており関わってしまっているともいえるが、その島で起こった事件の総体とAさんとの関わり、責任について論じる準備はとうてい無い。

「小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。軍医は「この子は助かる見込みはない。今にもショック死するだろう」と言った。まったく狂気の沙汰だ。」と 『ニューヨーク・タイムズ』のウオーレン・モスコウ記者は45年3月29日付の報道のなかにあるそうです。
 この文章の存在には反するのですが、全き狂気をひとは観察し記述することがどのように可能なのでしょうか。

 絶対的な犠牲者、それは抗議することさえできない犠牲者です。人はそれを犠牲者として同定することすらできません。それは、自己をそれとして提示=現前化することさえできないのです。(略)
 全歴史が諸力の抗争の場であり、そこで問題なのは、読みとれなくすること、排除すること、排除しつつ措定すること、排除しつつ支配的な力を押し つけること、つまりただ単に犠牲者たちを周縁に追いやり、のけ者にするだ けでなく、犠牲者たちのいかなる痕跡も残らないようにし、彼(女)らが犠牲者であるという事実を人が証言することさえできなくし、あるいは犠牲者たちがそのことをみずから証言することさえできなくすることなのです。(デリダ「パサージュ」註2)

 「たぶん」ではなく、Aさんの責任について法的にも、「政治上の罪」(集合責任)としても語られなければいけない。
 死んでしまった者は絶対的に何も語れない。そして60年体験者が死に絶えたのを待って訴訟が提起される。

「犠牲者たちのいかなる痕跡も残らないように」、「死を知らず、死について語られることを欲しない」「絶対悪」が裁判を起こしている。永劫無窮の名前のない国家がその「絶対悪」なのであろうか。

(註1)http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html第34回司法制度改革審議会議事録
(註2)p270高橋哲哉『デリダ』より孫引き isbn:406265928X

★野原による関連表現の一部、は下記にあります。
 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050724#p3
 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050816#p2

■プロフィール■
(のはら・りん)1953年、兵庫県生まれ、男性。18歳のときペンネーム「野原ひとし」を名乗る。その後「野原燐」に改名。1975年、松下昇氏に出会い以後大きな影響を受ける。http://members.tripod.co.jp/noharra/と ブログ「彎曲していく日常」があります。

http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re54.html

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