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出典 http://anarchist.seesaa.net/article/18824439.html#more
「武士道ブーム」は世襲バカの隠れ蓑----(反米嫌日戦線「狼」美ハ乱調ニ在リ)
戦国時代の武士の実態は、死を恐れ、簡単に戦場から逃げ出していたのだ。
死を恐れず滅私奉公したなどというのは嘘っぱちである。
6月3日付日刊ゲンダイのコラム「総中流崩壊 ネオ階級社会ニッポン」で作家の林信吾氏が、品のないハゲ藤原の「国家の品格」を「言葉の端々に、エリートをもっと大事にしろという考えが透けて見え、はっきり言って始末の悪い本」だと断罪している。
戦国時代、大きな合戦でも戦死者は意外に少なかったということをご存じだろうか。
もちろん、刀や槍を用いての戦いと、ミサイルが飛び交う現代の戦争を同一視することはできないが、理由はそれだけではない。
実は、形勢不利だとみるや、さっさと逃げ出す武士が多く、負ける時はあっという間に総崩れになるため、かえって死者が少なかったのである。
逃げた理由は簡単で、功績を挙げれば恩賞や加増(領地が増えること)といった見返りがあるが、逆に戦死した場合は、遺族に対する保障などなかったからだ。
わが国の武士が、昔から死を恐れず滅私奉公したというのは、大いなるフィクションである。
(中略)
数年前から、武士道というのがブームになっている。
今年は藤原正彦氏の「国家の品格」という本がベストセラーになった。
この本の中でも、「惻隠の情」であるとか、武士道の教えが紹介されている。
教養主義の復権を主張したいようだが、言葉の端々に、エリートをもっと大事にしろという考えが透けて見え、はっきり言って始末の悪い本だと、私は思う。
藤原氏をはじめ、武士道を称賛する人たちの多くに共通するのは、世襲の特権階級であった「武士」と、抽象的な存在である「サムライ」の区別がついていないのである。
くどいようだが、戦国時代の武士が戦場に赴いたのは、なによりも自身の利得のためであった。
だからこそ「死んで花実が咲くものか」というのが共通認識で、命がけの働きに報いてくれない君主など、さっさと見限って当然だった。
「七度牢人(浪人)せねば一人前の武士に非ず」とまでいわれたのだ。
それが、封建制が確立し、武士が戦闘要員から官僚に変質した。
そればかりか、親の職責と収入がそのまま世襲されるようになったのである。
努力して地位と収入を得たのではない、ということに対する、一種のエクスキューズとして、滅私奉公というモラルが打ち出されてきた。
これが武士道の本質である。
したがって、「武士道を復権させれば日本人がモラルを取り戻すことができる」などというのは、「世襲エリートのために大衆は滅私奉公しろ」という、ネオ階級社会の論理に過ぎない。
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[コメント] 「狼」さんの記事に私なりに付け加えさせて頂けば、「主人公同化症候群」とでも言いましょうか。
面白い小説を読んで、その主人公に同化して小説を楽しむ。
そしてなり得る筈のない(なりえる事などできない)理想的な武士、侍に自分の精神世界まで同化してしまう。
自信や自負を持つ事は重要なのだけど、自分とは何も関係の無い世界にのめり込んで、批判精神を失ってしまうようではこれは立派な中毒・洗脳では?・・・・・・
そう言えばハリウッド映画で「ラスト・サムライ」なんて映画があったが、何でハリウッドがあんなモチーフの映画を作ったのか不思議だった。
今にして思えば、やはりこれも「洗脳」のための手段だったのかもしれない。
いずれにせよ為政者によって作られ美化され「精神論」の世界に必要以上にのめりこむのは「危険では」と思うのであります。
ちなみに近代社会は個人の解放を原動力として発展した来たとする説もある事を申し添えておきます。
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