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2006年06月03日
自称「愛国者」は信用できない---------(反米嫌日戦線「狼」(美ハ乱調ニ在リ))
右翼の鈴木邦男さんは、本人も言っているが、日本一の愛国者だ。
公安警察に弾圧されながら「一水会」を始めとする愛国運動を40年間もやってきた。
国歌「君が代」は5000回以上も歌った。
国旗「日の丸」も同じくらい掲揚し、靖国神社には500回も参拝した。
「教育勅語」も暗誦している。
名前「邦男」も邦を愛し、救うためとの意味が込められている。
憂国の士である鈴木さんが、近頃の「右傾化」し「愛国心」を強制しようとする日本は変だと、『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)を書き上げた。
冒頭、「私の愛国心…まえがきに代えて」で鈴木さんは言う。
自分としては(愛国運動を)命を懸けてやってきた。
しかし世の中は変わらない。変わりつつあるかなという小さな手応えもない。
天皇、愛国心、改憲、日の丸、君が代はタブーだ。そんなことを言う人間は「右翼」の一言で否定された。
ところが、最近、急に世の中が変わった。世相というか国民の意識が変わってきた。ソ連が崩壊し、東欧もなくなった。
日本だって左翼がいなくなった。
その途端、にわか右翼、オタク右翼、新保守がドッと増えた。
ネット右翼も大増殖した。
この時とばかり政府も、日の丸・君が代を強制している。
近いうちに改憲もされるだろう。教育基本法には愛国心を明記せよと言う。
僕でさえ戸惑うほどだ。
歴戦の猛者であり日本一の愛国者と自任する僕ですら戸惑う。
そればかりか、にわか右翼の青年たちから「鈴木は愛国心が足りない」と批判される。
またちょっと考えが違うと右翼から「売国奴」「非国民」と言われる。
愛国者ゆえに日の丸・君が代は大切にすべきだと思うし〈強制〉なんてすべきじゃない。
日本はもともと寛大な国なんだし、在日の人々の参政権を認めたらいい。
そう発言しただけで「売国奴」と罵られる。
でも自分としては愛国心の故だ。学生時代のような偏狭な愛国心ではないが、より進化した寛容な愛国心だ。
だが、今はそんな愛国心は受け入れられない。
まるで現在の自分が過去の自分によって裁かれているようだ。(中略)
もちろん40年の愛国運動には悔いはないし誇りは持っている。
同時に反省すべきことも多いし、間違いも多い。
愛国心を表そうとして暴走したことも多い。
また愛国心さえあればすべてが許されると思ったこともある。
それだけ、愛国心は扱いが難しい。
ところが、今の日本は、「ともかく愛国心を持て」「愛国心は常識だ」「愛国心さえ持てばいい生徒、いい日本人になれる」と言っている。
冗談じゃない。
そんな単純なものではない。
だから、この本では初心に返って愛国心とは何か、を考えてみた。
愛国心は宝石にもなるし凶器にもなる。一面だけを見るのは危険だ。
その素晴らしさと危うさの両面を皆に教えてやろう。
うん、これは僕にしか書けない本だろう、といささか自負している。
右翼の鈴木さんが危惧するほど、「愛国心」とは危険なもので、出版したのは、まさに国を憂う、「憂国」の心情から来たものだと思うのだ。
そして、鈴木さんが恐れていたことが現実となった。
近頃、男根作家イシハラ東京都教育委員会による「日の丸・君が代強制」が問題となってきたが、遂に、教育の場は、生徒の「愛国心」を通知表で評価する時代になってしまったのだ。
「愛国心」通知表 問題あり
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-05-30/2006053001_01_0.html
共産党涙の機関紙「赤旗」によれば、判明しているだけで、岩手、埼玉、茨城の各イナカで通知表での「愛国心評価」が行われているのだ。
どのようなことで、「愛国心」があると判断しているのか?
音楽の授業で「君が代」を大きな声で歌っている?
皇室を褒め称え、尊敬している?
家では、祝日に「日の丸」の旗を玄関に立てている?
普段から、政府自民党の批判はしないか?
新聞は、「産経新聞」を読んでいるか?
中国や韓国が嫌いであるか?
まったく評価の基準がわからない。
ましてや、評価する教師自身が「愛国者」でなければ、評価は成り立たない。
いったい誰が、どのように判定するのか????
鈴木さんは、三島由紀夫が68年1月8日の朝日新聞に書いた愛国心批判「愛国心…官製のいやなことば」を本の中で紹介している。
実は私は「愛国心」という言葉があまり好きではない。
何となく「愛妻家」という言葉に似た、背中のゾッとするような感じを覚える。
この、好かない、という意味は、一部の神経質な人たちが愛国心という言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがっている。
ただ何となく虫が好かず、そういう言葉には、できることならソッポを向いていたいのである。
この言葉には官製のにおいがする。
また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。
反感を買うのももっともだと思われるものが、その底に揺曳(えうえい)している。
愛国心の「愛」の字が私はきらいである。
自分がのがれようもなく国の内部にいて、国の一員であるにもかかわらず、その国というものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するというのが、わざとらしくてきらいである。
もしわれわれが国家を超越していて、国というものをあたかも愛玩物のように、狆(チン)か、それともセーブル焼の花瓶のように、愛するというのなら、筋が通る。
それなら本筋の「愛国心」というものである。
日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であって、「愛」ではない。
もしキリスト教的な愛であるなら、その愛は無限定無条件でなければならない。
従って、「人類愛」というのなら多少筋が通るが、「愛国心」というのは筋が通らない。
なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである。
愛国心は国境を以て閉ざされた愛が、「愛」という普遍的な擬装をしていて、それがただちに人類愛につながったり、アメリカ人もフランス人も日本人も愛国心においては変わりがない、という風に大ざっぱに普遍化されたりする。
これはどうもおかしい。
もし愛国心が国境のところで終わるものならば、それぞれの国の愛国心は、人類普遍の感情に基づくものではなくて、辛うじて類推で結びつくものだと言はなくてはならぬ。
アメリカ人の愛国心と日本人の愛国心が全く同種のものならば、何だって日米戦争が起こったのであろう。
「愛国心」という言葉は、この種の陥穽を含んでいる。
(中略)
アメリカと日本では、国の観念が、こういう風にまるで違う。
日本は日本人にとってはじめから内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的である。
観念の上ではいくらでもそれを否定できるが、最終的に心情が容認しない。
そこで日本人にとっての日本とは、恋の対象にはなりえても、愛の対象にはなりえない。
われわれはとにかく恋している。
これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である。
鈴木さんは、「日本とは、恋の対象にはなりえても、愛の対象にはなりえない」という三島の文章をこう解釈する。
日本への愛なんていらない。ひたすら恋していればいい。そう言うのだ。
愛は表に出るし、強制もする。見返りを求める。
ところが恋は一方的だ、秘めた心情だ。
一生口に出さない恋もある。胸の奥深くしまっておく恋心だ。
日本人も、そうした恋心を日本に持てばいい。そういうことだろう。謙虚な心情だ。
たしかに「愛している」という言葉は、恥ずかしくてむず痒い言葉だ。
何かぎこちなくて……うーむ、ベッドの中でしか言った記憶がないよ。
だいたい俺は「愛妻家」だなどという奴は胡散臭い者に思う。
自分は「愛国者」などと言う輩はなおさらだ。
ところで、「愛国」と似た言葉に「憂国」という言葉がある、その違いはなんなのか、鈴木さんは語る。
まず、愛国は保守的であり、憂国は革新的である。
フィヒテの友人のように、愛国はともかく(国の)美点を見つけ出し誉めなくてはならない。
「この日本を愛する、好きだ」と言う時は、この日本のすべてを認め、愛する。現状容認だ。
これを変えるのは嫌なのだ。
現状維持的であり、保守的であり、受身だ。
憂国は、この国の現状を憂うるものだ。
もちろんこの国は好きだし、愛情はある。
しかし、これでいいのかと怒り、憂うるのだ。
ここがダメだ、ここがダメだと指摘する。
愛国は長所・美点を探すが、憂国は欠点を指摘する。
これからいけば、俺は「憂国」者ということになる。
2・26事件の青年将校が好きだし、野村秋介さんの生き様も好きだ。
鈴木さんは俺がリスペクトする左翼アナーキストの東アジア反日武装戦線「狼」も憂国であると書いている。
鈴木さんが野村さんと対談したとき、野村さんは次のように言っている。
《狼》には直接的なつながりは何もないし思想的に一致するところもない。
しかし、三島事件のこだまが《狼》になって出てきていると思うし、この《狼》の行動が今度は右の方に反響すると思うね。
僕は絶対にそう思いますよ。
現にその表れが『腹腹時計と〈狼〉』(鈴木さんの著書)になって出てきてるんだから。
鈴木さんが意識しているかどうかは別としてそういう反復運動が行われてゆくんじゃないかな。
三島さんのやったことを右翼はそのまま継がなかったでしょう。
継げなかったんだ。
もう戦後体制にどっぷりとつかっちゃったからね。
右翼でありながら外車なんか乗り回しているのがいっぱいいるでしょう。
そういう連中には三島由紀夫の心情なんかダイレクトに継げなかった。
この対談の1年半後に、野村さんは経団連本部を襲撃占拠。三島未亡人の説得によって投降している。
何か、憂国は危険なテロリストのイメージとなりそうだが、鈴木さんは「愛国」の方が危険だという。
憂国は、時に暴力的になり、暴発し、連鎖する。
しかし、あくまでも個々人の自発的な意志に任されている。
言うなればちょっと荒っぽいボランティアだ。
その点、愛国は一見平和的だが、暴発すれば国民全体を巻き込む。
うむを言わせない。
テロやクーデターは憂国から起きるが、局部的なものだし、瞬間的なものだ。
愛国は〈戦争〉に突き進み、全国民を強制する。
それも長い年月、強制する。
憂国は部分的で短路的だが、愛国は全体的で長期的だ。
「憂国の士」はそれほどいない。
しかし、「愛国」は全員が強制される。「愛国心を持つのは当然だ」「国民の常識だ」と言われる。
戦争のときは顕著だ。
その全体の流れに対し消極的な人間は、「非国民!」「売国奴!」と言って袋叩きにされる。
つまり愛国心は、そうでない人間を排除し、罵倒するために使われることが多い。
これは危険なことだ。
「憂国」よりも「愛国」の方が何百倍も強暴だし、残忍だ。
ああ、良くぞ言ってくれた、「憂国の士」鈴木さんよ。
あなたが言うように、「愛国心は国民一人一人が、心の中に持っていればいい。
口に出して言ったら嘘になる。
また他人を批判する時の道具になるし、凶器になりやすい。
だから、胸の中に秘めておくか、どうしても言う必要がある時は、小声でそっと言ったらいい」と「憂国」の俺も考えます。
ところが、教育基本法を改正して、「愛国心」を盛り込もうとする「売国奴」は、でかい声(でかい字)で、「愛国心」を主張しています。
http://ryutukenkyukai.hp.infoseek.co.jp/aikokusin1.html
・真の愛国心とは、自国の価値をいっそう高めようとする心がけであり、その努力である。
自国の存在に無関心であり、その価値の向上に努めず、ましてその価値を無視しょうとすることは、自国を憎むことともなろう。われわれは正しい愛国心を持たなければならない。松田昌士氏(JR東日本代表取締役)
・中学校で終戦を迎えた私は「国家、権力イコール悪」のように教えられましたが、やはり日本という国を愛する心、愛国心の大切さを知っていただきたいと思います。横田 茂氏(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会 代表)
国を信じていたが上に、自分の子供の拉致も日本政府にうやむやにされていた横田さんがこういう発言をするとは……。拉致の実行犯も「愛国」のために、「日本人の拉致が国のためになる」と信じていたがために行っていると言うのに。
悪い冗談としか思えません……。
「愛国」よりも、これからは「憂国心」を子どもたちに育てなければいけません。
それでなければ、いつまでたっても、国家に騙される人間ばかりの日本になってしまいますからね。
失業者や正社員になれない若者が「コイズミ」に投票したことが象徴しています。
「憂国」は日本人ばかりではありません。
実は、アメリカ人にも「憂国」の人がいたんですね。
ジェームズ・W・フルブライト、66年の上院外交委員長だった人が、議会にて「ベトナムに介入」していった政府を講演で批判しています。
自称「愛国者」にならって、でかい字で紹介しますか。
人がその祖国を批判することは、国家に対する奉仕と敬意を意味している。
批判は祖国の現状をより良い方向に駆りたてうるから奉仕となるのであり、また祖国が現状以上のことをなしうる存在であるがゆえに、敬意を意味している。
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