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[暴政]卑猥な妄想の政治権力が玩ぶ「二つの愛国心」
【画像】ティントレット『ヴァルカヌスに見つかったマルスとウエヌス』Tintoretto(1518-1594)Vulcanus Takes Mars and Venus Unawares 1550 Oil on canvas, 135 x 198 cm Alte Pinakothek 、 Munich
・・・お手数ですが、この絵は下記URLでご覧ください。
http://www.cartage.org.lb/en/themes/Arts/painting/paintings/bigphotos/T/vulcan.jpg
ここに掲げた絵画は、ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek、 http://www.pinakothek.de/alte-pinakothek/)にある、ヴェネチア派の巨匠ティントレット(Tintoretto/1518-1594)の名画『ヴァルカヌスに見つかったマルスとビーナス』です。この絵のテーマは、アポロ(光明・医術・音楽・予言を司る理知的な神)に情報を与えられたヴァルカヌス(大神ゼウスの子でローマ神話の“火の神”/噴火山、ヴァルカン半島の語源)が妻ビーナスの不倫(お相手はローマ神話の屈強な“軍神マルス”で、間抜けにも右奥のベットの下端から兜の頭が見えている)の現場に踏み込んだ瞬間の描写です(伝承ではヴァルカヌスが二人の不倫の現場に網を仕掛けたことになっている)。そして、この絵についてのアカデミックでオーソドックスな美術史上の解釈は「天網恢恢疎にして失わず」(天の網は広大で、その目は大まかなようだが、実際は何一つ取りこぼすことはない)、つまり妻たる女性たちの不貞への戒めということになっているようです。
ところが、このようなアカデミズムの解釈に対し現代フランスの美術史家ダニエル・アラス(Daniel Arasse/1944-2003/参照、http://fr.wikipedia.org/wiki/Daniel_Arasse、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060516/ヨーロッパで著名なイタリア・ルネサンスを専門とする美術史家)は異を唱えます。著書『なにも見ていない』(宮下志朗・訳、白水社刊、原著:Daniel Arasse『On n'y voit rien、Descriptions』、Publisher Denoel、2000)の中で、彼は次のようなことを述べています。
・・・この絵のヴァルカヌスのしぐさと目つきは、道徳の勧めなどよりも、むしろアレティーノ(Pietro Aretino/1492-1556/イタリアの風刺文学者、劇作家、艶本作者)の卑猥さを連想させる。ヴァルカヌスは自分が何を探しにきたのかすっかり忘れている。ヴァルカヌスには、妻のソレしか見えなくなっているのだ。このことは、ベルリンにあるティントレットの下絵で明々白々なのだ。だから、その次の瞬間に何が起こるかを知りたければ、ヴァルカヌスの背後にある大きな鏡を見れば済むのだ。つまり、この絵は定説となっているような教訓の押し付けではなく、実は風刺的でコミカルな、或いはパラドキシカルな作品なのだ。つまり、「貞節の愛がすべてに勝つ」ではなくて、「“情念(妄想・欲望)的”な愛は“省察(理知・静観)的”な愛”に必ず勝つ」という「人間世界(政治的な世界)のリアリズム」(=ポリティカル・コレクトネス/Political Correctness政治権力が保証する正統的なものがすべてに勝つ(喩え、それが卑猥な妄想であったとしても)という冷厳な現実)を描いているのだ。・・・
2006.5.25付・朝日新聞紙上(インタビュー記事「戦争は総括できたのか、歴史と向き合う」)でジョン・ダワー(John W. Dower/著書『敗北を抱きしめて』でピュリッツアー賞を受賞した米国の歴史学者)が次のようなことを語っています。
・・・いまだに「戦後」という言葉で第二次世界大戦以後の時代をひとくくりにする用法は世界でも珍しい。それは、我われ日本人の心の中で「戦争」が総括(反省)されていないからではないか。現在の米国は保守派が非常に強く、ナショナリスティックになっている。この米国の保守派は、日本に憲法9条を改正して、もっと軍事的役割を果たして欲しいと思っている。それを進める一つの方法が、日本の戦争責任や過去の問題を曖昧にして、日本国内の軍国主義批判を弱めることではないか。死者を追悼しなければならないのは、そのとおりだが、なぜ靖国なのか。小泉首相らが靖国に参拝することで、追悼と政治がごちゃまぜになっている。そもそも、愛国心には二種類ある。一つは、正しかろうが悪かろうが祖国を愛するという態度。それは自分の国がやることは何でも正しいという考え(情念的ナショナリズム)である。もう一つの愛国心は、自分の国をもっとよくしたいので、過去の失敗(歴史)から学ぶという冷静な態度である。より平和な世界を築くためには、後者が唯一の道だと思っている。・・・
ノーマン・コーン(Norman Cohn)著『魔女狩りの社会史』(山本 通・訳、岩波書店刊)によると、ヨーロッパの16〜17世紀に魔女狩が盛んに行われた(中世から盛んに魔女狩りが行われてきたという定説は、このノーマン・コーンらの研究で否定されつつあるが・・・)最大の動因は、近代から現代へ向かう過渡期(マニエリスム・バロックのエポック期)の宗教的・社会的大変動が一般の人々を精神的な大混乱状態へ投げ込んだため、庶民層(特に無教養な下層の人々)の不安がもたらした「妄想」(情念の制御が困難となったことによる倒錯的・加虐的な欲望の噴出)と、政治権力者の不安と疑心暗鬼がもたらした「妄想」の二つが一致した(共謀する結果となった)ことにあったようです。恐るべきことですが、このことは現代日本で2005年9月11日に起こった「小泉首相による郵政民営化参院否決→衆院解散・総選挙クーデター」による政権側の大勝利の背景とオーバーラップします。これに加えて、政権側が計略的に仕掛けた“B層戦略”の効果も功を奏しました。結局、小泉批判勢力と抵抗勢力は「魔女的な害をまき散らす一群」として見事に排除される結果となったのです。
ところで、既述のダニエル・アラスの「二つの愛」とジョン・ダワーの「二つの愛国心」の敷衍を試みると次のように考えることができます。つまり、「男女関係(エロス)の愛、神(信仰)への愛(パッション)、肉親の愛」と「愛国心の愛」は根本的に異なります。なぜなら、前者はいわば「盲目的な情念の愛」であり、後者は「冷静で省察的な愛」で“あるべき”だからです。無論、放置すれば「愛国心の愛」も情念的なものと(敢えてナショナリズム化)することは可能です。しかし、それが、どれほどの悲惨な戦争経験(大量殺戮・大量殺人)と、どれほど凄惨極まりない残酷な“魔女狩り”の悲劇をもたらしてきたかは正しく歴史を学べば分かるはずです。更に、実際の魔女狩りでは、魔女であることを証明する常套手段が「異端審問官の拷問による自白の強要」と「複数の知人や隣人による密告・証言を取ること」であったことも忘れてはなりません。この点は、今やまさに法案成立の瀬戸際に立つ「共謀罪」の問題にも繋がります。このように見れば、「愛国心の強要」と「共謀罪関連法の整備」は表裏一体であり、この二つが繋がっている問題であることが理解できます。
また、ここで想起すべきは「憲法」の「授権規範性」の問題です。つまり、憲法は政治権力者が一般国民を監視し、その行動をむやみに縛るためのものではなく、そもそも、それは政治権力者の違法な行動を国家の主権者たる一般国民が監視するためにこそ存在するのだということです。たとえ民主国家であっても、一国の総理大臣など政治権力者の権限は強大なものであることを忘れるべきではありません。しかも“権力は必ず腐敗”します。その腐敗の病原菌は“生身の人間である政治権力者の情念と卑猥な欲望”です。ここでこそ、我われはティントレットの名画『ヴァルカヌスに見つかったマルスとビーナス』の中で、ヴァルカヌスが何をしようとしていたのかを想起すべきです。この時のヴァルカヌスこそが、聖人ならぬ普通の人間である政治権力者の実像(=性悪説のリアリズム)なのです。
(参考URL)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/
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