★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK22 > 175.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
http://www.bund.org/opinion/20060525-2.htm
首相の靖国参拝と「心の問題」
冬木誠
5月9日、経済同友会は「日中の経済関係に影響を与える」として、小泉首相の靖国参拝の中止を求める提言を発表した。アメリカでも「日本の戦争を正当化することは米国の歴史観と対立する」と、同首相の靖国参拝を懸念する声が出始めている。こうした中で、私はあらためて「心の問題」から、靖国参拝を考えてみた。
国益論からの靖国参拝反対
最近では、首相の靖国参拝に反対する人が「国益を考えろ」と言うのに対し、小泉首相本人を筆頭とする参拝肯定論者は、「心の問題」や「死生観」への政治的介入に反発してみせる、そんな構図ができあがっている。
首相の靖国参拝が大きく国益を損なっていることは間違いないと私も思う。しかし、仮に「心の問題」を置き去りにしておいて、「国益論」だけで首相の靖国参拝を止めさせようとするのには、私は同調しきれないものを感じる。
例えば『週刊朝日』の本年1月20日号では「中国・韓国を利する小泉発言の冒涜」というタイトルで、まさに国益論によって首相の靖国参拝を批判している。参拝は「外交問題にならない」と首相はくりかえし述べているが、もう現実に中国や韓国にとっての立派な外交カードになっている。もっと戦略的に行動するべきだ、との趣旨だ。
靖国問題が中韓両国に意図的に利用されているという認識が強調され、日本もそれに負けず、もっとしたたかに振舞えと提言するトーンで話がまとめられている。書き方としてはうまい。
だが、こうして「国益」や「戦略」によって心情論を抑え込む言い方が靖国参拝反対論の主流になっていくのでは、結局は心情論をますます鬱積させることになるのではないか、と私は思うのだ。
昨年暮れのグラン・ワークショップでも、田原牧さんは「戦死者は犬死にかという問いにどう答えるかは微妙な問題」と語っていた。この問いには向き合い続けることが必要だと思うのだ。
「心の問題」の意味すること
参拝推進派が靖国に関して語る「死生観」の問題は、一言にまとめると「死者に鞭打つな」という考え方だ。これが日本人の死生観の基本であり、その点で「中国など」の文化とは違う、との指摘だ。
歴史を議論する上で、過去の人の言動をあれこれ評価することと別に、個々の死者への追悼の仕方まで生前の行為によって差別するのは、何か違うと私も思う。同じように考える人は日本には多いはずだ。
一方、中国や韓国では異なる感覚の人が多いのも、どうやら間違いない(講談社+α新書『日本人と中国人 永遠のミゾ』李景芳、2005年9月刊など参照)。一般的に言って、自然環境や歴史経過の中で苛酷な状況をくぐる体験が多ければ、それだけシビアな感性になりやすい、ということだろう。
小泉首相も、この「死者に鞭打つな」論を言っている。靖国神社には「心ならずも戦死を強いられた人」と、「A級戦犯」とが一緒に祀られているが、犯罪人であっても追悼の仕方には差をつけないのが日本だという主張で、靖国参拝への批判をかわそうとしているのだ。
もっとも首相自身が、こういうことを以前から突きつめて考えていたわけでは全然ないようだ。首相就任以前には同僚議員に誘われても靖国参拝はしなかったらしい。本人も「首相になったら参拝する」と公約することで、自民党総裁選に勝利したから「首相である間は参拝する」と言っているにすぎない。「死生観」の議論も、単なる聞きかじりである可能性が高い。
靖国参拝の「心の問題」をめぐっては、外交問題になっている「A級戦犯の合祀」に関連して、東京裁判の正当性をどこまで認めるかも避けて通れない問題だろう。戦争の勝者が敗者を事後的に裁いたのが東京裁判だったのは間違いない。普通の刑事裁判の原則から言っておかしいのは確かだ。基本的には、自らも植民地支配をしてきた欧米「帝国主義」各国が、「検事も被告もどっちもどっち」でしかない法廷を都合よく取り仕切った。大半の戦争被害者が日本帝国主義の最高責任者だと考えていた天皇は、占領軍当局の意向により、証人として出廷することさえも免れた。
こんないい加減な裁判で有罪となった「A級戦犯」だけに、戦争の全責任を負わせることに問題があるのは、それ自体としては明らかである。
一方、私たちが忘れてならないのは、仮に中国や韓国が靖国問題を外交カードに使っている側面があるとしても、日本の過去の戦争に対する被害感情を晴らされないでいる、相手側当事者の「心の問題」もまた確実に存在するということだ。
日本は沖縄以外の地は最後まで戦場にならなかったから、攻め込んできた外国軍に親族が殺される現場に立ち会った遺族は非常に少ない。これに対してアジア各地には、親しい人を目の前で日本兵に殺されながら、自分は生き残った遺族が今も多く生き続けている。「戦死」「戦災死」のイメージが、その死をもたらした具体的な敵兵の姿と一体になって、生々しい映像として残っているかどうかの違い。これも、どちらの死に方・のこされ方が悲惨なのかの比較などはできないが、相互理解のためにはどうしても無視できない点だろう。
「心」が政治的に利用されている
そんな「心の問題」に正面から答を出そうとしているのが、高橋哲哉氏の『靖国問題』(ちくま新書、2005年4月)だ。押さえるべきだと思われる問題点のほとんどを、一通り網羅した本と言っていいと思う。
高橋氏によれば、靖国神社こそは、そもそも「死者を鞭打つな」という日本的死生観とは全く相容れない場所である。公務として戦争に従事したと認められた人以外の、戦災犠牲者が祀られていない。外国軍の将兵も祀られていない。明治維新や西南戦争で官軍に敵対した「賊軍」の将兵も祀られていない。
いわば「良い死者」と「悪い死者」とを分類し、良いとされたほうだけを祀る、そういう非常に「非日本的」な神社なのである。
日本には確かに、敵側の将兵を祀ったり追悼したりする神社・寺院の建立例が、近代以前には多くあった。中世以後は、合戦で勝利した武将は必ず、敵味方両方の戦死者の霊を慰める法要を営み、双方のための供養塔を建てるのが、それこそ伝統になっていた。それに対し、靖国は日本の伝統に沿うものではなく、近代政治の産物だというのだ。
また靖国神社は、小泉首相が言うような「心ならずも亡くなった」戦死者を「追悼」する場所でもない。「喜んで身命を捧げた」戦死者を神として「顕彰」する(ほめたたえる)のが靖国なのだ。そこに「死をいたむ」感情を持ち込むことは、神社側の理念の中では基本的に拒絶されている。
戦前にも、実際に民間の神道人の中から、靖国の祭りは「英霊に感謝しその勲功を讃美」する面に集中していて、「死んでも死にきれない」魂を慰める面が薄い、と指摘する意見が出されたことがあった。無事生還を願いながら戦死した兵士たちへの「悲痛同情」の国民感情にこたえるため、靖国神社で仏教各宗派が参加する仏式の供養を行ってはどうか、との提案もなされたのである。
これに対して靖国神社側は猛反発。当時の宮司は、戦死とは「国家の大生命に合一」する「大歓喜」である、しかも英霊は天皇の意思で靖国の祭神にしてもらう「最高至上の名誉」にあずかるのだから、むしろ遺族も感謝感激するべきだ、とはねつけたのだ。
そもそも靖国神社は、戦死者を最もいたんでいるであろう遺族の意向を全く考慮しない。祀られている戦死者の遺族の中にも、その合祀を取り消してほしいと申し出た人が、現実に複数いる。台湾人遺族はもちろん、日本人遺族もいる。それら一切に対して靖国神社は、合祀は天皇の意思によって行われたのだから取り消せない、と拒否し続けている。
「自分が死んだら靖国神社に会いに来てください」と親しい人たちに言いのこしていった、そのような兵士の遺族が靖国神社を大切に思っている気持ちは誰にも否定できない。しかし靖国神社のタテマエの中では、遺族の追悼の気持ちは副次的なものでしかないのだ。
以上、高橋氏の『靖国問題』は、戦争で亡くなった人たちを追悼する場としてふさわしいとは決して言えない靖国神社の性格を、余すところなく説明していると思う。靖国参拝そのものを批判する論理は、完璧に出されていると言っていい。
ただし、高橋氏自身が述べているとおり、その議論の大前提には、明治以降の日本の戦争はほとんど全て悪い戦争だったという基本的見解がある。その見解を共有しない人には通用しない内容でもあるだろう。
この本が出た2005年春から4ヶ月を経て、同8月には小林よしのり氏の『靖国論』が出版された。
小林よしのりの大東亜戦争聖戦論
小林よしのり氏の『靖国論』(幻冬社、2005年8月)の趣旨は明快だ。小泉首相は、大東亜戦争の正しさを否定しておきながら「不戦の誓いをするため」と称して参拝している。こんな参拝は靖国の本義を捻じ曲げるもので、決して肯定できないというのだ。靖国神社を国家的な尊崇の対象とするべきだとする点において、高橋哲哉氏と真っ向から対立する。
しかし「喜んで戦死した人を讃えるための神社」という、靖国の性格についての認識は高橋氏と同じなのである。靖国を論じる場合、明治以降の日本の戦争をどう評価するかが決定的に重要だ、との認識でも両者は一致している。が、日本の戦争は欧米帝国主義と戦った正義の戦争だったとの前提に立つ小林側は、靖国神社そのものへの態度において高橋側とは正反対に分かれる。
靖国神社が英霊を神として祀る場であり、まぎれもない宗教施設であって、無宗教の追悼施設などではないという点でも、両氏の認識は一致する。
しかし高橋側が、国家神道の政治利用により悲惨な戦争が引き起こされた過去の反省もふまえて、国家と宗教との完全分離が必要であるとの立場をとるのに対し、小林側は、国家と宗教が切断されている戦後日本が、戦前よりずっと問題の大きい社会になっていると主張。靖国神社を国家的な宗教施設として堂々と公認すべきだとの立場をとる。
結論として高橋氏は、首相が公然と靖国参拝することは実質的な政治効果をもつ宗教行為だと、政教分離原則への違反を指摘して首相の靖国参拝に反対する。
それに対し小林氏は、小泉が「公式参拝だ」と明言もせず、神道の正式な参拝形式も遵守しないなど、逃げを打ちながら参拝していることを激しく非難する。結局、明治以降の日本の戦争をどう評価するかの違いに行き着くのだ。
これに関連して、東京裁判への双方の評価はどうなのか。高橋氏も「勝者の裁き」でしかない東京裁判の偽善性については明確な認識を示す。しかし議論を東京裁判の問題性に向けることはせず、むしろ今の中国政府が、いかに日本側に譲歩しているかの指摘に話の重心を向けていく。東京裁判で「A級戦犯」とされたのは、実質的に戦争責任があった日本指導層の中のほんの一部にすぎなかった。にもかかわらず、その少数の「戦犯」が合祀されている場所に首相が参拝することだけしか中国は問題にしていない。「A級戦犯」が祀られている神社が日本に存在することも、戦死者一般を祀る場所に首相が詣でることも、それ自体としては何ら問題にしていないのだ。
日本による膨大な戦争被害を受けた中国が、それでも日本の一般戦死者のことは「中国人民と同じ」戦争犠牲者だと位置づけ、靖国についてもここまで問題を絞り込んでいる、これは日本に対する大変な譲歩だという指摘である。
それに対し、日本の戦争そのものが正義だったとする小林氏は、当然に東京裁判の偽善性に対して全面的な糾弾を加え、その裁判結果に日本が拘束される必要など全然ないと、「A級戦犯合祀」を問題視すること自体に正面から反発する。
小林『靖国論』は、大東亜戦争の正当性を前提として、それなりに一貫した筋を通している。しかし、やはり絶対に納得できない点が2点ある。
小林氏は、欧米諸国の帝国主義・植民地支配を絶対悪とした上で、そこからアジアを解放しようとした戦争だったから大東亜戦争は正しかったと語る。帝国主義と戦うのは正義だとの論理は私も共有する。だが小林氏は、日本の台湾に対する植民地支配については、現地を文明化したものとして全面的に肯定する。
台湾の場合、それまで単一の「国」としてのまとまりがなかった領域に、日本が新しい政治単位を形作ったという側面は確かにあり、その点で朝鮮半島の場合と大分違っていたのは間違いない。日本の撤退後の国民党支配が苛酷だったこともあって、台湾では朝鮮半島よりはるかに親日感情が高いのも事実だろう。
しかし「植民地にしたことで文明化した」というなら、欧米の植民地支配の多くにも同様の側面はあったのだ。それを言うなら、そもそも「帝国主義と戦ったから絶対に正しかった」とも言えなくなるはずだ。「文明化」は一律に幸福をもたらすに決まっているとでも、小林氏は思っているのか。随分な西洋近代コンプレックスだ。
もう一つ。この本で一番迫力があるのは、日本のBC級戦犯に対する戦後の不当・残酷きわまりない虐待・処刑についての描写だ。日本とは実質的にほとんど戦いもしなかったオランダ軍が、戦後に日本兵を捕らえて残虐な大量処刑を行ったことや、中国での苛酷な日本兵処刑の場面が、これでもかとばかりに描かれている。
だがその中で、オランダ兵の残虐性を描いた直後というのに、「いくら戦勝国が日本人を虐待しても」、こんな残虐性は「中国以外にはない」というキャプションをわざわざ大文字でつけている。オランダ人も中国人も日本人も、状況次第でいくらでも残酷になりうる。そして、日本はオランダ人を殺したより、3桁も4桁も多く中国人を殺した。現場現場の残虐性を比較して、どっちがマシかなどと個々に論評することはできない。人間がそんなになってしまう状況を、どうやって繰り返さないようにするかの問題しかないのだ。
小林氏の眼は、中国への偏見と、西洋流の近代国家観へのコンプレックスとで、ものすごく曇っているようにしか私には思えない。
アジアとの連帯にしか答はない
自己欺瞞に満ちたタテマエでも、それ自体が正論なら、方法の間違いや動機の中の不純な部分を自己反省しつつ、そのタテマエを本気で追求し続けるのが先人への供養だろう。ご都合主義の「大東亜共栄圏」でも、その中にほんの少しでも善意があったとすれば、その志の最善の部分だけを引き継いで、本当に平和に共存共栄するアジア圏をめざし、日本は徹底的軽武装を貫きながら努力するしかないだろう。
靖国へのA級戦犯合祀がアジアで問題にならなくなるためには、日本が「A級戦犯」だけに責任を取らせて戦後が終った気になるのでなく、本当に日本全体での戦後総括・戦後補償をやり直さなければならないのだ。
それをやる覚悟がないのなら、「A級戦犯」だけが悪かった、で話を収めようとしてくれている中国の善意を素直に受けるしかない。
それらから、「本当の戦後総括」に向かっていくのが、正しい方向性だと私は思う。
(かながわ労働者講座)
--------------------------------------------------------------------------------
(2006年5月25日発行 『SENKI』 1213号4面から)
http://www.bund.org/opinion/20060525-2.htm
▲このページのTOPへ HOME > 政治・選挙・NHK22掲示板