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ただの庶民だが私にも言わせてほしい
住民は基地強化を望まない
http://www.bund.org/opinion/20060515-1.htm
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4月23日、岩国市市長選挙では米空母艦載機移転撤回を求める井原勝介氏が当選し、沖縄市長選では嘉手納基地の日米共同使用に反対する東門美津子氏が当選した。今日本中で日増しに米軍基地ノーの声が高まっている。
中部国際空港開港の陰で進む名古屋空港の基地機能強化
鈴木邦衛
2月17日、中部国際空港(通称、セントレア)が開港して1周年を迎えた。 この空港は経営や建設にトヨタ方式≠取り入れたことが功を奏したのか、昨年9月の中間期連結決算で当初の赤字予測に反し、経常利益19億円、純利益は18億円と、いずれも黒字となった。また、3月期連結決算では経常利益11億円、純利益9億円の黒字見込みとなっている。
また、国際航空運送協会(IATA)と国際空港評議会(ACI)が共同実施した2005年の「空港顧客満足度調査」では、顧客満足度が世界一と発表されている(成田・関空は不参加)。
では、このように順調に運用されている中部国際空港であるが、それ以前に使われていた名古屋空港(現、県営名古屋空港)はどうであろうか。実際に見に行ってみると、名古屋空港は県営化後、コミューター空港やヘリポートとして利用されており、かつてジャンボジェットの離着陸騒音が日常であったころが嘘の様に穏やかである。時折、小型機やヘリコプターが離発着する姿が見られる。
空港へつながる道路も付けかえられたり、閉鎖されたりして、随分こじんまりとした印象を受ける。空港移転前には賑わっていた近所の駐車場屋は空地となっていた。畑へ転業(回帰か?)していたりするものが見られた。国際線で使われていたエプロンや、滑走路の一部にはアスファルトの間から雑草が伸び、廃れた印象を受ける。
名古屋空港はそもそも国家総動員法の下、地元農民の土地を一部取り上げる形で出来た軍用空港であった。その経緯が示すとおり、現在も航空自衛隊小牧基地と共用している。
小牧基地は自衛隊カンボジアPKO派遣をはじめ、現在のイラク派遣でも中心となっているC130輸送機の所属する基地である。現在も、時折空色に塗られたC130の姿を見る。
そして実は軍民共用空港としての名古屋空港は、中部国際空港開港に伴い管制業務が防衛庁の担当に移管したのである。本年からは、日本の中心に位置し、各機の戦闘機に給油しやすく、施設整備用地の確保が容易という理由の下、KC-767空中給油機が配備され、また専門の部隊も新設される。
配備に至る経過としては、当初空中給油機配備を容認しない姿勢を示していた地元自治体首長が、2003年11月に「基地機能強化」にならないことを条件に受け入れを容認したことがあげられる。名古屋空港における基地機能は強化されているといわざるを得ない。
過去においても、1959年から78年までの間、小牧基地にはF86やF104などを中心とした戦闘機部隊である第3航空団が設置されていた。現在第3航空団は三沢基地へ移転しているが、移転前の1960年には滑走路内において、第3航空団のF86と全日空のDC3が衝突し死者3名、重軽傷者8名を出す惨事が起きている。
また、この空港にはF15やF2、F4といった戦闘機を製造する三菱重工航空宇宙システム製作所小牧南工場が隣接している。現在も戦闘機が整備、試験飛行の為、たびたび飛来する。さらに、近くには戦闘機搭載用ミサイルをはじめとして、パトリオットミサイルなども生産する三菱重工名古屋誘導推進システム製作所が存在する。他にも、名古屋空港のある2市1町(豊山町、小牧市、春日井市)内には、クラスター爆弾を保有する航空自衛隊高蔵寺弾薬庫や、陸上自衛隊春日井駐屯地が存在している。
このように、名古屋空港周辺には軍事関連施設が集中しているのだ。名古屋空港の持つ2740メートルの滑走路は、小型機中心となった現在フル活用されてはいないが、陸、海、空の自衛隊統合運用や米軍再編がクローズアップされている今、名古屋への戦闘機部隊再配置や米軍部隊移転も、完全に他人事と考える事は出来ないのである。
先に岩国市で行われた神奈川県厚木基地からの空母艦載機部隊移転の是非を問う住民投票では、約9割もの反対意見がつきつけられた。また、辺野古沖ヘリポート建設においても反対運動により建設は遅々として進んでいない。これらのことからも、米軍はじめそれに追随する軍隊は行き場を失っている。これから空中給油機の配備がはじまる名古屋空港であるが、私は今後もこの地を軍事拠点にしないために声をあげ続けなければならないと思っている。
(春日井市在住・元団体職員)
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1977年 ファントムが横浜に墜落した
鈴木 郁
米軍兵による事件が絶えない。八王子でのひき逃げ事件、横須賀での殺人事件。八王子の事件では犯人の米軍兵が逮捕されたものの、公務中だったことから、日米地位協定に基づいて即日釈放されている。また横須賀の事件では金を奪うために犯人は被害者を殺害。その後コンビニで買い物をしたり友人宅を訪れたりと、人を殺したとは思えない行動を取っている。
アメリカという国、また米軍自体がそういう現状だからなのか、駐留している国の人間に対してだからできる行為なのか。さすがに身柄は神奈川県警に引き渡され無期懲役が求刑されたが、憤りを感じざるを得ない。いつまでこんなことが続くのか。
「『あふれる愛』を継いで」(土志田勇・著 七つ森書館 2005年刊)は、1977年に横浜で起きた米軍ジェット機墜落事故の被害者、土志田和枝さんの父、土志田勇さんが、事故と犠牲になった和枝さんの記憶を綴ったものである。
私は小学生だったが、被害者の和枝さんが全身に火傷を負い、移植のための皮膚を求めるニュースを聞いた記憶がある。友人の中には、事故機を見たという人もいて、教室の窓から飛行機が異様に低いところを飛んでいくのをクラスの全員で驚いて見ていたという。
実はこの事故は、私の反基地運動の原点である。事故後数年経ってからであるが、この事故の全容を知り、私ははじめて自分が生きる社会について考え、米軍基地をおかしいと思ったのである。
※ ※
1977年9月27日午後1時すぎ、ファントム戦術偵察機は、横須賀の米海軍基地から出港し、房総沖で停泊する空母ミッドウェーに母艦発着訓練をするために、厚木基地から飛び立った。しかし離陸後数分でエンジンから火を噴き、横浜市緑区(現在は青葉区)に墜落した。墜落地点には4メートルもの穴が開き、エンジンが炎上したまま和枝さんの自宅を直撃したのである。燃料が火災を起こし、和枝さん、その子供たち2人、和枝さんの義妹は自宅を逃げ出したものの、全身に及ぶ大火傷を負っていた。
事故後、米軍の要請を受けて自衛隊のヘリコプターがやってきた。近所の人々は被害者を助けてくれるものと思っていたが、ヘリはパラシュートで脱出し怪我らしい怪我も負わなかったファントムのパイロット2人を収容すると、厚木基地へと帰ってしまったのである。
結局大火傷を負った被害者たちは、救助に駆けつけた近隣の人々の車や、近所の人が一一九番通報して呼んだ救急車で病院に運ばれた。
その後米軍もやって来たが、まず行ったことは被害者の救出ではなく、事故現場の封鎖だった。このあたりは一昨年沖縄国際大学にヘリが墜落したときとまったく同じだ。そして墜落したファントムの残骸を厚木基地に運び込んでしまった。多くの死傷者を出した事故でありながら、何の証拠も日本側は検証することもできず、ただ傍観しているだけだった。
一方大火傷を負った子供たちは、翌未明に死亡。上の子は「バイバイ」と言いながら。下の子はハトポッポを歌いながら。最初に事故現場に飛んできたヘリが、彼らを病院に運んでくれていたらと思わざるを得ない。
和枝さんも生死の境をさまよいながらも、何とか一命を取りとめた。当初、幼い子供たちが死んだことは和枝さんの治療にマイナスになると伏せられていた。和枝さんはその後数十回に及ぶ皮膚移植をうけたが、消毒のための硝酸銀浴は想像を絶する痛みだったと言う。
それでも子供たちのことを思い、闘病生活を送っていたが、事故から1年4ヵ月後に子供たちの死を知らされる。「子供たちをもう一度抱きしめたかった」。そう言っていた和枝さんも、事故から5年後に亡くなってしまった。
米軍機の墜落という理不尽な事故、元に戻らない体、そして子供の死。怒りをぶつけようにも地位協定によって、米軍の罪は問えない。和枝さんの苦悩は計り知れないものだったろう。その最期は、火傷の治療を行っていた昭和大学藤が丘病院ではなく、転院させられた精神科の病院でであった。
和枝さんの死後、賠償交渉が始まる。米軍と直接交渉はできないので、防衛施設局が窓口となっていた。「公務中の事故というなら、防衛庁の敷地内に、和枝と子供たちの像を建てて欲しい」と訴える勇さんに、施設局の職員は「防衛庁の敷地は日本の防衛のために使うものですから…」とにべもない。公務中の事故ということで、加害者のパイロットの責任は何もとわれず、本国へ帰してしまった。
そして被害者達に対して米軍は直接にはまったく何も賠償していない。賠償金を支払ったのは国である。和枝さんの葬儀の際にも、米軍機の飛行を自粛して欲しいとの要望にもかかわらず、何度にもわたってジェット機が飛んでいたという。
※ ※
今回この本を再読して非常に強く感じたのは、父、勇さんの愛情と行動力である。 「子供たちをもう一度抱きしめたかった」「多くの人に皮膚をいただいたのだから、恩返しに福祉の仕事がしたい」という和枝さんの遺志を継いで、勇さんはその後の30年あまりを生きてきた。和江さんが子供たちを抱いている姿の母子像のことは、当時ニュースにもなっていたので知っていたが、国からの賠償金を使って福祉施設を開設したことは知らなかった。
10年くらい前のある日、会社の帰りに車を走らせていたら、道路わきにある建物に「和枝福祉会」という看板を見つけ、「あっ!」と思った。あの母子像を建てたお父さんが作ったものだ! とすぐに分かった。お父さん、ずっとずっと続けているんだな、やっぱり忘れられないんだな…とそのとき思った。母子像は横浜の港の見える丘公園にある。公共の場所に建てる代わりに、事故のことについては一切、碑文にはしないという約束で建立が認められたのだ。港の見える丘から少し下がったフランス山というところに、「あふれる愛を子らに」と刻まれた台の上で、和枝さんは2人の子供を抱きしめている。なお事故の碑文については、今年になって横浜市長が遺族の意向を尊重して付けられるようになったらしい。母子像ができてから実に21年後である。
(化粧品会社研究職員)
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座間への第一軍団司令部移転に反対している
波田昌士
加藤尚武著の『新・環境倫理学のすすめ』の第7章「ペンタゴン・レポート」。この章では、ピーター・シュワーツとドーグ・ランダルの「急激な気候変動シナリオと合衆国の国家安全保障への含意」(いわゆるペンタゴン・レポート)について書かれている。
地球規模の海洋による熱移動システムが崩壊し、局地的に急激な温度の低下がおきる。その結果、現在すでに大きな被害がでているが、世界的にハリケーンや台風、豪雨、洪水といった天候に関する災害が増加していく。地球環境はますます苛酷化していく。農業が困難になり、食糧が不足し多くの環境難民が生まれてしまう。
そのような過酷な状況下で、豊かなアメリカやヨーロッパへ周辺から難民が押し寄せてくる。なおかつ減耗によりわずかになった石油などの地下資源をめぐって戦争が起こるだろう。
そこでアメリカが取ろうとしている対策は、「軍事的に、難民を国内に入れない・国際的な緊張状態の高まりに対応していくだろう」というものだ。ペンタゴン・レポートでは、2010年からヨーロッパの寒冷化が始まり2020年には寒冷化するともある。
現在、日本の米軍基地が強化されようとしている。神奈川の座間市にはアメリカの本土から米陸軍の第一軍団司令部が移転されようとしている。それに合わせ日本の陸上自衛隊も中央即応集団を置き、米軍と自衛隊が合同で作戦を行えるようにしようとしている。
米軍の再編は「今後の中国の台頭は環太平洋地域での資源・素材の争奪戦争が起こるのは必至(Newsweek 2005.7.27)」というように、まさにペンタゴン・レポートで考えられているシナリオにそって行われているかのようだ。
アメリカのイラクに対しての石油のための戦争。その侵略戦争を「石油は必要だからしょうがない」と容認してしまう日本政府。これでは、世界は資源争奪戦争にますます進んでいく以外なくなってしまう。
現在、イラクでの戦争により多くの人々が殺し、殺されている。将来、このような状況が世界中で日常茶飯事的に行われるだろうというのだ。そんな未来に希望なんて持てるはずが無い。しかもペンタゴン・レポートによると、「アメリカは気候変動に適応するための資源を持ち、比較的に豊かな生活が出来る」と考えている。だが生活環境が悪化してしまったら、結局生命は滅びるしかないだろう。
このような最悪な状態になる前に、米軍の侵略戦争に反対し、在日米軍基地の強化、アメリカに追随する日本政府に対して抗議の声を上げていくべきだと私は思っている。
(システム・エンジニア)
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(2006年5月15日発行 『SENKI』 1212号3面から)
http://www.bund.org/opinion/20060515-1.htm
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