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http://www.nnn.co.jp/rondan/ryoudan/060502.htmlより転載。
憲法は「守らせる」ものだ(2006/05/02の紙面より)
日本国憲法が施行されてから六十回目の五月三日がやって来る。今年も各地で改憲派と護憲派の集会が開かれる。
私自身は、日本国憲法は(国民主権と平和主義と人権尊重を基調とした)良いものであるからそれをもっと良いものにしようという立場から、護憲的改憲派としてある集会に参加する予定にしている。
ところで、この問題に三十年近くかかわってきて、今、「護憲」の思いは正しいとしても、その「護憲」という表現が憲法の本質について誤解を招きかねないのではないか…気になってきた。
つまり、護憲派の市民たちは、集会で、「憲法を護(守)ろう!」と叫んでいるが、私はむしろ、「憲法を権力者に守らせよう!」と叫ぶべきではないかと思う。
ここで、改めて、わが国の基本「六法」のそれぞれの役割分担を確認してみると次のようになる。
まず、民法と商法は、私たち国民の、私人間の取引を規律し、その分野で裁判沙汰が発生したら民事訴訟法に従って手続きする。
また、刑法は犯罪と刑罰を規定しており、犯罪が発覚した場合には刑事訴訟法に従って処理される。
つまり、民法と商法と刑法は私たち皆が守るべき規範で、それらに関してトラブルが生じたら訴訟法に従って後始末が行われることになっている。
ところが、憲法は、他の五法とは次元の違った役割を担うものである。
つまり、憲法は、本来は対等で非力なわたしたち、主権者国民大衆の中から選ばれて例外的に大きな権力を預かる政治家と公務員がその権力を乱用しないように、(一般国民ではなく)権力者をしばる規範なのである。
つまり、憲法は大別して統治機構と人権保障のふたつの部門で構成されているが、まず、国家権力のあり方(つまり仕組みと権限の限界)を定め、次に、その権力が乱用された場合に個々の国民が有効に抵抗できるように、各人の不可侵の領域として人権を保障している。
だから、五月三日に護憲集会を開いている人々が語るべきことは、「皆で憲法を守ろう」ではなくて、むしろ、「みなで、権力者に憲法を守らせよう」であろう。
そして、ここまで考えてくると、わたしたちが自国を愛することは自然で好ましいことであるとしても、それはそれとして、憲法という「権力機関を規律する最高規範」により、わたしたち一般国民に愛国心を義務付けよう…などという提案の異常性に気づくはずである。
(慶大教授、弁護士)
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