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谷中村滅亡史
http://tomkari.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_7e24.html
「明治政府悪政の記念日……準備あり組織ある資本家と政府との、共謀的罪悪を埋没せんがために、国法の名によって公行されし罪悪の日」と寒村が呼んだ1907年(明治40年)6月29日、土地収用法が適用された栃木県下都賀(しもつが)郡)谷中村(やなかむら)の強制破壊が始まりました。
足尾銅山の鉱毒問題は、すでに明治14年に時の知事が渡良瀬川河流の魚類の販売と食用を禁じた頃には知られていたようです。そうした中、21年の大洪水で渡瀬川・利根川沿岸一帯は鉱毒によって田畑が覆われ、翌22年には非常な不作に見舞われます。
(この洪水も、古川鉱業所の製錬用薪炭材の乱伐が招いたものといわれていますし、当然煙害も周辺地域に及んでいました。)
さらには24年の大洪水に、ついに栃木・群馬・茨城・埼玉・千葉の各25・26・12・2・7村(当時)の被害民一同は、連署を添えて政府に請願書を提出することになります。
曰く、「速やかに鉱毒除害の道を講ぜよ、しからずんば寧ろ(むしろ)直ちに鉱業を停止せしめよ」と。
この時田中正造は「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を国会に提出し、政府の答弁を求め、初めてこの鉱毒問題は公のものとなりました。
が、国会は時をおかずに解散。その後しばらくしてやっと答弁が公けにされます。
「……被害の原因確実ならず……試験調査中なり……一層鉱物の流出防止の準備をなせり。」とは、その後何十年にもわたって日本各地で繰り返されることになる、責任回避の弁の始まりでした。
日清戦争後の富国強兵・殖産興業の政策を重視して一般農民が顧みられることがなかったとはいえ、その裏には時の権力者、農務大臣の陸奥宗光と足尾銅山を経営する古川市兵衛の姻戚関係があったことを『谷中村滅亡史』は伝えています。
かつての海援隊の一員、治外法権の撤廃にに尽力した明治の元勲は、寒村の筆力の前には形無しです。(ただし、陸奥は寒村のこの著作が出る当時にはすでに死亡)
「そもそも足尾銅山の鉱毒問題の原因は、政府委員(昭和40年に再びこの鉱毒問題が持ち上がったときの経済企画庁長官藤山愛一郎以下の委員を指すと思われます)がみずから認めているように、『坑内から出てくる硫酸銅を含んだ水をそのまま、渡良瀬川に流し込んだ』ことにある。」
鉱毒反対運動は官憲による弾圧を受け、被害農民は威嚇・脅迫はもとより、誘惑・買収等の懐柔策に翻弄されて事態の進展はみられずに、1901年、田中正造は天皇直訴に踏み切ります。
左はその時の直訴状。
これにより世論は沸騰しましたが、結局、鉱毒問題は治水問題にすりかえられ、最後の抵抗拠点、谷中村は、廃村、遊水池となったのです。
現在、谷中村は「谷中湖」にその名をとどめていますが、ここは渡瀬遊水池の一部をなしているにすぎません。
おもしろいのは、寒村がたびたび、資本家と政府の「共謀」的罪悪、という表現をしていることです。もともと「共謀」という語は一般的な普通名詞ですからあたりまえのことですが、すぐに、今問題の「共謀罪」を連想してしてします。
寒村のいうこの類の共謀罪は、もちろん、審議中の共謀罪法案の取り締まり対象には入っていないのでしょうね。
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