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日本イデオロギー論 ――現代日本に於ける日本主義・ファシズム・自由主義・思想の批判 【序論 】 戸坂潤文庫
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投稿者 愚民党 日時 2006 年 5 月 01 日 13:22:22: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 焦土命令と共謀罪  【とむ丸の夢 生活の中で感じた疑問や思いをあれこれ 】 投稿者 愚民党 日時 2006 年 5 月 01 日 13:08:51)

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日本イデオロギー論 (http://pfeil.hp.infoseek.co.jp/B2/FRAMEB2_3.HTM

  ――現代日本に於ける日本主義・
      ファシズム・自由主義・思想の批判


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 序


 この書物で私は、現代日本の日本主義と自由主義とを、様々の視角から、併し終局に於て唯物論の観点から、検討しようと企てた。この論述に『日本イデオロギー論』という名をつけたのは、マルクスが、みずからを真理と主張し又は社会の困難を解決すると自称するドイツに於ける諸思想を批判するに際して、之を『ドイツ・イデオロギー』と呼んだのに傚ったのだが、それだけ云えば私がこの書物に就いて云いたいと思うことは一遍に判ると思う。無論私は自分の力の足りない点を充分に知っていると考えるので、敢えてマルクスの書名を僭する心算ではないのである。

  (「現代日本の思想上の諸問題」と「自由主義哲学と唯物論」の二つは新しく書いたものである。他の論文は『唯物論研究』『歴史科学』『社会評論』『進歩』『読書』『知識』や、『改造』『経済往来』『行動』『文芸』に、一旦載せたものであるが併し之を整理して一貫した秩序を与えたのである。)


 なお私がひそかに想定している思考上の伏線に就いて、注意を払う読者があるならば、左記の書物を参照して貰えば幸いである。特に第二以下のものが直接の役に立つだろうと思う。

 一、科学方法論      (一九二九)  (岩波書店)
 二、イデオロギーの論理学 (一九三〇)  (鉄塔書院)
 三、イデオロギー概論   (一九三二)(理想社出版部)
 四、技術の哲学      (一九三三)   (時潮社)
 五、現代哲学講話     (一九三四)   (白揚社)
  (『現代のための哲学』――大畑書店――の改訂版)
                        以 上
  一九三五・六・三〇
                東 京
                   戸 坂  潤

 増補版序文

 再版に際して補足として三つの文章を加えることにした。時局の進展に応じてこれが必要だと思ったからである。――なお参考として、初版序文に挙げた他に、『思想としての文学』(一九三六・三笠書房)と『科学論』(一九三五・唯物論全書・三笠書房)の二つの拙著をつけ加えておく。
  一九三六・五
                      著 者

 増補版重版序文

 増補版も版を重ねること数回に及んだ。今、特に云うべき言葉は持たないが、ただ増補版序文の後、本書と連関のある私の著書が四つ程出版されていることを、読者に報告しておきたいと思う。

 巻末の著書表〔そこには『道徳論』(一九三六・唯物論全書・三笠書房)、『思想と風俗』(一九三六・三笠書房)、『現代日本の思想対立』(一九三六・白揚社)、の四つの著書が追加されている〕を参照されたい。

  一九三七・一
                     著 者

序 論

 一 現代日本の思想上の諸問題
      ――日本主義・自由主義・唯物論

 現代の日本に於いては、凡んどありとあらゆる思想が行なわれている。日本・東洋・欧米の、而も過去から現在にかけてのあれこれの人物に基く思想を取り上げるならば際限がない。曰く二宮尊徳・山鹿素行、曰く孔子、曰くニーチェ・ドストエフスキー、曰くハイデッガー、曰くヤスペルス、曰く何々。こう並べて見ると、こういう所謂「思想」なるものが如何に無意味に並べられ得るかに驚かされるだろう。だがこの種のあれこれの思想はどれも、実は高々一個の「見解」といったものにしか過ぎないのであって、まだそれだけでは社会に於ける一貫した流れとして根を張った「思想」ではない。――思想とはあれこれの思想家の頭脳の内にだけ横たわるようなただの観念のことではない。それが一つの社会的勢力として社会的な客観的存在をもち、そして社会の実際問題の解決に参加しようと欲する時、初めて思想というものが成り立つのである。

 そうした意味に於ける思想として、現代日本に於てまず第一に挙げられるべきものは、自由主義なのである。世間の或る者は自由主義が昨今転落したと云っている。だが、そういうならば一体最近に転落し得るようなどういう自由主義が旺盛を極めていたか、と反問しなければならなくなるだろう。少くとも最近、自由主義は世間の意識に少しも積極的に上ってはいなかった。大戦以後、自由主義思想が勢力を有ったと見られ得たのは、僅かに吉野作造氏等によるデモクラシー運動位のものだったが、それもマルクス主義の駸々たる台頭の前には、完全に後退して了ったと見ねばならぬ。それ以後意識的に自由主義思想が高揚したのを吾々は見ないのである。だがそれにも拘らず、自由主義は明治以来の社会常識の基調をなして来ているという他面の事実を忘れてはならない。

 云うまでもなく日本に於ける民主主義は決して完全なブルジョア・デモクラシーの形態と実質とを備えたものではなかった。封建性に由来する官僚的・軍閥的・勢力との混淆・妥協によって、著しく歪められた民主主義でしか夫はなかった。併しそれが夫なりに、矢張り一個の民主主義を基調としたればこそ民主主義の歪曲でもあり得た、という点が今大切である。日本に於ける自由主義の意識は、甚だ不徹底な形に於てであるにも拘らず、吾々の社会常識の基調をなして今日に及んでいる。ただそれが余りに常識化したものであったため、それから又、決して常識以上に抜け出なかったために、特別に「自由主義」として意識的に自覚され強調されるような場合が、極めて例外な偶然的な場合と見られるのに他ならない。日本主義が台頭するに当って、さし当り第一の目の敵としなければならなかったのは、だから、この普及した社会常識としての自由主義思想だったのであって、之は別に、それまで自由主義の思想が特に意識的に旺盛を極めていたからではない。で、自由主義は無意識的にしろ近代日本の思想のかくされた基調をなしている。

 自由主義思想は、自由主義の意識は、その本来の淵源を所謂経済的自由主義の内に持つにも拘らず、思想としての直接の源泉は之を政治的デモクラシーの内に持っている。だが自由主義思想は決してデモクラシーという観念内容に終始するものではない。それはもっと広範な観念内容を含んでいるが、そこから、自由主義思想には、ありと凡ゆる内容が取り入れられることが出来る、ということになって来るのである。

 一体自由主義が本当に独立した一個の思想として成り立つかどうかが抑々の疑問なのである。と云うのは、一定の発展展開のメカニズムを有ち、自分と自分に対立するものとの甄(けん)別を通して自らを首尾一貫する処の、生きた論理組織を、自由主義が独自に持てるかどうかが、抑々の疑問なのである。だが仮にそうした自由主義の哲学体系が成り立ったとして、そうした「自由主義」哲学は必ずしも自由主義思想全般の忠実な組織であるとは限らないのである。なぜかと云うに、自由主義的思想にはありと凡ゆる観念内容が這入り得るのだったから、仮にその観念内容を理論的な哲学体系にまで組織したとして、果してその体系が、依然として「自由主義」という名目に値いするかどうかが、保証の限りではないからである。つまりそれ程、自由主義思想の観念内容は雑多で自由なのである。

 自由主義思想にぞくする内容の一つには、社会的政治的観念からの自由、とも云うべきものが含まれている。そこでは専ら文化的自由だけが問題となる。之は今日多くの自由主義者の自由観念の内に見出される処であるが、その一つの場合として、その文化的自由の観念が宗教的意識にまで高揚し、又は深化されるのを見なくてはならぬ。キリスト教的(主にプロテスタント的)神学や仏教的哲学を通って、自由主義者の哲学は宗教意識へと移行するのを、読者は至る処に見るだろう。今日教養あるインテリゲンチャが宗教観念に到達する道は、多くはここにあるのであって、この種の宗教意識は、この段階に止まる限り(この段階からもっと進めば別になるが)、自由主義意識の一つの特別な産物なのである。

 この宗教的自由は云うまでもなく政治的自由からの自由を意味する。現実からの逃避を意味している。処がここに実に、宗教の第一義的な真理が、即ち又その第一の用途が、横たわることは人の知る処だ。社会に於ける現実的な矛盾がもはや自由主義思想のメカニズムでは解決出来なくなった現在のような場合、その血路の一つが(但し唯一の血路ではないが)ここにあるのであって、矛盾の現実的な解決の代りに、矛盾の観念的な解決が、或いは矛盾の観念的な無視・解消が、その血路である。現代は、従来国家的又社会的に認定された「既成宗教」や、比較的無教育な大衆の上に寄生する所謂邪宗の他に、インテリゲンチャを目あてとする多少とも哲理的な新興宗教の企業時代だが、一般に自由主義に基くインテリゲンチャの動揺がなければ、こうした企業の目算は決して成り立たない筈であった。

 処で、この云わば宗教的な自由主義は、一変して、云わば宗教的な〔絶対主義〕に転化するのである。自由主義は宗教意識を仲立ちとすることによって、容易に一種の〔絶対主義〕に、而も一種の政治的〔絶対主義〕に、移行することが出来るのである。宗教は今や政治的〔絶対主義に協力〕し始める。例えば仏教は日本精神の一つの現われだと解釈され始める。カトリック主義さえが法皇の宗教的権威と日本の〔絶対君主とを調和〕させよと主張し始める。日本の〔絶対君主〕が一種の宗教的〔対象〕を意味することなど、もはや少しも問題ではないかのように。――で自由主義の埒外へ一歩でも踏み出した宗教意識は、やがて日本主義の埒内に収容されるのだ、ということを注目すべきである。

 宗教復興によって宗教的世界観が、宗教的思想が、最近の日本を支配し始めたように云われている。之が本当の「宗教」的真理運動を意味することが出来るかどうかは別として、とに角そういう特別な宗教思想が今日の著しい現象だということには疑いはあるまい。だが、これは必ずしも、宗教的思想が独自な思想分野を構成するものだということを意味しない。宗教意識は自由主義思想に基くものでなければ、日本主義思想に帰着するものであったからだ。――思想は社会人の政治的活動と一定連関を持つことによって初めて思想の資格を得る。もし単なる宗教としての宗教というものがあるとしたなら、それは何等の思想でもなく、全くの私事に過ぎないだろう。だが無論実際には、単なる宗教としての宗教などというものは決して存在していない。

 自由主義思想が一つの独自な論理を有つことによって哲学体系にまで組織される時、夫は広く自由主義哲学と呼ばれてよいものになるのであるが(尤もその多くのものはそういう命名法に満足しないことは判っている)、この哲学体系の根本的な特色は、その方法が多少に拘らず精練された「解釈の哲学」だということにある。事物の現実的な秩序に就いて解明する代りに、それに対応する意味の秩序に就いてだけ語るのが、この哲学法の共通な得意な手口なのである。例えば現実の世界では、宇宙は物理的時間の秩序に従って現在の瞬間にまで至っている。よく云われることであるが、意識の所有者である人間や(他の生物さえ)がまだ存在しなかった時にも、すでに地球が存在した、ということを地質学と天文学とが証明している。処が自由主義的論理に立つ解釈の哲学は、宇宙のこうした現実の秩序(物理的時間)を問題とはしない、その代りに人間と自然との関係を、人間の心理的時間の秩序に於て問題にしたり、或いは超人間的な又は超宇宙的な従って又超時間的な秩序(そういう秩序は意味の世界に於てしかあり得ない)に於て問題にしたりしかしない。現実の世界に就いて語るように見せかけて、実際に聞かされるのは、意味の(だから全く観念界にぞくする)世界に就いてでしかない。そういうことが世界の単なる解釈ということなのである。

 観念論が最も近代的に自由主義的形態を取ったものが、この精巧に仕上げられた解釈哲学に他ならない。露骨な観念論という髑髏(どくろ)は、この自由主義という偽装によって、温和なリベラルな肉付きを受けとる。だがそれだけ自由主義が観念論の近代文化化された被服であるということが、証拠立てられることになる。

 この解釈哲学という哲学のメカニズムは非常に広範な(寧ろ哲学的観念論全般に渡る)適用の範囲を有っている。従ってこれが必ずしも自由主義哲学だけの母胎でないことは後に見る通りだが、併しここから出て来る最も自由主義哲学らしい結論の一つは、文学的自由主義乃至文学主義という論理なのである。之は解釈哲学という方法の特殊な場合であって、この解釈方法を、文化的に尤もらしく又進歩的に円滑にさえ見せるために工夫し出されたメカニズムに他ならない。現実に就いてのファンタスティックな表象である処の文学的な表象乃至イメージを利用して、この文学的表象乃至イメージをそのまま哲学的論理的概念にまで仕立てたものが之である。こうすれば現実の秩序に基く現実的な範疇組織(=論理)の代りに、イメージとイメージとをつなぐに適した解釈用の範疇組織(=論理)を結果するのに、何よりも都合がいいからである。

 処で実際問題として、この文学主義は、多く文学的自由主義者である処の日本現在のインテリゲンチャの社会意識にとって、何より気に入ったアットホームなロジックなのである。だから現在インテリゲンチャが自らインテリゲンチャを論じるに際して知らず知らずに採用する立場はこの文学的自由主義乃至文学主義であらざるを得ない。事実インテリゲンチャ論は現在に於ては何よりもまず広義の文学者達の一身上の問題として提起されているのであって、そこからこの種のインテリゲンチャ論がインテリ至上主義に帰しはしないかと疑われる点も出て来るのであるが、それはとに角、少くとも之が文学主義という一種の自由主義哲学に立脚していることはこの際特徴的だと考えられる。――だがインテリゲンチャの問題は元来インテリジェンスの問題に集中する。処でインテリジェンスの問題を解くにはもはや自由主義哲学では役立たない。というのは、一体インテリジェンスの問題に就いて、自由主義的に科学的解決を与えるということは、何か意味のある言葉だろうか。――ここでも気づくことだが、自由主義哲学を、科学的理論体系として徹底することは、すでに何かの錯誤を意味しているのだ。

 自由主義哲学の最もプロパーな場合は、自由そのものの観念的な解釈に立脚する理論体系である。ここでは経済的・政治的・倫理的・自由が、それ自身だけとして問題になることによって、自由そのものとなり、従って又自由一般となり、従って哲学は自由の一般的な理論となる。ここから結果するものは自由一般に関する形式主義的理論でしかない。――形式主義は解釈哲学の必然的な結果の一つであるが、元来形式主義と解釈哲学とは、形而上学=観念論的論理の、二つの著しい特色だと認められている。

 さて処で、自由主義が宗教的意識を産み出すことによって、やがて〔絶対主義〕としての日本主義に通じて行くことを前に見たが、今度は恰もこの現象に平行して、自由主義に於ける解釈哲学という方法が、日本主義を産み出す所以を見よう。之を見るならば、日本主義の哲学が実は或る意味に於て自由主義哲学の所産であり、少くとも日本主義哲学への余地を与えたものが自由主義哲学の寛大な方法だった、ということに気がつくだろう。

 先に自由主義哲学の方法上の特徴であった例の解釈哲学が、自由主義に特有な文学主義を産む所以を見たが、之に平行して、今度はこの解釈哲学は文献学主義を産むのである。文学主義が現実に基く哲学的範疇の代りに文学的イメージに基く文学的範疇を採用するという解釈方法だったとすれば、文献学主義は、現実の事物の代りに文書乃至文献の語源学的乃至文義的解釈だけに立脚する。その最も極端な場合は、国語の内からあれこれの言葉を勝手に取り出して来て、之を哲学的な概念にまで仕立てることである。文学主義は表象を概念にまで仕立てたが、文献学主義は言葉を概念にまで仕立てる。処でそれだけならば誰しもこうした「哲学方法」(?)の極度に浅薄なことに気付かぬ者はないのだが、併しこのやり方を古典的な文献に適用すると、その時代の現実に就いて人々が充分歴史科学的な知識を有っていない限り、相当の信用を博することも出来なくはない。そこでこうした古典の文献学主義的「解釈」(或いは寧ろコジツケ)を手頼って、歴史の文献学主義的な「解釈」を惹き出すことも出来る。今日の日本主義者達による「国史の認識」は殆んど凡てこの種類の方法に基いているのである。

 そしてもっと大事な点は、こうした古典の文献学主義的解釈を以て、現在の現実問題の実際的解決に代えようとする意図なのである。仏典を講釈して現下の労働問題を解決し得ようといった類の企てが夫なのである。古典が成立した時代に於てしか通用しない範疇を持って来て、夫を現代に適用すれば、現在の実際的な現実界の持っている現実はどこかへ行って了って、その代りに古典的に解釈された意味の世界が展開する。現実の秩序の代りに、意味の秩序を持ち出すのに、恐らくこの位い尤もらしく見えるトリックはないだろう。

 文献学主義は尤も、必ずしもすぐ様日本主義へ行かなければならぬという必然性は有たない。元来日本主義というものが何かが決して一般的に判っているのではないが、少くとも文献学主義から、ギリシア主義やヘブライ主義へ行くことも出来れば、古代支那主義(儒教主義)や古代印度主義(仏教主義)へ行くことも出来る。アカデミーの哲学者やキリスト教神学者、王道主義者や仏教神学者達は、夫々この文献学主義のメカニズムを利用して、現代の事物に就いて口を利いているのである。古典の研究は古典の研究であって、現代の実際問題の解決ではない。処がこの古典研究を利用して、現在の実際問題を解き得るように見せかける手品が、文献学主義だというのである。――之は現代の資本主義内部から必然的に発生する処の各種の反動主義の国際的原則をなしているのである。

 以上からすぐ様想像出来るように、文献学主義は容易に復古主義へ行くことが出来る。復古主義とは、現実の歴史が前方に向って展開して行くのに、之を観念的に逆転し得たものとして解釈する方法の特殊なもので、古代的範疇を用いることによって、現代社会の現実の姿を歪曲して解釈して見せる手段のことだ。そして忘れてならぬ点は、夫が結果に於て社会の進展の忠実な反映になると自ら称するのが常だということである。

 さて文献学主義が愈々日本主義の完全な用具となるのは、之が国史に適用される時なのである。元来漫然と日本主義と呼ばれるものには、無数の種類が含まれている。一般的にムッソリーニ的ファシズムやナチス的ファシズム、社会ファシズムと呼ばれるべきものさえ、今日では日本主義と或る共通の利害に立っていると考えられる。又単に一般的な復古主義や精神主義や神秘主義や、又ただの反動主義に過ぎないものも、日本主義的色彩によって色どられている。アジア主義や王道主義も実は一種の日本主義なのである。だがプロパーな意味での日本主義は「国史」の日本主義的「認識」に立脚しているのである。日本精神主義、日本農本主義、更に日本アジア主義(日本はアジアの盟主であるという主義)さえが、「国史的」日本主義の内容である。だから結局、一切の日本主義は淘汰され統一されて、〔絶対〕主義にまで帰着しなければならず、又現にそうなりつつあるのである。〔天皇〕そのものに就いては、論議の限りではないが、〔絶対主義〕は処で、全く文献学主義なる解釈哲学方法を国史へ適用したものに他ならない。この主義が日本に於ける積極的な観念論の尖鋭の極致である所以だ。之に較べれば自由主義は、消極的な観念論の単なる安定状態を示しているものに他ならぬ。

 と角の議論はあるにしても、日本主義は日本型の一種のファシズムである。そう見ない限り之を国際的な現象の一環として統一的に理解出来ないし、又日本主義に如何に多くヨーロッパのファシズム哲学が利用されているかという特殊な事実を説明出来なくなる。色々のニュアンスを持った全体主義的社会理論(ゲマインシャフト・全体国家・等々)は日本主義者が好んで利用するファシズム哲学のメカニズムなのである。だが日本主義はこうした外来思想のメカニズムによっては決して辻褄の合った合理化を受け取ることは出来ないだろう。唯一の依り処は、国史というものの、それ自身初めから日本主義的である処の「認識」(?)以外にはあるまい(結論を予め仮定にしておくことは最も具合のいい論法だ)。処でそのために必要な哲学方法は、ヨーロッパ的全体主義の範疇論や何かではなくて、正に例の文献学主義以外のものではなかったのである。――併し実は、この文献学主義自身は、もはや決して日本にだけ特有なものではない、寧ろドイツの最近の代表的な哲学が露骨な文献学主義なのだが(M・ハイデッガーの如き)。だから、日本主義に於て日本主義として残るものは、日本主義的国史だけであって、もはや何等の哲学でもない、という結果になるのだ。

 例えば自由主義乃至自由主義哲学によって国史を検討する、というような言葉には殆んど意味がないだろう。日本主義的歴史観に対立するものは、唯物論による、即ち唯物史観による、科学的研究と記述とでしかあり得ない。だからこの点からも判るように、日本主義に本当に対立するものは自由主義ではなくて正に唯物論なのである。その証拠には、日本主義の殆んど唯一の「科学的」(?)方法である文献学主義のために余地を与えたものは、他ならぬ自由主義の解釈哲学だったのである。この意味に於て、自由主義的哲学乃至思想の或るものは、そのままで容易に日本主義哲学に移行することが出来る。日本主義哲学は所謂右翼反動団体的な哲学には限らない、最もリベラルな外貌を具えたモダーン哲学であっても、それがモダーンであり自由主義的であることに基いて、やがて典型的な日本主義哲学となることが出来る。和辻哲郎教授の『人間の学としての倫理学』などがその最もいい例であって、元来「人間の学」乃至人間学なるものは、今日(可なり悪質な)自由主義哲学の代表物であり、例の文学主義の一体系にぞくするものであったが、夫が誠に円滑に、日本主義の代表物にまで転化することが出来るのである。――ここに自由主義的哲学と日本主義的哲学との本質的な類縁関係が横たわる。

 高橋里美教授の全体主義の論理は、それだけとして見れば全く自由主義の哲学体系に数えなければならないが、併し全体という範疇がナチス的社会理論の不可欠な基礎概念となっていることは改めて指摘するまでもないだろう。西田幾多郎博士の「無」の論理も亦、決して一見そう思われるような宗教的神秘的な境地だと云うことは出来ないが、それにも拘らずこれはその客観的な運命から判断すれば、例のインテリ向きの宗教意識に応えんがために存在しているようにさえ見受けられる。そしてこうした宗教意識が、多少とも社会的な積極性を帯びると、忽ち日本主義のものになるという、現実の条件に就いてはすでに述べた。――自由主義はその自由主義らしい論理上の党派的節操の欠乏から、日本主義に赴くことに対して殆んど何等の論理的抵抗力をも用意していないように見える。自由主義者乃至自由主義的哲学者が日本主義に赴かないのは、論理的な根拠からではなくて、殆んど全く情緒的な或いは又性格的な根拠からであるに過ぎない。処が彼等が唯物論に赴けないのは、単に情緒的な或いは又性格的な根拠からだけではなく、又論理的な根拠からでもあるのである。

 普通自由主義は日本主義よりも寧ろまだ唯物論に近い、という政治的判断が下されている。だが自由主義が自由主義哲学の体系に関わり合っている限り、それは原則的には唯物論の反対物であって、寧ろ日本主義への準備に他ならない。にも拘らずなお、自由主義が唯物論の同伴者めいた役割を持つことが出来ると判断されるのは、自由主義が自由主義としての立場を固執することを止めて、却ってその反対な立場にまで自分の立場を徹底させうるだけの自由な立場を採る時に限る。自由主義は日本主義へ移行するには理論的に自由主義の立場を固執していても不可能ではない、だが自由主義が唯物論に移行するためには、自由主義は真に自由主義として、否、もはや自由主義ではないものにまで、自らを徹底しなければならない。この意味に於てだから自由主義は、決して普通考えられるように、日本主義と唯物論との公平な中間地帯などではなかったのである。

 さて初めに私は、自由主義が近代日本の隠然たる社会常識だと云った。このことは日本が曲りなりにも高度に発達した資本主義国であることから、当然出て来る結論でもある。今日の自由主義、即ちブルジョア・リベラリズムは、云うまでもなく資本主義に基いたイデオロギーなのだから、これは又資本主義社会の根本常識でもなくてはならない筈だ。従って自由主義が、発達した資本主義の社会的所産を現在の所与として仮定する限り、そうした所与を無視する他の各種の思想に較べれば、少くとも進歩的だと云わねばならぬ。中世的封建制を思想上の地盤にしている各種の復古思想の反動性と比較すれば、何と云ってもそうなのである。或るカトリック学者は自由主義が今日なぜ一応の社会常識であるかを理解し得ないと云うのであるが、この常識の是非はとに角として、自由主義乃至プロテスタンティズムの方が、中世的なカトリチスムスなどに較べて、ブルジョア社会の常識に一致するということは、今更論証を必要としないことだろう。

 処で日本主義(之が今日一個の復古思想であり又反動思想なのだという点に注意を払うことを怠ってはならぬ)は、この自由主義的ブルジョア社会常識に照せば、著しく非常識な特色を有っている。この非常識さが自由主義者を日本主義的右翼反動思想から、情緒的に又趣味の上から、反発させるに充分なのである。処がそれにも拘らず、事実上は、こうした非常識であるべき日本主義思潮が、今日日本のあまり教養のない大衆の或る層を動かしているという現実を、どうすることも出来ない。そうなると之又一つの常識だということにならざるを得ないように見えるのである。社会に於ける大衆やその世論(?)というものがどこにあるか、という問題にも之は直接連関している。――で、常識というものの有っているこうした困難を解決するのでなければ、今日の日本主義に対する批判は充分有力にはなれまい。

 実際日本主義は自分がもっているこの一種の常識性(?)をすでに自覚しているばかりではなく、今では夫を愈々強調しようとする方針に出て来つつあるように見える。日本主義は大衆を啓蒙(!)しなければならぬとさえ叫んでいる。処が一般に大衆を相手にする啓蒙なるものは、今日の上品なリベラーレン達が決して潔しとしない仕事なのである。解釈哲学者や文学主義者達の多くは、専ら意味の形而上学の建設や自己意識(自意識―自己反省)の琢磨に多忙であって、社会や大衆などは一杯の紅茶の値さえもないと考える。これはつまり、如何に自由主義者達が日本主義的啓蒙運動(?)に対して、有力な援助を与えつつあるかということを物語っている。

 自由主義者達の日本主義的啓蒙運動に対するこの援助は、云わば日本主義の前哨戦である文化ファシズムとしての文化統制運動となって、日本主義者の側から感謝の手をさし延べられているのである。今日の多くの自由主義者達が、最近の各種の文化統制運動に対して、殆んど何等の本質的な反発を感じないらしいことは、関係が援助と感謝との間柄だからに他ならない。

 日本主義と自由主義とに対立する第三の思想は、云うまでもなく唯物論である。日本主義と自由主義との各々に就いて、又その相互の関係に就いて、科学的に批判し得るものは、日本主義でもなければ自由主義でもなくて、正に唯物論でなければならぬだろう。今この点に注目するならば、唯物論の思想としての優越性が、おのずから間接に証明されることになる。――ここに思想というのは他でもない、実際問題の実地の解決のために、その論理を首尾一貫して展開出来る処の、包括的で統一的な観念のメカニズムのことである。

 私は以上のような観点から、日本主義と自由主義との若干の批判を企て、或いは少くとも批判の原則を指摘しようと目論みたのである。思うに現在に於ける唯物論の仕事の半ばはここにあるのである。


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