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(回答先: 治安維持法 【Wikipedia】 投稿者 愚民党 日時 2006 年 4 月 28 日 23:29:22)
小林多喜二(こばやしたきじ)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kobayasitakiji.htm
東京・築地署で虐殺される
1903(明治36)年10月13日〜1933(昭和8)年2月20日
多喜二虐殺を報じる「赤旗」
小林多喜二は、1903(明治36)年10月13日、秋田県下川沿(しもかわぞえ)村(現大館〔おおだて〕市の北方)の没落農家(貧農)の次男にとして生まれる。
4歳の時の1907(明治40)年に小樽でパン屋をしていた伯父を頼り、一家そろって小樽・若竹町へ移住し、伯父の家に住み込みパン工場の手伝いをしながら伯父の援助で庁立小樽商業学校に通った。
小樽商業学校卒業後、1921(大正10)年小樽高等商業学校(現国立小樽商科大学。1910〔明治43〕年に創設された小樽高等商業学校が前身。44〔昭和19〕年に小樽経済専門学校と改称され、49〔昭和24〕年新制大学に昇格した。商学部だけを置く国立大学ただ一つの商科系単科大学)に入学。同校校友会誌の編集委員となり詩や短編を発表する一方、中央雑誌にも投稿。卒業後、北海道拓殖銀行(拓銀)に就職。
この頃市内の有志とともに同人誌「クラルテ」を発行した。この間、『暗夜航路』で有名な志賀直哉(なおや。1883〜1971。小説家。武者小路実篤らと雑誌「白樺」を創刊し、独創的なリアリズム文学を樹立した。代表作に『大津順吉』『城の崎にて』『和解』等がある)に傾倒し、さらにゴーリキー(Maksim G.1868〜1936。社会主義リアリズムの創始者としてプロレタリア文学への道を開いた。旧ソ連の作家。代表作に『母』『クリム=サムギンの生涯』、自伝『私の大学』、戯曲『どん底』等がある)、葉山嘉樹(よしき。1894〜1945。労働運動・労働体験を生かした力強い作風で知られる初期プロレタリア文学の代表小説家。代表作に『淫売婦』『セメント樽の中の手紙』『海に生くる人々』等がある)に影響された社会科学を学びはじめ、近代資本主義社会の諸問題に関心を抱き、港湾労働者の争議の支援等にかかわるようになった。
1927(昭和2)年労農芸術家連盟(分裂後は前衛芸術家同盟)に加入、中編『防雪林』(生前未発表)を書く。
翌年の1928年、全日本無産者芸術連盟の機関誌『戦旗』に発表した「3・15事件」で検挙拷問された小樽の労働者の群像を描いた『1928年3月15日』で一躍脚光浴び、続けて、厳しい労働条件に苦しむ蟹工船の労働者たちが、団結して闘争に立ち上がるという筋書きの、後年、プロレタリア文学の代表的作品(当時のプロレタリア文学の理論的、実作的水準を一挙に高めた画期的作品)と評価された『蟹(かに)工船』(1929。発表時は検閲制度による伏せ字〔印刷物で、公にすることを避けるために、その部分を空白にしたり、〇や×の記号を入れたりすること〕が多く、1968〔昭和43〕年の『定本小林多喜二全集』版でほぼ完全に復原された)、『不在地主』(1929)の力作を発表、左翼文学の最前衛(ぜんえい=レーニンによって確立されたマルクス主義政党の組織原則で、労働者階級の先頭に立って指導する集団・部隊をいう)となったが、拓銀を解雇された(形は依願退職)。
翌1930年に上京、 『工場細胞』(1930)を発表した直後に逮捕され、労農党代議士山本宣治が命をかけて反対した治安維持法(旧法)違反容疑で5か月間収監された。31年出獄後『オルグ』『独房』『安子』(ともに1931)などで文学運動の先陣にたち、日本プロレタリア作家同盟書記長となった。
1931(昭和6)年当時非合法下にあった日本共産党に入党、以後、プロレタリア文学の若き旗手として活躍した。
日本共産党に入党後は日本プロレタリア文化連盟の結成に尽力、32年春には、非合法の地下活動に入り、文化団体の共産党グループ責任者として『右翼的偏向の諸問題』(1932)など多くの評論を書き、大作『転形期の人々』(1931〜32)に取り組んだ(虐殺されたため未完であるが、1933年4、5月に「転換時代」の仮題で月刊雑誌『中央公論』に発表された「党生活者」は、満州事変直後の軍需工場内の共産党細胞の活動を、主人公「私」の動向を中心に描く。個人的生活のいっさいをなげうって党活動に専心する辛苦がリアルに伝わるが、発表当時検閲のため削除と伏せ字が多く題名も禁止されたが、戦後、完全に復原された)。
33(昭和8)年2月20日、スパイの手引きで街頭において治安維持法違反容疑で逮捕され、東京・築地警察署に留置されるが、転向(てんこう=思想的政治的立場・信念を変えること。特に、社会主義者・共産主義者が弾圧によってその立場を放棄し、他の立場に転換すること)を拒否したため、特高警察の拷問でその日のうちに虐殺(ぎゃくさつ=むごい方法で殺すこと)され、29歳と4カ月という短い生涯を終えた。それは、『地区の人々』(1933)発表直後であった。死後『転換時代』(『党生活者』の仮題)が掲載された。
1965(昭和40)年10月9日、小樽市内の旭展望台に多喜二の同窓生等によって多喜二の文学碑が立てられた。
03年は多喜二虐殺から70年。生誕100年にあたる。
多喜二が描いた人間愛を貫いた抵抗の精神は、明快な文体や構想力とあいまっていまだに新鮮さ保持しており、多くの大衆に感動を持って読まれている。
(多喜二文学碑)
碑文
(多喜二が獄中から村山知義の妻籌子にあてた手紙の一部)
冬が近くなると ぼくはそのなつかしい国のことを考えて 深い感動に捉えられている
そこには 運河と倉庫と税関と桟橋がある
そこでは 人は重っ苦しい空の下を どれも背をまげて歩いている どの人をも知っている
赤い断層を処々に見せている階段のように山にせり上がっている街を
ぼくはどんなに 愛しているか分からない
映画;多喜二
参考文献
現代日本文学全集 (第38) <葉山嘉樹・小林多喜二・中野重治集>
筑摩書房 (1954.12)
小林多喜二 (上) [新日本新書]
手塚英孝/著
新日本出版社 (1970.7)
小林多喜二 (下) [新日本新書]
手塚英孝/著
新日本出版社 (1971.1)
筑摩現代文学大系 (38) <小林多喜二・黒島伝治・徳永直集>
筑摩書房 (1978.12)
日本現代文学全集 (30) <中野重治・小林多喜二集>
伊藤整/[ほか]編集
講談社 (1969.1)
日本プロレタリア文学集 (26) <小林多喜二集>
新日本出版社 (1987.12)
日本プロレタリア文学集 (27) <小林多喜二集>
新日本出版社 (1988.1)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kobayasitakiji.htm
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