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http://anarchist.seesaa.net/article/17121754.html
俺は、最近の転向保守西部にカナリ共感できるようになった。きっかけは、昨年、極左暴力集団の頭であった、ポルシェ荒岱介主催の『グランワーク・ショップ2005 戦後60年この先日本はどうなる』での対談にて西部の話を聞いてからである。
最初、俺は伝説の過激派荒岱介の話に期待して行ったのだ。しかし、幕が上がると、荒はただのバカ左翼にしか過ぎないことがバレてしまった。氷河期が欧州に来るとかなんとか、『ノストラダムスの大予言』のような話しかできないバカ左翼に会場もドッチラケ。
一方、西部は大うけ。基地外アメリカに対しズバッと物言う姿勢に、会場は拍手を送っていた。
極左戦旗での西部の発言はコチラ→
http://www.bund.org/interview/20051105-1.htm
さて、5月号の論座で、西部は、『つくる会』会長を解任された、口ひん曲がりバカの八木秀次(こいつ老けてるな。俺より年下とは思えない)と対談している。
これが、なかなか頷ける内容なのだよ。
「反左翼系統には、基本的にある種のフォビア(恐怖症)があるんですよ。この世に起こる『集団的で新しい現象』、あるいはそういう現象をよしとする動きに対して恐怖を感じてしまう。『つくる会』だけじゃなくて、自称の保守、しかし真相は単なる反左翼の思想現象によく見られることです」
「僕も『つくる会』に少しかかわったことがあるけど、あの恐怖症はいやだったな。僕が辞めることになったきっかけは、ほかでもないアメリカのイラク侵略です。保守派の100人のうち99人までが、リアリズムと称する立場からアメリカの侵略をほぼ全面的に支持する態度に出たときに、こういう思想勢力と僕は、川のこちらと向こうぐらい違うんだと思いました」
「僕は、基本的な意味においてアメリカは左翼国家だと考えてきたんです。『レフト=左翼』という用語はもともと、フランス革命で国民公会の左側に座った人たちのことでしょう。そこで主張されたのは自由主義、個人主義、合理主義、つまりいまのアメリカの国是につながるような思想だった。社会主義というのは、そこから一つの派生にすぎません。その社会主義の勢力が弱くなったいま、残る『左翼国家』はアメリカだけとしか言いようがないわけです。
アメリカのイラク侵略は、グローバリズムという名の非常に理念的なものによって進められてきた運動の結末です。どうして、そんなアメリカの本質を見抜けないのか。侵略から3年たち、いまやアメリカにおいてすら6割の人間が『あの戦争は誤りだった』と反省しているのに、日本の保守派は思想的に不誠実ではないのか。自分たちの見方なり判断なりが大きな歪みを呈したことについて、最近は自己弁護すらせず、侵略を容認したことなどなかったかのようにふるまっているのは、保守あるいは反左翼と称されている人々の思想的破綻を如実に物語っていると思います」
「現実が保守に追いついてきたと言うけれども、その現実たるや、保守思想として肯定され正当化されるような現実ではない。政府の構造改革に見られるがごとく、アメリカナイゼーションが完成の域に近づいている。さらに、自民党の憲法改正案の内容たるや、アメリカ的な個人主義や自由主義をいたるところに盛り込んで、思想的にはいまの憲法よりもアメリカ寄りに改正しようというものにすぎない。拉致問題にしても、『平壌宣言』などは国辱ものであって、まんまと北朝鮮の外交戦略にはまるような情けないことになった。したがって、八木君の言う『保守論壇の活性化』というのも、大いなる錯乱の中にあるという印象をぬぐえないですね。
もともと保守の人々は現実主義で対峙するという姿勢が濃厚でした。理想主義VS現実主義、つまりソ連・中国につくか、アメリカにつくかというイデオロギーの選択を迫られるなかで、保守派は左翼に対するアンチテーゼとして、状況に対する適応主義としてアメリカについた。これは思想の流れとしては弱いこと限りなしなんです。刻々と動く現実というのはパースペクティブが短いものです。イラク問題で、はしなくも表れたように、アメリカにつくかつかないか、アメリカの要請を断って日本の政治がもつのかどうか、という短路的な利害でしかものをとらえてこなかった。
日本の安全と生存という見地から国家についての論を起こすことには、致命的な欠陥があります。アメリカの属国同然のふるまいを繰り返し、ネーションとしての自立と自尊を失ったうえでの安全と生存。その根本には、自分たちは現実主義だ、アメリカにつかざるを得ないという理屈がある。これは保守思想と本質的にかけ離れたものです。そんなことをしていると、長期的には他国から軽んじられて、かえって国益を損なう。われわれが保守とすべきものは国の自立と自尊、そのベースとなる国の伝統です。かつてエドマンド・バークが言ったように、保守思想の探るべき態度はリフォーム・トゥ・コンサーブ、つまり『伝統を保守するために現状を改革せよ』ということですなければなりません。こういうとらえ方が、戦後日本の保守思想に希薄になってきています」
「つい数年前までは小泉内閣に寄り添うような論調を発していた産経新聞などのメディアが、この段に及んで小泉内閣の本質こそが戦後なるものの完成なんだと思い至ったようです。しかし、先がそう長くない僕に言わせれば『時すでに遅し』で、『どうとでもなれさ』とつぶやくしかない。この最大の責任はそもそも朝日系統にあるわけですが、それを指摘するのも今さらの話だとすれば、そういうものに対する抵抗をみずから捨てて、小泉改革的な流れに寄り添おうとした戦後の反左翼の罪のほうがよほど大きい。それで僕なんかケンカ沙汰が絶えないわけです(笑い)」
「保守が歴史的連続性にこだわるのには強力な論拠があるんです。かつてギリシャ哲学者の田中美知太郎が言ったことですが、『言葉は必ず過去からやってくる』と。進歩、変革と言うけれども、言葉だけはわれわれの発明品でも何でもない。われわれはサルと異なる者としての人間であって、言葉の産物であり、その言葉というものは歴史の産物である。だから言葉だけは伝統としか言いようがない。伝統は変わっていくものだけれども、もしも自分が勝手な勝手な言葉の使い方をしたら、社会からまったく受け入られずに、自分ですらあり得なくなる。
話は変わるけど、67歳になった僕の経験によれば、戦後日本における左翼系の人たちは、比較的偏差値が高い。頭がいい。しかし、長年たつと、宝の持ち腐れでおばかさんになる率も非常に高い。一方、反左翼もしくは右翼系は、頭はそんなによくなくて、昔からちょっとエキセントリック、風変わりな人が多い。この点について僕のことを言うと、自分の中に両方の可能性があることは認めます。左翼と右翼の可能性を、自己批評しつつ何とかバランスをとる。飛行機になぞらえれば、右の翼とか左の翼だけで飛ぶ飛行機はないわけで、胴体も尾翼もプロペラも必要でしょう。
ところが、それを全部削り取って、単純な論理でいけると踏んでいるのがアメリカイズムです。物体になぞらえればロケットですね。翼がなくて、非常に合理的な機械として果てしなく飛んでいく。地球そのものから離脱してくれればこちらも安穏としていられるんだけど、その観念が他国攻撃、世界破壊になっていく。その顕著な例が日本への構造改革要求やイラク戦争です。そういうものに日本が乗っかってしまった。そして、再三言うように、そのことに対して自覚を欠いたままなのが日本の保守言論なのです」
対談の冒頭、西部は、小林よしのりと切れたことを八木に指摘され、認めている。
ヨカッタ、ヨカッタ。あんな知性のないアホと西部がつるんでいた事自体が、俺には信じられなかったことだから。
posted by 死ぬのはやつらだ at 23:19
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