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(回答先: 短編小説 「参謀 世耕弘成」 投稿者 愚民党 日時 2006 年 4 月 23 日 17:24:28)
「絶対笑わないでください。笑顔を見せてはダメです」
9月 11日夜。歴史的な大勝利をおさめた自民党の党本部。午後9時を過ぎたあたりから、NHK・民放テレビ各社の総選挙特番は、党本部の会見室と中継でつなぐ。各局の呼びかけに応じて安倍晋三幹事長代理、武部勤幹事長、青木幹雄参院議員会長、そして小泉純一郎首相らが会見のために次々と登壇する。ところが、その幹部らを直前に一人一人呼び止めて「笑わないで」と声をかけ続ける男がいた。今回の選挙のために党内に設置された「コミュニケーション戦略チーム」の責任者である世耕せこう弘成・参議院議員である。
「このままいくと単独で過半数、いや300にまで届く勢いです」
幹部に迫るその表情は厳しかった。
「怖いのは反動です。嬉しくて冗談のひとつも言いたい気分でしょうが、大勝したとたんに気が緩んだと、国民には映ります。謙虚に謙虚に、責任の重さを痛感していることをアピールしなければダメです。有頂天になっていたら、今日、われわれに投票してくれた無党派層は、明日から反自民・民主支持に変わってしまいますよ」
「わかった」
「はい。じゃあ、行きましょう。いいですか。絶対笑ってはダメです」 たしかに、この夜、テレビに映る自民党幹部たちはほとんど笑わなかった。とりわけ小泉はそうだった。その様子をテレビの解説者は「(硬い表情は)責任の重さを痛感しているのだろう」と伝え、翌日以降の新聞・雑誌も「予想以上の勝利に対し、結果を出さなければという重圧と責任感を感じていた」などと形容した。勝利に浮かれることなく、真摯に政権運営に臨のぞむ――という真面目な自民党のイメージが国民に伝わり、まさに世耕らの狙い通りの展開になったのだった。
特命チームとは何か
「コミュニケーション戦略チーム」(以下、コミ戦)――。
今回の選挙戦術において、自民党は結党以来半世紀にわたって培つちかってきた伝統的な戦術や常識を覆すような手法を初めてとりいれた。解散直後に、この「コミ戦」という特命チームを立ち上げ、後述するような戦略的な広報・宣伝活動を行ったのである。このチームを組織し、統率した責任者が世耕だった。
世耕は、 98年に参院初当選を果たす前は、NTTでおもに広報畑を歩んできたサラリーマンだった。米国留学中に企業広報の学位も取得した、いわば「広報のプロ」だ。その世耕が永田町に来て最初に驚いたのが、「総理大臣が丸裸だったこと」だという。
「官邸に行ったら、森さん(喜朗前首相)の周囲を記者が囲んで立ち話――いわゆる“ぶら下がり”をしていた。一国のリーダーの言葉は、国益を左右するほど重大なものなのに、その会見をサポートする者が首相の側に誰もいない。これは大変なことだ……と」
NTT時代の世耕であれば、たとえば社長があるパーティに出席する場合には、参加者はどんなメンバーか、マスコミは来ているか、その場合どんな質問が予想されるかなど、事前にあらゆるデータを収集する。その上で、社長専用車の中で社長にレクチャーを行い、現場では常に側にいてチェック――という態勢を組んでいた。トップのメッセージや行動は、その企業の存続すら左右しかねないからだ。
官邸や自民党に、戦略的・総合的なコミュニケーション(広報・宣伝・PRを含む)部門を立ち上げる必要があると考えた世耕は、2001年、首相に就任したばかりの小泉に直訴した。
「官邸の広報体制や危機管理には戦略的な専門スタッフを置き、世論調査などのデータを集め、対処していくべきだ」と説いたのである。だが、小泉の反応は鈍かった。
「世論調査だ、データだというが、そんなものに頼っていては、たとえば(田中)真紀子外相を切れるか? 政治は直感とか信念とか覚悟なんだよ」
世耕は諦めなかった。自民党改革実行本部の事務局次長を務めながら、コミュニケーション戦略統括委員会を作り、結党 50年のイベントやロゴ、プレスリリースの作成、あるいは補欠選挙の候補者の演説チェックなど、地道な作業を続け、機会チャンスを待った。そこへ降って湧いたのが今回の突然の解散・総選挙だったのである。
8月8日の解散。世耕は党改革実行本部の上司である安倍に直訴した。
「こんなバタバタで、広報責任者がいませんよ」
「お前やれ」
「権限がなくてはやれません」
「じゃあ今日から広報本部長代理だ。武部さんには言っておくから」
次に世耕は、その足で飯島勲首相秘書官のもとに向かった。官邸の了解を取っておく必要があると思ったからだ。
「飯島さん、今後幹部を含め、みんな党本部を留守にすることになる。司令塔がいなくなる」
「そうだなあ」
ちょうど幹事長の武部もいた。
「君には全部首を突っ込んでもらって司令塔になってもらう」
「じゃあ、広報本部長代理では弱い」
「それじゃあ幹事長補佐だ」
「そんな職はないでしょう」
「オレが決めたから、あるんだ」
コミュニケーション戦略を円滑に行うには、権限なくしては進められない。世耕は思惑どおり、その権限を掌中に収める事に成功した。
解散からわずか2日後の8月 10日、コミ戦は早くも活動をスタートさせた。メンバーは責任者の世耕のほか、幹事長室長、自民党記者クラブ(平河クラブ)で記者と接する党の職員、政調会長秘書、広報本部職員、遊説担当職員、情報調査局職員、そして今年1月より、自民党が契約している広告代理店「プラップジャパン」のスタッフで構成された。
それまでの自民党の選挙広報戦略は、縦割りでバラバラだったと言ってよい。たとえば、広報本部は一説には一回の選挙に十数億とも言われる資金を使ってポスターや広報誌を作る。一方、選挙応援などは、幹事長室が中心となって決める。これでは党全体としての戦略は立てられない。組織内の壁を取り払い、全権限をコミ戦に集中させ、全体的な広報宣伝戦略を担う――それこそが世耕らの狙いだった。
発足した 10日以降、毎朝10時からコミ戦の会議は開かれた。短くても1時間、長いときには2時間。テーブルの上には、毎日、前日分の膨大なデータが山のように積まれた。マスコミ各社の世論調査、プラップジャパンが独自に行った調査、あらゆるマスコミの選挙報道、自民党幹部が出演したテレビ番組のビデオテープ……。それらのデータをすべて読み合わせた上で、広報宣伝戦略を練っていたのだった。
さらなる詳細について、世耕本人は「手の内は明かせない」と語る。だが、関係者への取材を続けるうちに、その驚くべき内容が少しずつ明らかになってきた。それではいよいよ、コミ戦が行ってきたコミュニケーション戦略の全貌を見ていくことにしよう。
http://moura.jp/scoop-e/mgendai/back/200512/index.html
作られたセリフ
「本籍も移しました。この静岡7区に骨を埋めます」
女性“刺客”候補の一人である片山さつきが街頭で繰り返し繰り返し訴えたこのセリフは、実はコミ戦が考案して彼女に“言わせていた”ものだ。
女性刺客候補のほとんどを選定したのは小泉首相とその周辺だが、選挙戦をいかに演出するかはコミ戦の最重要テーマだった。注目を集める刺客候補ならばなおさらのことである。
財務官僚出身の片山はミス東大、初の女性主計官など、経歴の話題性は十分。しかし、コミ戦にとっては、いまの世論、とりわけ静岡7区の有権者がリアルタイムで彼女をどう見ているかだけが重要なのだ。
片山が候補に決まった8月 11日、夜のテレビニュースが放送された直後に、自民党の情報調査局に一本の電話が入った。年配の有権者からだった。
「あの髪型が気になる。古くさいし、清潔感に欠けるのではないか」
さらに週刊誌が片山のプロフィールを書き立てた直後、再び調査局には別の有権者から電話があった。
「ブランドもののバッグとか、印象が良くないね」
党本部内にある情報調査局は、党員や一般人からのクレームを受け付ける、いわゆる「苦情センター」のような部門である。だが、「たった一本の電話でも、データとして戦略の議論の対象とする」ことを世耕は重視し、調査局の人間をコミ戦のメンバーにも抜擢した。
さらにコミ戦を憂慮させたのが、選挙区が静岡7区に決まった直後の彼女のテレビインタビューだった。郵政民営化法案に反対票を投じ、無所属出馬となった城内実は、番組の中で「自分は地域密着」「片山は落下傘候補」と訴えていた。これに対し、片山はこう応じたのである。
「向こうが地域密着を訴えても私はいいんです。私は小泉総理に選ばれたんです」
――静岡にはいつ入るのか。余裕があるように見えるが?
「私はマイペースです」
テレビを見た静岡在住の年配の党員から、やはり調査局に電話があった。
「あれじゃ、選挙区の人間は誰も応援しないぞ」
ただちにコミ戦で“片山戦略”が議論された。 「髪もブランド品も対処したほうがいい。一人が感じているということは、放っておけばいずれはあっという間に広まる」「城内はひたすら地域密着を強調するだろう。このまま地方対中央という対立構図を作られてしまったら政策選択という争点以前にやられてしまう。まずは片山を同じ土俵に上げる必要がある」
「候補者」誕生
世耕は、「どうすべきか」をペーパーにまとめた上で、静岡入りする直前の片山に一対一で会った。
「小泉さんに選ばれようが、そんなことはどうでもいい。変な理屈を言うべきではない。あなたも地元を大切にするという姿勢を示さなければならない。『骨を埋めます。戸籍も移しました』の一本でいくように。髪型もすぐ変えて。ブランド物は厳禁だ」
「どうして、そこまで言われなきゃならないの!」
1時間以上に及んだ話し合いの中では片山が激しく憤る場面もあったが、最後は世耕が押し切った。
その翌日からである。候補者「片山さつき」は、外見も話す内容もがらりと変わった。冒頭の「骨を埋める」発言を連発するようになり、髪型も服装もそれまでとは明らかに変わり、彼女は“地元が親しみやすい候補”として支持を集めるようになっていく。
岐阜1区の佐藤ゆかりも同様だった。佐藤は岐阜の候補に決まった直後、インタビューでこう語っている。
「飛騨の白川郷には旅行で行ったこともあります。とてもいいところで大好きです」
この発言について、コミ戦の会議では「ただちに修正が必要」との結論が出た。野田聖子との板挟みで神経質になっている自民支援者にとって、旅行程度の中途半端な「縁」を強調すれば、間違いなく強い反発を買う。議論の末、コミ戦が彼女に用意したのは次のセリフだった。
「この岐阜に嫁ぐつもりでやってきました――」
新幹線を乗り継ぎ、佐藤が選挙区入りした第一声がまさにこの言葉だった。その後も佐藤は、いたる場所でこのフレーズを忠実に繰り返している。
コミ戦の考え出したセリフだけで、片山が小選挙区で勝ち、佐藤が野田に肉薄したとは思わない。だが、客観的、組織的に危機管理を行う重要性を自民党の選挙現場に植え付けたことは間違いない。執行部経験のあるベテラン議員は言う。
「候補者が何かまずいことをした場合、今回のように本部が客観的な情報を含め、的確にアドバイスを授けるというやり方は、結果的に支持者離れを食い止め、票の減少に歯止めもかけられる」
http://moura.jp/scoop-e/mgendai/back/200512/main2.html
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