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ただの庶民だが私にも言わせてほしい
小泉「改革」の歪みが見えてきた
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福祉サービスを受けるのは贅沢か
障害者自立支援法で我が家の生活が変わる
新居チウ
小泉改革の一環として、この春から障害者自立支援法が施行され、障害者は各自の受けている福祉サービスに対して自己負担をしなければいけなくなる。政府はこれを応益負担といっていて、サービスを受けたのだからその対価を払うのは当然と主張している。
しかし、福祉サービスというのは、障害者などが日常生活で直面するハンディキャップをうめるためにある。障害を持つことを理由に贅沢をしているわけではない。私の父は身体障害者であり、現在は私と妹との3人で生活をしている。我が家の生活にもこの法律は大きな影響を与える。
障害者自立支援法はどんな法律か
今までの福祉制度では、障害者が受けた福祉サービスについては、基本的には公費でまかなうが、支払能力のある人(収入が多い人)については一部を負担するという形(応能負担)になっていた。しかし、これからはどんな事情があっても一律に自己負担をしなくてはいけなくなる。ただし、収入の状況に応じて負担の上限額があり一般は月額4万200円。低所得1(世帯全員が、市町村民税非課税・所得ゼロ・年収80万円未満の世帯)は1万5000円。低所得2(世帯員全員が市町村民税均等割非課税の世帯)は2万4600円となっている。
在宅の我が家の場合、月1回の病院への送り迎えと付き添い、週1回の入浴介護、毎日朝夕の父の食事、これらが全て1割負担になる。今までは全部が負担することなく公費で扶助されていたが、これからはそうはいかないということだ。
我が家の場合子供2人がすでに成人して仕事もしているため、家計の負担もそれほど厳しくならないですむかもしれない。しかし子供が学生であるなど収入を得るのが難しい状況でも、自己負担の上限額が変わるだけで、自己負担自体はしなければならない。この法律によって、経済的な理由から福祉サービスの利用を充分に受けられない人が増えるだろう。
実は、それこそこの法律を成立させた目的なのだ。政府は障害者に自己負担を強いることによって、福祉サービスの全体的な利用量を少なくし財政支出を減らそうとしているのである。政府の言い分としては「制度の持続可能性の確保」をその理由に挙げている。利用者が自己負担をすることによりコスト意識を促して、「真に必要なサービス」が利用され、社会的コスト負担が節約できるというのだ。
政府のもうひとつの狙いは障害者支援制度の一本化だ。今までは身体・知的・精神障害者に対する支援が、それぞれ別の法律を根拠に行われていた。これを障害者自立支援法の施行によって実質的な統合を図ろうというのだ。ゆくゆくは介護保険制度への統合が目指されている。
障害者や老人介護の制度がスリム化することは、一見良いことのように感じられる。はたしてそうだろうか? 利用者が負担を敬遠してサービスの利用頻度が抑制されることは、介護保険制度を施行したときに実際におこったことだ。このことでたとえ公費からの給付額が減っても、障害者の生活が困難となってしまっては、福祉制度の意義はなくなってしまう。自立支援というのは名前だけで実際には自立を阻害することになる。
障害者にも下流と上流が生まれる
応益負担(自己負担)制度の一番大きな問題点は、障害者が日々の暮らしを維持し、社会参加するために利用するサービスが「私益」なのかという点だ。我が家の場合はホームヘルプやリハビリのための通院、補装具(車椅子や食事をする時に手にスプーンやフォークをくくりつけるためのものなど)の購入などがあげられる。障害の種類によっては自立訓練や就労支援などの為の施設利用、デイサービスやショートステイなど、障害者本人や介護をする家族が一般的な生活をしていくのに必要なサービスが、すべて「私益」であるかのように捉えられ自己負担を強いられる。
定率の自己負担にするということは、重度の障害があり多くのサービスを必要としている人ほど負担も高額になるということだ。上限額が定められているので、結果的には応能負担(支払能力に応じた負担)だと政府は主張している。
しかし、重度の障害を負っていれば家族と同居する以外ない人が多い。その家族とて全く仕事をしないと生活はしていけないわけだから、負担上限額については低所得1・2ではなくて一般上限の適用になってしまう。高額の負担を強いられる結果、福祉サービスの利用を控えて家族がその代わりを負担せざるを得なくなる。
あるいはお金を持っている人は良いサービスを受けることが出来るが、そうでない人は質の悪いサービスで我慢しなければいけなくなる。こういうことがまかり通ってしまうことになる。今「下流社会」ということが話題になっているが、障害者の中でも上流と下流が生まれてしまうことになるだろう。
国連「障害者の権利宣言」
1975年に国連総会で採択された「障害者の権利宣言」の中には、「障害者は障害の原因、特質および程度に関わらず、同年代の市民と同等の基本的権利を有する。このことは、なによりもまず、可能な限り通常のかつ満たされた、相当の生活を享受する権利を意味する」とある。そして、そのための援助をすることは国家と社会の義務であるとしている。
今回の障害者自立支援法はこの国際基準に合致しているだろうか? 私は否だと思う。市場原理のみで考え、自己責任の名の下に、「最低限度の文化的な生活」を営む権利すら奪おうとしている。
これから増えてゆく高齢者層に対して若年者層は少ない。福祉制度を充実させてゆくためには財源の確保が難しくなっていることは確かだ。しかし、だからといって安易に障害者や老人に対して負担を強いることでよいのだろうか。
政府は在日米軍に対して年間数千億円の税金を「思いやり予算」として供出している。今行われている米軍再編では、別予算を設けて移転費用を私たちの税金から支出しようとしている。厚生労働省は利用者が自己負担をすることでの国庫負担の抑制額は1000億円程度と試算している。税金がアメリカ軍のために多く使われ、国民の福祉には使われないなんて矛盾しないか。
誰でも年をとれば介助が必要になってくるし、どんな偶然から障害を負ってしまうとも限らない。そんな時のセーフティーネットが取り外されてゆく動きに、歯止めをかけなくてはいけないと切に思う。
参考文献 「障害者自立支援法と応益負担―これを福祉と呼べるのか―」(障害者生活支援システム研究会 かもがわ出版)
(郵便局員)
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自由な入札=善とは言い切れないのがわかった
春川奈津夫
土木局用地部用地課に勤務
事務職の地方公務員にとって、転勤は数年に一度の大イベントだ。畑違いの部署に異動すれば、全く別の業界に転職するくらいに仕事の中身が変わる。一定の待遇を保障された中での転勤話だから、いい身分ではあるのだろうが。
それまで住民票を出すような窓口部署にいた私は、転勤先を「土木局・用地部・用地第二課」と告げられた。具体的な仕事のイメージは思い浮かばなかった。
土木関係というのはわかる、でも「用地」って何?「用地内農民を守れ」という三里塚闘争のスローガンを、私はその瞬間に思い出すことができなかった。
道路の幅を拡張する公共事業用地を買収する仕事だった。「土地を売ってください」と地主に頭を下げ、土地代や移転補償の金額を計算して相手を説得し、売ってもらった土地を「国土交通省」などの名義に書き換える事務手続き等を行う。
配属された初日、先輩職員が「移転補償」の書類を見せてくれた。道路の拡幅予定地に建っていた個人住宅1戸を移転してもらうために、建物の価値を査定し、補償金を算定して建物所有者と交渉し、契約を結んで実際に立ち退いてもらうまでの経過がつづられた書類だった。百科事典2冊分くらいの厚みがあった。
「これ全部、1軒の家だけのための書類ですか」「そうだよ」「全部、私とかが作るんですか」
「いや、建物の調査をして図面とか積算資料とかを作るのは専門業者さんだけどね、でもそれ全部チェックするのは自分だよ、なんかあったら責任問われるのはアンタだから」
無茶苦茶だ。建築士の世界なんか覗いたこともない自分が、どうしてプロの仕事をチェックしたり結果に責任取ったりできるのか。
書類の大部分を占める建物査定資料を直接作成するのは、「補償コンサルタント」という業種の民間業者さんたちだった。
安かろう悪かろう
公共事業のために建物などを移転してもらう場合、役所など「事業者」は補償金を支払う。「権力の横暴」と言われないだけの充分な金額である必要があると同時に、「公金の無駄な支出」と言われるような不当な高額でないことも必要である。だが「正当な補償額」を個々の物件ごとに査定するのは、単なる事務職のシロウト職員には難しい。そこで建設関係の専門知識を駆使してこの査定を請け負う、「補償コンサルタント」という専門業が成立する。「この建物を別のところに新しく建て直したら、トータルでいくらかかるか」の想定の、数字を割り出す仕事である。
現地の建物に入らせてもらって実地に調査し、膨大な資料を作成する。多少大きめの工場が対象になる場合など、仕事の成果品は何千ページもの資料となり、補償コンサルタントに役所が支払う委託費用だけでも1千万円を超えたりする。この査定の仕事を請け負う業者の選定は競争入札によって行い、一番安く請け負う業者を選ぶのが原則である。
公正さを確保するために不可欠とされる入札制度だが、基本的に「安ければ安いほど良い」というだけの基準で業者を選ぶ仕組みだから、必然的に「安いだけ」の業者さんばかりが勝ち残ることにもなりかねない。
「え、Aが取っちゃったの、だいじょぶかよ」 私が入札に出した仕事を取った業者名を見て、先輩職員が叫んだ。A社は杜撰な仕事ぶりで以前から悪名が高かったが、これまで小口の仕事ばかりを取っていたため大問題にならずにきたのだ。ところが私の発注する委託業務は、係が年度一番の目玉として勝負をかけていた大口の仕事である。
案の定、2ヵ月後に出てきた成果品は素人目に見てもヒドイ出来だった。プロの仕事といっても、何百ページもの書類の中にミス一つ見つからないということはほとんどない。私みたいなド素人がチェックしても、身を入れて見れば多少の単純ミスは必ず出てくる。しかし基本的に金額の積算方法そのものを、業者さんが全く理解していないのではそもそも委託に出す意味がない。
委託契約の期限を過ぎてからも修正に修正を重ね、それでもマトモな成果品は出てこなかった。相手は曲がりなりにもプロの業者さんだからと下手に出ながら、ミスの指摘を続けていた私も「他の業者さんに手伝ってもらってでもやってください」と言わざるを得なくなった。最後は業者の仕事を叩き台にしながらも、私が何日も徹夜のシロウト仕事をやって、建物再建の想定計算を一から行うハメになった。
落札率の高さは問題なのか
本当なら、こういう業者さんは役所の仕事から排除するのが正しい対処かもしれない。しかし、この業者は極端でも、民間業者さんのミスのフォローを役人がやっている場面はハッキリ言って少なくない。しかも仕事を最後までやって初めて気付いたのは、そもそもの発注金額を安く設定しすぎた私自身のミスである。
競争入札の前提として、落札価格の上限を定めるのは、これまた私の仕事である。委託に出す業務の全体量を割り出して、その全部をこなすのに必要な金額がいくらかを算定、それより高い金額ではどの業者にも落札させないという上限額を最初に私が決めているのだ。まだ仕事量を把握しきっていない私が、マニュアルと睨めっこして算定した上限額が本当は安すぎたのである。だからマトモな業者さんは元々採算に合わないこの仕事を取ろうとせず、営業マンだけが頑張っているA社が間違って落札してくれてしまったのだ。
以上のことから言ってそもそも入札制度とは何かという疑問を私は払拭できない。事業者が設定した最高落札価格ギリギリの価格で落札されている建設事業が多い、これは事業者である役所が事前に業者に上限価格を漏らしているからではないか、と世間では問題になっている。だが設定されている上限額そのものが、法外に高いのかどうかを検討した上でなければ落札率の高さそのものは、問題にするべき話とは言えないのではないか。
私の場合のように算定にミスがあった場合は論外としても、業務委託費を少しでも抑えようとの意識は事業者には常に働くから、落札の上限額自体を抑え気味に設定するのは普通にあることだ。その上限額自体が「この額で仕事をしてもらっても不当に高いとは言えない」という額であり、それは経験豊富な業者が仕事の現場を事前に見て割り出す「これくらい払ってもらわないと仕事にならない」という最低ラインの請負価格と大差ないことが望ましいのである。
特定業者の間でばかり仕事を回しあう閉鎖性が打破できないのは問題だし、特定業者に事前に落札上限価格を漏らして、賄賂を受け取る役人などは処罰されるのが当然だ。しかし入札の理念を純粋に突きつめるだけになれば、生き残るのは仕事を安請け合いする業者さんばかりになりかねない。その下で労働者が劣悪な労働条件で働きながら、業者は質の悪い仕事で自転車操業を続ける。すべてがそんな状態になったら、世の中は崩壊するだけなのではないだろうか。
(地方公務員)
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(2006年4月25日発行 『SENKI』 1210号5面から)
http://www.bund.org/opinion/20060425-3.htm
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