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□筆坂秀世氏の本を読んで/不破 哲三|しんぶん赤旗
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-04-19/2006041925_01_0.html
2006年4月19日(水)「しんぶん赤旗」
筆坂秀世氏の本を読んで
不破 哲三
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筆坂秀世氏が、『日本共産党』(新潮新書)という本を出しました。氏は、二〇〇三年六月にセクハラ事件で党中央委員罷免の処分を受け、参議院議員を辞職したあと、二年ほど党本部に在籍しましたが、〇五年七月、みずから離党を申し出て日本共産党を離れました。同年九月二十九日号の『週刊新潮』に「日本共産党への『弔辞』」と題する「特別手記」を掲載し、党に敵対する立場を明確にしました。
この本を読んだ不破哲三前議長から、次の一文が本紙に寄せられましたので、掲載します。
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ここまで落ちることができるのか
筆坂秀世氏の日本共産党攻撃の書を読んでの感想は、一言でいえば、ここまで落ちることができるのか、という驚きである。
筆坂氏によれば、自分は「プライドを取り戻す」ために党を離れ、共産党の「実像」を国民に知らせるためにこの本を書いた、とのことである。
しかし、彼が自分の「プライド」を傷つけられたという筆坂問題とは、だれかが彼をおとしいれたという問題ではなく、彼自身がひきおこした問題である。筆坂氏自身がやった行為について、一女性からセクハラの被害をうけたという訴えがあり、当人にただしたら、訴えの事実があったことを認め、女性への謝罪の意思を示すとともに、自分の性癖についても、「刹那(せつな)的な享楽」を求めて同じような行為に出たことがこれまでにもあったことを認め、そのことを自分から「自己批判書」に書いて提出した。それにたいして、規約にてらして処分をおこなったのが、筆坂問題だった。
しかし、今回の本では、自分の行為で被害を受けた女性への一言の謝罪の言葉もなく、「なぜセクハラという訴えになったのか、今もって不可解」と、問題がまるで“冤罪(えんざい)”であったかのように見せかけている。本当に“冤罪”だと思ったのなら、なぜ、そのとき、正々堂々と自分の態度を説明しなかったのか。そして、いま、問題を“冤罪”にすりかえることで、自分の“プライド”を取り戻そうとしているのだとしたら、それは、人間のモラルというものを、自分本位の立場で、あまりにも安易に捨て去ることではないか。
筆坂問題で、被害を受けたのは、当の女性だけではない。全国の多くの党員が国民のあいだでの活動でどんなにつらい思いを経験したか。国民のあいだでの日本共産党の信頼性がどれだけ傷つけられたか、党が受けた打撃は、はかりしれないほどのものがあった。しかし、全国の党員たちのそういう思いには、筆坂氏はまったく目を向けようとはしない。それどころか、日本共産党を攻撃する本のなかで、自分こそ草の根の党員の代表者だ、といったそぶりで、党中央への文句をならべて見せる。
私は、これまでの党生活のなかで、党員としての立場を捨てて敵対的な立場に移った人びとを少なからず見てきたが、このような厚かましさは、私の経験にはほとんど前例がないものである。
驚かされたことは、もう一つある。たとえ、政治的にどんな立場をとろうと、言論で活動しようとする者なら、事実を尊重するという精神は、欠くことのできない資格条件となるはずである。しかも、筆坂氏は、この本の発行にあたって、かつて党の常任幹部会委員の部署にあったものとして、外からは見えない“日本共産党の本当の姿”を書くということを最大の売り物にしている人物である。
私は、筆坂氏の次々持ち出してくる“本当の姿”なるものに一つ一つ付き合うつもりはないが、私の立場上、どうしても触れる責任があると思う二、三の点についてだけ、発言しておきたい。
筆坂氏の語る「真相」とは……
私は、ある週刊誌にこの本の予告的な報道記事が出たとき、それを読んで目を疑った。記事には、「宮本顕治氏(97)の議長引退の真相が初めて明かされた」というリードがつけられ、本文には、筆坂氏の本からの次のような引用があった。
「宮本氏は……まだ引退するつもりなどなかった。不破氏が数日間の大会期間中、その日の日程が終わると東京都多摩市の宮本邸まで行って、『引退してほしい』と説得し続けたのである。(中略)宮本氏の秘書をしていた小林栄三常任幹部会委員(当時)も同行したように聞いている」。
党の大会のことをまったく知らない人ならいざ知らず、少しでも大会の様子を知っている人なら、党の委員長であるとともに大会での中央委員会報告の報告者である私が、日々の日程が終わったあと、毎晩、伊豆多賀の大会会場から東京に取って返し、宮本邸を訪問しては伊豆多賀にとんぼがえりをしていたなどとは、想像しがたいことだろう。実際、日本共産党が、伊豆多賀の党学校で大会を開くようになってから、すでに二十九年たつが、その間の十一回の大会期間中、私が東京に帰ったのは、二〇〇〇年秋の自民党内の“反乱”――いわゆる“加藤の乱”――の時、大会への報告を終えたあと、国会議員の責任として、夜の衆院本会議にかけつけ、未明に大会会場に帰ったという経験が一度あるだけだ。
“本当にこんなことが書いてあるのか”と半信半疑の気持ちで、後日、発売された本を開いてみると、「宮本議長引退の真相」と銘打った部分に、予告されていた通りの文章があった。
これは、筆坂氏の頭のなかでつくりだされた虚構と妄想の世界での話としか、考えられない。
宮本さんの退任の経過について
筆坂氏がつくりだした「真相」なるものが、マスメディアでずいぶん流布され、誤解も広まっているので、私は、当事者の一人として、正確な事実をお伝えする責任を感じている。
宮本さんの議長退任が決まったのは、一九九七年九月の第二十一回党大会だったが、その一つ前の第二十回党大会(一九九四年)の直前に、宮本さんは、脳梗塞(こうそく)の発作を起こしてたおれ、大会には出席できなかった。その後、一定の回復をして、中央委員会の総会には顔をだしあいさつや発言をしていたが、病気の進行とともに活動上の困難が強まってきた。九七年を迎えたころは、中央委員会総会への出席でも車いすが必要となり、発声の苦しさも周囲から目にみえるようになった。
九七年五月の中央委員会総会で、九月に大会を開くことが決まったあと、私は、長くいっしょに活動をしてきた者として、宮本さんの退任の問題について、二人での話し合いを始めた。高齢という問題もあるが、いまの健康状態で議長の職務を続けることは、党全体にとっても、ご当人にとっても適切なことではない、と考えての提起だった。戦前・戦後、党中央で一貫して活動してきたただ一人の幹部という経歴からの思いもあり、一致した結論にいたるまでには、時間がかかったが、九月に入って間もなく、話し合いがまとまった。大会にたいする報告を承認する中央委員会総会(九月二十日)を終えたあと、私と志位書記局長(当時)の二人が宮本さんと会い、二人が議長退任の申し出を受けた。この間、筆坂氏がいうような、小林栄三さんが、私に同行したり、話し合いに同席したりした事実はまったくない。
こうして、宮本さんの退任の問題は、大会開催(九月二十二日)までにすっかり解決していたことだった。
党大会では、二日目の夜、常任幹部会を開いて、宮本さんの退任問題を報告、翌三日目には、夕方から幹部会および中央委員会総会をひらいて、同じ報告をおこなった。このことを前提にして、中央委員会として大会に提案する中央役員および名誉役員の推薦名簿を作成した。
この日程を見ていただければ、筆坂氏のいう「真相」など、入り込む余地がまったくないことがお分かりいただけるだろう。
自分でつくった「ガセネタ」を自分で流す
さらに重要なことがある。いま説明した日程には、筆坂氏自身も参加していた。彼は、当時、中央委員で幹部会委員だったから、大会三日目の二つの会議には参加して、その報告を聞いていた。だから、自分の記憶に忠実でさえあるならば、筆坂氏がいうような日程などありえないこと、つまり、自分が「真相」として宣伝するものが、小泉首相の用語法にならえば「ガセネタ」であることを重々承知していたはずである。
なぜ、このような「ガセネタ」が筆坂氏の頭に浮かんだのか、それは私の知るところではない。しかし、まったく事実になく、道理から言ってもありえない「真相」話を、彼が自分でつくりあげて、それをこの本を通じてマスメディアにふりまいたことは、まぎれもない事実である。民主党のメール問題では、「ガセネタ」の情報源と流布者は別人だったが、筆坂氏の場合には、「ガセネタ」の情報源と流布者が同一人物なのである。それだけ、その罪の重いことは明りょうだろう。
筆坂氏の本には、日本共産党の内部事情なるものについて、数多くの「真相」話がもりこまれている。しかし、もっとも人目を引く「真相」話としてマスメディアに売り込んだ「宮本議長引退の真相」なるものが、こういう手法で製造された「ガセネタ」だったとなると、その他の「実像」話のつくられ方も、おおよそ想像がつくのではないだろうか。
「不破議長時代の罪と罰」とは……
筆坂氏は、その本の後半に「不破議長時代の罪と罰」という章をたてて、「本当に不破議長は完全無欠なのだろうか」と問いかけている。この問いかけはまことに奇妙なものである。どんな人間でも「完全無欠」な人間などありうるはずはないし、私自身についていえば、私は“よりよく、より欠陥すくなく”あることを願いはしても、“完全無欠”な人間になることなど考えたこともない。
しかも、もう一つ奇妙なことがある。筆坂氏の問いかけは、政策や理論の分野を問題にしているようなのだが、その点で、彼が私の誤りあるいは失敗として問題にしているのは、次の章の「日本共産党の無謬(むびゅう)性を問う」をあわせても、拉致問題での外交交渉を論じた党首討論(二〇〇〇年十月)と民主連合政府のもとでの自衛隊の扱いについてのテレビ討論での発言(同年八月)と、二つの点しかない。私が日本共産党の議長をつとめたのは、第二十二回大会(同年十一月)から第二十四回大会(二〇〇六年一月)までの五年二カ月だが、その全期間を筆坂式で調べても、この二つの問題点しか見つからなかったのだろうか。しかも、二つの問題点なるものは、どちらも私が議長になる以前のことであって、それを「委員長時代」ではなく、「議長時代」の「罪」に数え入れるのは、「看板に偽りあり」ということになろう。
提起されている二つの問題点については、どちらも、ここに「罪」を求めるのは筆坂氏の独断にすぎない。
拉致問題での外交交渉についていえば、私が提起したのは、拉致問題とは北朝鮮の国際犯罪にかかわる問題であることを十分に意識した、緻密(ちみつ)な外交努力を求めたのであって、これを“拉致棚上げの主張”と非難するのは、まったくの曲解である。
その後、小泉首相の第一次訪朝のさいに、北朝鮮側が、拉致という国際的な犯罪行為を犯したことを部分的にもせよ認めた、という展開があった。この第一歩を、問題の根本解決に前進させるためには、国家的な国際犯罪という拉致問題の重大な性格を正面からとらえて、それにふさわしい緻密な外交態度をとることが、いよいよ重要になってきた。そこに、拉致問題の現状の大きな特徴があることを指摘しなければならないだろう。
また、テレビでの安保論争についていえば、このとき、私が論戦の当事者として確認したのは、私たちの安保政策に、憲法完全実施および国際的な平和秩序の確立にいたる過程での対応論が十分に整理されていない、という問題だった。私たちは、その年の党大会では、それまでの政策をさらに大きく発展させ、民主連合政府のもとで、国民合意のもとにすすめる段階的な安全保障政策と対応する自衛隊政策を決定した。私たちの政策のこうした発展のプロセスは、公開された形で明らかになっていることで、筆坂氏の“内幕”話などが入り込む余地は、なんら存在しない。
なお、こうして確立した民主連合政府下に憲法完全実施に進む段階的な政策は、次の大会での綱領改定のさい、党の基本政策の一部として、党綱領にとりいれたことを、付記しておこう。
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