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丸腰平和論こそ日本の敗戦経験を世界史に残す唯一至上の知恵
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http://www.jca.apc.org/~altmedka/2003aku/aku927.html
http://www.asyura2.com/0411/war65/msg/548.html
『亜空間通信』927号(2005/01/01)
【戦力放棄9条の発想「老いては子に従え」皇太子家庭教師の平和主義クェーカー教徒の影響を想う】
[中略]
私は、昨日(2004/12/31)、大晦日に、以下に抜粋する通信を発した。
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『亜空間通信』925号(2004/12/31)
【憲法9条・救国トリック説(昭和の三傑)WiLL2号記事で筆者の旧友・堤堯に三国志
空城計を指摘】
[中略]
マッカーサー元帥への「戦力放棄」条項の提案者を、幣原喜重郎だとしている。
しかし、堤は、この「奇想天外のトリック」に関しては、さらに「幣原ひとりの発案
だったのか」と問い掛け、「史料を読み解くほどに、鈴木貫太郎、幣原、吉田ーー三
代宰相の合作のフシがある」とするのである。
[中略]
私は、「昭和の三傑」の内の誰か一人ぐらいは、この三国志の空城計を知っていたに違いないと思うし、家康の「奇計」の背後には、本人か、軍師か、家臣のだれか、三国志の故事を知る者がいて、徳川家の惨敗の危機に直面した際、即座に、応用した可能性ありと考える。
よって、本日(2004/12/31)、「日本国憲法9条、戦力放棄の淵源は三国志の故知、
空城計にあり」とのわが新説を、ここに発表するものである。
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この通信に対して、ある読者からの個人宛メールで、次の意見が寄せられた。
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憲法九条の発案者については元毎日新聞記者でしたか、大森実『戦後秘史』全10巻の最初の方の1冊を費やして、論証していますよ。結論は今上(当時)である。という事でした。
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「今上(当時)」とは、「今上天皇」、つまり、当時の天皇の裕仁のことである。
その一方、上記の通信を投稿した阿修羅戦争掲示板では、以下に抜粋するフォローがあった。
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Re:憲法九条は日本人の発案、相曽誠治著「サニワと大祓詞の神髄」
http://www.asyura2.com/0411/war65/msg/518.html
投稿者 愛久 日時 2004 年 12 月 31 日 16:06:43:TajVyDOmXA31A
(回答先: 憲法9条・救国トリック説で筆者の堤堯に三国志空城計を指摘 投稿者 木村愛二 日時 2004 年 12 月 31 日 11:04:30)
木村愛二さんのお考えとはまったく違うと思いますが、私が以前読んだ神道の大家、相曽誠治氏の著作「サニワと大祓詞の神髄」(山雅房)という本の44頁から47頁を引用します。
[中略]
憲法第九条(戦争放棄)は日本人の発案
[中略]
「”争うな、戦うな”が皇祖皇宗の教えというのは真理か?」
「もちろんです。戦ってはいけません。戦ったから負けたのではないですか」
「確かにそうだな。初めてわかった。処刑される前に最後の御奉公をしたいのだが……」
「先生、いったい何を考えておられるのですか?」
「ほかでもない、新憲法に戦争放棄をうたうようマッカーサーに英文で手紙を書いたのだ」
「先生が直接渡すのですか?」
「いや、じかでは先方も受け取らないだろう。大先輩の幣原の所へ持っていく」
こうして幣原喜重郎首相の所に戦争放棄の原案が持ち込まれたわけです。幣原は外務次官や外務大臣などの外交官畑を歩いてきた政治家です。終戦後の一九四五年十月、首相に就任し、占領軍の政策に従って憲法の改正に着手しました。
幣原は白鳥の発案であることを極秘にし、戦争放棄の案をGHQに提出します。この秘話を知っているのはほんの数人だけです。戦争放棄は進駐軍から押し付けられたと世間一般では考えられていますが、実は白鳥敏夫の発案だったのです。
幣原の子息はかって獨協大学の教授をしていましたが、このいきさつについては全く知りませんでした。
「父は戦争放棄の原案には全く関与していません。日記や書き残したメモにも全くそのような経緯は見当たりません。何かの間違いではないでしょうか」
幣原はそこまで慎重に事を運んだのでしょう。
ただ、白鳥の後輩に当たる外交官がわたしの話に近い内容を週刊誌で発表したことがあります。幣原やわたし以外にも白鳥から胸中を打ち明けられた人がわずかにいたのでしょう。
現行憲法の第九条、戦争放棄は神界のおぼしめしです。
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この種の「誰が最初に言い出したのか」という問題では、何人もの自薦、他薦の候補者がいるものである。重要な問題だから、皆が何かを考え、提案しているのである。だから、私は、以下のフォローで答えておいた。
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来年の元旦に別途投稿予定。案の定、議論百出。 Re:憲法九条は日本人の発案
http://www.asyura2.com/0411/war65/msg/521.html
投稿者 木村愛二 日時 2004 年 12 月 31 日 18:49:00:CjMHiEP28ibKM
(回答先: Re:憲法九条は日本人の発案、相曽誠治著「サニワと大祓詞の神髄」 投稿者 愛久 日時 2004 年 12 月 31 日 16:06:43)
この件は、やはり、非常に複雑である。
来年の元旦に別途投稿予定。案の定、議論百出。
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私は、2年前の夏、敗戦記念日の前日、8月14日に、以下に抜粋する通信を発している。
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http://www.jca.apc.org/~altmedka/aku336.html
WEB雑誌『憎まれ愚痴』/『亜空間通信』336号(2002/08/14) 阿修羅投稿を02.12再録
815右も左も聞け詔書「太平ヲ開カムト欲ス」吉田茂9条説明審議録(拍手)
[中略]
当時は全く意味の分からなかった「詔書」の「チンブンカンプン」の文章を無理して読むと、そこには、「萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」とある。つまり、「恒久平和実現」の願い、またはその努力の約束である。これは、いわゆる右翼にとっては、「大御心」なのである。これに背くわけにはいかないはずだ。
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私は、誰かというよりは、この「詔書」の中の「萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」という言葉に、当時の日本の体制の生き残りの智慧が結晶したのだと判断する。
しかし、この日本の体制の生き残りの智慧は、占領軍の最高司令官、マッカーサー元帥の考えを抜きにしては、実現できない。
では、マッカーサー元帥は、何を考えていたのか。「天皇を利用する」方針は、アメリカの当時の政権によて、それ以前に決定されていた。
そこで、当時の日本を巡る国際的な状況を考える必要がある。アメリカは、第二次世界大戦の終了と同時に、ソ連を中心とする社会主義圏との抗争に直面していたのである。日本列島は、その戦いの、ソ連と中国を睨む「浮沈空母」となったのである。
この戦いは、思想戦争でもあった。
以下、最近の翻訳グループ、TUP(速報)井上利男の電網宝庫から、「キリスト教を活用するマッカーサーの計画」を、抜粋して紹介する。簡単に言えば、マッカーサーは、アメリカのキリスト教の内部での旧教と新教の勢力争いを避けるために、日本の皇太子(現・天皇)の家庭教師に、少数派のクエーカー教徒のエリザベス・グレー・バイニングを選んだのである。
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http://www008.upp.so-net.ne.jp/aiz/iraqof_sp-2.html
赤旗とキリスト教戦士たち
戦艦ミズーリ甲板上で日本の降伏を受けいれてからようやく1ヶ月たった1945年10月のある日、東京中心部にある第一生命ビルに構えた占領軍司令部で、ダグラス・マッカーサー元帥はアメリカ宗教界を代表する聖職者たちと向かい合って着席していた。戦後日本に初入国した民間人である彼ら4人は、第2次世界大戦中に途絶えていた日本キリスト教団との対話を再開する目的で来日していた。
生涯を通じて監督教会派のキリスト教徒だったマッカーサーは、できるだけ早く1000人の宣教師を派遣してほしいと彼らに依頼した。「日本は精神の空白地帯なのです」と彼は言った。「それをキリスト教で満たさなければ、共産主義が埋めるでしょう」
このようにして、冷戦期のきわめて奇妙なエピソードのひとつ、日本をデモクラシーの反共親米拠点に仕立てる使命に、キリスト教を活用するマッカーサーの計画が動きはじめた。
1946年から50年の間に、キリスト教の主流諸宗派の呼びかけに応じ、またアメリカ政府上層部からの祝福を受けて、2000人の教師、福祉関係者、福音伝道者が来日した。
[中略]
アメリカの十字軍は、物量だけが頼りだったので、みじめな失敗に終わった。第2次世界大戦後の政治混乱のさなか、数百万規模の国民が日本共産党に入党し、左翼と組んで労働組合を組織化し、またはそれに加盟し、あるいは核兵器の拡散と実験に反対してデモをした。戦後56年たった今、キリスト教徒を自認する国民の数は総人口の1パーセントの半分程度であり、真珠湾攻撃以前のそれと同じ水準である。
[中略]
戦後の最初の年だけで、労働組合の数はゼロから1万2000に跳ねあがり、擁する組合員の合計は370万人になった。「このような改革の断行が共産主義者に圧倒的な勇気を与え、GHQ(マッカ-サーの最高司令部)が共産主義者を援護しているという印象を国民全体に与えた」と、日本のキリスト教神学教授が1950年の報告に書いた。
[中略]
また共産主義者は、日本のアジア侵略を主導し、国民をアメリカとの悲惨な戦争に引きずり込んだ国粋主義を拒否する日本国民の深い思いをうまく活用した。クエーカー教徒であり、明仁皇太子(現天皇)の家庭教師を務めたエリザベス・グレー・バイニングは、回顧録『皇太子のための窓』に、このような日本国民の超越性への渇望について記している。彼女の眼には、日本の共産主義者が多くの支持者を得たのは、日本のみならず世界に通用する理想主義を提示したからであると映った。「彼らによれば、共産主義は人類愛なのだ。ここには身を捧げても構わない類の高貴ななにかがある。人類のためには人は身を捨てても構わない」とバイニング夫人は書いた。同時に、左翼は「占領軍とその失策と不公平さへの反感をも利用した。共産主義者たちだけが国民を救いたいと願っていると人びとに約束した」
[中略]
[筆者] ティム・ショロックは米メリーランド州シルバースプリング在住のフリーランス・ジャーナリスト。[中略]
[原文] Red Flags and Christian Soldiers
Tim Shorrock, Killing the Buddha, 2003
http://www.killingthebuddha.com/dogma/red_flags.htm
Copyright C2003 Tim Shorrock
翻訳 井上 利男 / TUP
[後略]
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クエーカー教徒は平和主義である。「老いては子に従え」、裕仁は、当時、すでに13歳の皇太子、明仁の意見も聞き、その家庭教師のバイニング夫人の平和主義の影響も受けたと考えると、憲法9条の戦力放棄の条項の発想は、さらに歴史的な広がりを見せるのである。
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http://www.jca.apc.org/~altmedka/hibusou.html
政策提言集
緊急提言
平和のために血を流す覚悟
NGO(非政府組織)・熟年・非武装・無抵抗・平和行動隊結成
初出:『フリージャーナル』23号(1994.7.8)
一部改訂:1998.9.17.
追記:2001.10.18.
「自分は何をするのか」/実践なき理論は無力
湾岸戦争からカンプチア PKOにかけて、平和憲法に関する講演や討論に何度も接した。だが、いずれも、満足とはほど遠い内容だった。不満足の基本的な原因を率直にいうと、発言者の実践の姿勢が第一の問題である。
私自身は昔から執筆だけでなく、学生運動、労働組合運動、政治活動で、文字通りに身体を「動かす」方だったし、その果てには「地獄を見てきた」と評される解雇反対闘争まで16年半も経験した。それでも懲りずに、「湾岸平和訴訟」(戦費90億ドル支出違憲など)でも原告になり、口頭の本人陳述、2時間ほどの証言をした。裁判所の前でビラを撒き、宣伝カーのマイクを握って訴えた。その後のカンプチア出兵に際しては「 PKO法違憲訴訟」で原告および運営委員になったし、現在も「ゴラン高原出兵違憲訴訟」の原告、事務局メンバーになっている。
だからと言って、別に、オレは苦労しているとか、世のため、人のために自分を犠牲にしているなどと言うつもりではない。むしろ、そんな独りよがりは、すべて偽善だとさえ考えている。しかも、そのような私自身の人生経験から生まれた思想の正しさは、最近の「自己中心の遺伝子」説の確立によって、完璧に証明されている。
ビラまきの最初は「ビラまき3年、ガリ8年」時代だ。デモは健康にいい。いずれも、いわゆる60年安保以来続けてきた行動パターンの延長だから、一向苦にならない。むしろ、こうした街頭行動でストレスを解消しているといってもいいだろう。
文章を書くか、室内で講演するだけという日本的文化人パターンは、想像するだけでも不健康で、とても付き合いきれない。1960年安保の時期には、フランスの知識人の物真似で、「アンガージュマン」などという下手な発音の「参加」の提唱が盛んだった。だが当時の日本の多くの知識人にとって、下手な発音の物真似は所詮、付け焼き刃でしかなかったのだろう。当時のような行動参加が継続している人は非常にまれである。
私は PKO法審議の国会にほとんど連日通ったから、私の脳ミソのシワの中には、そこに誰の顔が見えたか、あるいは見えなかったかという映像情報がタップリ蓄えられている。
もちろん私は、 PKO法審議中の国会に顔を出さなかったという理由だけで、実践の欠如だと決め付けたり、そういう学者文化人の発言をすべて認めないなどというような、偏狭な立場を取るつもりはない。人それぞれに健康状態とか、行動のスタンスの取り方とかがあるものだ。特に、かつてのような社会党・共産党の共闘体制が不可能になって以来、街頭行動に加わりにくい事情が倍加したのも事実である。そんな状況をも合わせ、街頭行動に参加しない論者を頭から無視はしない。その証拠に、そういう論者の講演会などにも参加し、そこで聞いた話を大いに参考にしている。
だがしかし、どの論者の話を聞いても不満足であり、展望が見えてこない。その理由は至極簡単である。考え方の参考にはなるが、今後の指針になるような行動の提起がないからである。私にとっては今、自分が何をすればいいのかが、最大の問題なのだ。だから、結局、私にとっては、自らの実践に裏付けられた行動提起がない理論は、結論部分を欠いており、不十分ないしは無力なものでしかない。
若者の命を当てにした「平和論」はすべて欺瞞
さて、きたる1994年11月3日、文化の日こと日本国憲法発布記念日に、こともあろうに「あの」、ヤクザ拡張販売で最大部数を誇る読売新聞が、新たな憲法改正論を発表するとホザイテいる。
読売新聞社長のナベツネは、政治部記者時代にナカソネやコダマなどと組んで恐喝まがいの政界裏工作をやり、その事実が露見した際には、机の上にナイフを刺して居すわったという典型的なヤクザ記者上がりだ。正真正銘のゴロツキである。
私は、拙著『マスコミ大戦争/読売vs TBS』で、その前後の事実をさらに追及し、「公開質問状」として読売新聞の広報部長に渡してある。社屋の前でビラもまいた。新著『電波メディアの神話』でもナベツネを「ゴロツキ」と明記した。
これでも沈黙しているのなら、次には「腰抜け」と書く予定だ。ところが、「この」腰抜けのナベツネが「あの」政界のゴロツキのイチロウなどと呼応して、憲法改正論をブチマクリ、それをどのメディアも文化人もまともに批判できないというのが、情けない日本の現状だ。
しかも、ある程度はまともで善意と思える「平和論」の中にさえ、子供の読解力でも憲法違反が明白な「自衛隊」を、結局は容認する論議が出てきた。
もう一つの流れとしては、日本は憲法通りに非武装にし、国連警察軍に個人参加すればいい、という論議もある。
だが、失礼ながらこれらの「平和論」も要するに、平和を守るために「武力が必要」だという点で、ナベツネらと選ぶところがなくなるのだ。しかも、最大の問題点は、それらの軍事力または警察力を肉体的に担うのが、誰かということである。
ナベツネらのゴロツキはいうにおよばず、たとえ善意であっても、他人の、しかもほとんどの論者の場合、自分よりも若い、時には自分の子供や孫の世代の若者の命と引き換えに、自分は安全な書斎にこもりながら、「平和」を論じていることになる。一体、それでいいのだろうか。
沖縄の「ぬちどぅ宝」はかなり知れ渡った。命とは、誰にとってもたった一つの、貴重この上ない宝物だ。だから、私の考えでは結局、若者、多くのG7経済大国においては失業すれすれの立場の若者の命を当てにすることになる「平和論」は、右であろうと左であろうと、欺瞞にすぎなくなる。
自分の命を賭ける「非暴力主義」の可能性
後に残るのは、憲法の条文通りに非武装、自衛隊廃止、「世界に憲法9条を広めよう」などという主張である。
ところが、この論議では、民族紛争などの最中にある人々への即効性がない。すくなくとも、そういう批判が成立する。そこで、各種の自衛隊容認論なり、国連警察軍必要論が現れるのだ。
以上、紙面の都合上、思いっきり省略したが、各種の議論、または理論を総合的に考慮した挙げ句、標題の通りに、自らの「血を流す覚悟」を定め、「非武装・無抵抗」の平和行動を提起することにした。「熟年」が何歳以上かは、各人の判断に任せ、性別は問わない。
ガンディーの「非暴力」思想の真似だと考えられても結構である。
追伸:具体的な説明
1998.6.4.かねてからの断片的口頭補足説明の書き下ろし。
上記の「自衛隊容認論」の具体例としては、当時、総合雑誌『世界』に書いた木村晉介弁護士、「国連警察軍必要論」の具体例としては、弓削達らがいた。
だが当時は、あえて名を挙げて上記のごとく、「若者の命を当てにする『平和論』は、右であろうと左であろうと、欺瞞」と指摘するのも憚られたので、特に個人名は記さなかった。
湾岸戦争後に、ある(名を忘れた)雑誌で、ヨーロッパで第一次大戦後に提案されたという妙案を見た。簡単にいうと、武力行使を決定する議員が先頭に立つという法律を作れというのであるが、これは、おひゃらかしの珍案でしかない。 それを見た時に、自分が安全圏に止まることを前提に平和を論ずること自体、詭弁、欺瞞ではないかと気付いたのである。
その種の、口先だけの努力で平和が実現しそうな、「干戈無用」を説いた「お釈迦様でも気が付くめえ」とでも言えるほどの妙案が簡単に見つかるようなら、誰も、この何千年、苦労はしなかったはずである。 社会を変えてという議論も「百年河清を待つ」である。
私の説の「熟年」の標準は、当時、60歳以上で、子供が独立したのち、男女差別なしであった。もちろん、子供を作りたくない人、できない人もいるから、その場合は、当然、その個人の意志で平和部隊参加の資格を認める。若くても希望があれば、後方支援部隊などへの参加を認める。
すでに当時、カンプチアでも一緒になった日本山妙法寺の僧侶たちは、ほぼ同様の行動を取っており、直接話した何人かは、私の案に喜んで賛同してくれた。
その後、紛争地区で身を挺して反体制の政治家などの生命を守る活動を続けている国際組織、Peace Brigade Internationalの存在を知った。実際にスリランカでの活動を経験した若い日本人によると、非武装のガードマン役である。G7の国籍があると、襲撃した場合には国際問題になるので安全なのだという。G7を笠に着るようで、何か居心地の悪い話だが、役に立つことは確からしい。
行動としては、命懸けという悲壮感ではなくて、むしろ、事前の宣伝も派手な、賑やかな楽隊付き、騒々しい江戸ヤクザ風の「止め男」ならぬ「喧嘩止め男女部隊」を提案したい。
費用は当然、まずはカンパだが、大手を振って国に請求しよう。もしかするとシルバー何とかの夢も花咲き、参加希望者が溢れるかもしれない。
2001.10.18.追記:
とは言っても勿論のこと、国が出費に応ずるはずはないから、請求権を主張しつつ自前で必要経費の全部を調達する覚悟を固めなくてはならない。しかも、たとえば、最近の9.11.アメリカ重大事件以後の事態の展開は目まぐるしかった。
こういう時に、即座にアフガニスタンに飛び、空爆開始以前に、それなりの人数でカブールの要所にデモンストレーションを繰り広げ得るだけの組織的実力を養って置かないと、企画倒れとなってしまう。
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以上。
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