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(回答先: 基本的に、再販と特殊指定がある民主主義国家は地球上で日本だけ。両方ともさっさと廃止すべし。 投稿者 kaname 日時 2006 年 4 月 01 日 19:08:03)
ベストセラー主義が文化の多様性を破壊する:ヨーロッパの場合
ユーヴェ・フィリーセル
再版制度を捨てたスウェーデンの文学の危機
テレビ界参入に失敗したイタリアの出版社
文学と文化的アイデンティティ
文化の独自性をおびやかすグローバリゼーション
第2次世界大戦後の数十年間、ヨーロッパの文学は、意外にも、一種の楽園的状況にあった。とくにドイツでは、抑圧の時代が終わって、それまで検閲の対象となっていたありとあらゆるものが読まれた。そして、あらゆる角度からあつかわなければならないテーマがひとつあった。戦争の破滅的事態、とくにナチズムとファシズムの直接的影響の問題である。
この戦後の時期を代表するヨーロッパの作家に、たとえば、フランスのジャン・ポール・サルトルとアルベール・カミュ、イタリアのアルベルト・モラビアとエルサ・モランテ、ドイツのハインリッヒ・ベルとギュンター・グラスなどがいる。彼らは売れっ子だった。だが、他の作家たちの声を掻き消してしまうような超ベストセラー作家ではなかった。
もうひとつの歴史的結果として、ヨーロッパは2つの対立するイデオロギーに分断され、それぞれのイデオロギーが自分こそ最善(あるいは少なくとも相手よりはマシ)と主張するようになった。「鉄のカーテン」がもたらした政治的・地理的分断が、左右の政治的ステレオタイプと符合した。
その後、「左」の概念がさらに分裂した。ドゥプチェクのプラハの春や1968年の学生運動と時を同じくして、また、ある程度はこれらが原因となって、社会主義的考え方の全面的な修正が生じた。さまざまなノンフィクションの理論となる論文が登場した。マックス・ホルクハイマーやテオドール・アドルノ、それに彼らの「批判理論」を想起してみるといい。ヘルベルト・マルクーゼやエルンスト・ブロッホも忘れてはならない。知的読者にとって、左翼のスペクトルの中で自分たちの考え方がいちばんよく表されているのはどの部分かについて見きわめ、それらの本を買うことがもとめられた。
さまざまな種類の出版社があり、書店にはよく訓練された店員がいた。これらの出版社や書店が、ある著者やイデオロギーをあつかうことを拒否した場合には、それに代わるもうひとつの書籍市場が存在した。そして、公的な市場としては、ヨーロッパ全土にブックフェアが登場した。このシステムはその後も繁栄をつづけ、今日では、ドイツのフランクフルトで開催される世界最大のブックフェアには、世界中から毎年約30万点の新刊書がもちこまれている。ドイツのフィクションだけをとってみても、毎年約1万点の新刊書が出品されている。
そして、1960年代には、ヨーロッパで電子マスメディアの時代が始まった。巨大な国営テレビ会社の影響で世論は以前より画一化されていった。テレビ会社の文化番組はハリウッドが主流だった。その結果、書籍の販売は難しくなった。多元性と議論を好むものは、小規模の出版社に依存しなければならなくなった。大手出版社はすべて、もっぱらベストセラーと、写真に頼ったノンフィクション作品をあつかうようになった。
それ以来、ヨーロッパの大半の国で採用されているいわゆる再販制度が、多様性を支えるもっとも強力な政治的手段となった。これは、各書籍の定価は注文の多寡に関わらず、いかなる場所でも維持されなければならないとする制度である。この取り決めのおかげで、非常に小さな書店でも、あらゆる書籍を近所のデパートと同じ条件で売ることができたのである。
◆再版制度を捨てたスウェーデンの文学の危機
現在のスウェーデンの書籍販売の仕組みを検討してみると、再販制度と自由価格制度の違いが明らかになる。人口が少ないスウェーデンでは、以前はスウェーデン語では決して日の目を見ないような難しい文学作品の翻訳は(出版社や翻訳者にたいする助成金によって)国が支えていた。ノルウェー、フィンランド、デンマークなどでも同様の措置がとられてきた。だから、スカンジナビア諸国では文学の翻訳者は尊敬されてきたし、金銭的にも十分な報酬を受けてきた。しかしスウェーデンは、経済全体に自由市場制度を導入しようとして、再販制度を捨ててしまった。
その結果は、破局的と呼ぶべきものである。田舎や小さな町の書店は、家賃や賃金、その他のコストをかかえて競争できなくなり、ほとんど姿を消してしまった。その代わりに、現在では、本はニューススタンドやデパートで売られている。しかし当然のことながら、客はテレビでもちあげられたり、大出版社が新聞で宣伝したような少数のベストセラーの中からしか本を選べなくなっている。ほとんどの場合、これらの本は米国の著者によるものの翻訳である。(誤解のないようにいっておくと、これまでも翻訳は、おおむね米国からヨーロッパに向けての一方通行だった。米国の読者は、翻訳だけに頼っていると、現在のヨーロッパの作品の1%ぐらいしか知ることができない)
大都市以外に住むスウェーデン人が選べるのは、スティーブン・キングやシドニー・シェルダン、ジャッキー・コリンズといった作家によるベストセラー類である。複雑な文学は売れないし、難しい文学書を販売するのに必要な能力も、小さな書店の消滅とともに消えてゆく。その一方で、デパートではベストセラーが山のように積まれている。デパートは、品ぞろえではなく価格で勝負しているのだ。
しかし、書店の状況が悪くなっただけではない。スウェーデンの出版社自体も、ほとんどがベストセラー作品の出版に腐心している。これは、ベストセラー的なものしか売れないとみずから予言し、それを実践するようなものである。もはや、リスクをおかして若い無名作家の作品を出版するようなことはしない。このため彼らの作品は出版されることなく、多くの新進作家が無名のままにとどまっている。その結果、スウェーデン作家協会は政府の支援をえて、自分たち自身の出版事業を始めている。
これは、最新のデジタルの「ブック・オン・デマンド」技術を使ったものである。作家協会(そのメンバーを代表して)と文化の発展に責任をもつ政治家の双方が、すでに蔓延しているベストセラー主義的精神構造にたいする対抗措置がとられなければスウェーデンの文学に未来はないと恐れている。
◆テレビ界参入に失敗したイタリアの出版社
イタリアの作家たちも、理由は異なっているがほとんど同じような状況に直面している。伝統的に、フェルトリネリやモンダドリなどの大手出版社は、自社の書店を経営してきた。これらの書店には、主としてその出版社の出版物が置かれているが、その他の本も買えるようになっている。以前には、イタリアの作家の本も良いものがそろえてあった。しかし民営のテレビが始まり、主要な出版社がその経営にかかわろうとしてから、文学の状況は悪化している。出版社のテレビ界への参入の試みは、明らかに完全な失敗だった。いささかポピュリスト的で、しばしば怪しげな手法を使って民営テレビの帝国を築いた狡猾なベルルスコーニ氏(メディア王で元イタリア首相。最近、贈賄のかどで有罪判決を受けている)と異なり、出版社側は、その番組を作成するにあたって文化的メッセージや文学的内容に頼ったのである。
もちろん、テレビは文化や文学からはほど遠い存在である。このようなメディアに要する莫大なコストに応えようとするなら、大衆向けの広告を獲得しなければならない。
イタリアの出版社は、残念ながら、大衆の関心も広告主の関心もひくことはできなかった。そして、その損失の埋め合わせをするために、その書店の一部を売却することとなった。さらにベストセラーだけを売るようになってしまった。そのやり方は、主として、米国の書籍市場で成功しかつハリウッドの映画化と結び付いたものを輸入するというものである。
1980年代を通じて、生き残った書店の書棚からイタリア人作家の作品が急速に姿を消していった。また、イタリア人作家は、次々とその協会を去っていった。出版されることがなくなったため、彼らは小規模の販売ルートしかもたない地域の小出版社に頼るか、経済的理由からその職業を変えざるをえなくなった。今日、作家組織は実質的にはなくなっている。70年代に、イタリアの作家協会が世界中からゲストを招いてフィレンツエやナポリで歴史的な国際会議を開いていたのが嘘のようだ。
◆文学と文化的アイデンティティ
スウェーデンでもイタリアでも、文学はベストセラー性が原動力となったため、衰退しつつある。戦後に存在した文学の必要性と価値について(作家、読者、出版社のあいだにあった)暗黙の了解は、書籍が電子メディアと競争しはじめるとすぐ姿を消したようである。つまりエンターテインメントとの競争である。
もちろん、書籍もまたエンターテインメントである。だが、完全にそうではないだろう。オルダス・ハクスリーは、小説家は読者を退屈させないためならなんでもやるといったが、それはひとつひとつの言いまわしで読者を驚かせたり笑わせたりすることを意味したのではない。だが、テレビのショー番組ではそれが必要らしい。これらのエンターテインメントは、娯楽にたいする現代社会の需要をみたすよう、計画されたものである。これらは、その性格そのものからいって、進行中のグローバリゼーションの過程に完全に適応しているようである。
文学はそうではない。少なくとも完全にそうではない。ヨーロッパ人にとって、文学とは文化的アイデンティティを構成するものであり、それを育むものである。文学は、とりわけ言語を発展させる――ヨーロッパの場合、いくつかのはっきり異なった言語と文化を発展させている。これらの差異は、越えることのできない障害としてではなく、共有された豊かさとみなされている。いくらヨーロッパが統一されても、これらの基本的な差異を否定することはできない。たとえば、フランスの元文化相ジャック・ラングとドイツの元首相ヘルムート・コールは、どちらもヨーロッパ統一の旗手だが、再販制度の原則に賛成しており、このことをフランクフルト・ブックフェアで強調している。だが彼らは、決してひとつのヨーロッパ文学という概念には賛成しないだろう。このような概念は、ヨーロッパの各国に存在するそれぞれ独自の価値観、考え方を侵すものである。
だがこのような価値観を守るのは、ますます難しくなってきている。西ヨーロッパの15カ国のうち、9カ国が再販制度を維持しているにもかかわらずである。フランスでは、ラング氏のおかげで再販制度は法律にまでなっている。そして、フランス文化省のベロニク・ドルト女史がストックホルムで開かれた「ヨーロッパにおける書籍の状況」に関する公聴会で指摘しているとおり、この法律を批判していた側が間違っていたことが明らかになっている。
批判派は、この法律のもとではいずれ売り上げが落ち、書店はもはや繁栄する市場ではなく、過保護の博物館になってしまうだろうといっていたのである。だがドルト女史によると、フランスの状況はこれまでにないほどよくなっているという。フランスでは、フランス語に翻訳されたものとフランス語で書かれたもの合わせて毎年約3万点の書籍が出されており、そのうち1万9000点が新刊書である。そして書店は、そのほとんどが最近コンピュータや新しい分類システムなどを導入しており、他の小売店と十分競争していける状態にある。
◆文化の独自性をおびやかすグローバリゼーション
しかし、グローバリゼーションの脅威はつづいている。無視することのできない傾向が内在的にも外在的にもある。前者は、しばらく前から出版の世界で起きている統合化のプロセスに代表されるものである。これはドイツの場合がいちばん顕著で、第2次世界大戦後のドイツ文学をかたちづくった中小の出版社のうち、現在、市場で独立した活動をつづけているものはほとんどない。
名前はまだ存在しているが、よく調べてみると、たとえば老舗のローボルトやS.フィッシャーはホルツブリンク・グループに、エコンとグラッセンはシュプリンガーに吸収されてしまっているといった具合である。なんとランダム・ハウスやバンタム・ダブルデイ・デルのような、少なからぬ伝統をもつ米国の会社でさえ、最近ドイツのベルテルスマンというメディア・トラストに買収されてしまったのである。
私は、これを誇りには思わない。また、文学全体の多様性にとってプラスになるとも思わない。国際的な競争市場におけるペーパーバックの版権や著作権を確保するのに、ヨーロッパの統合(あるいはさらに世界的な統合)が必要だとか、すべては読者の利益を考えてのことだとかいう議論は、私を納得させるものではない。
大手メディア会社が出版に手を出すのは、おもに、自社の主要事業、すなわち映画と電子メディアのために著作権を確保するためである(イタリアの出版社はこの逆をやろうとして失敗した。つまり、自社の書籍を宣伝するためにメディアを使おうとしたのである)。本にかぎっていうと、私がトンネルの先に見るのは、ベストセラー主義のみである。なぜなら、ベストセラー主義は、これらのトラストのロジックにそったものだからである。
地球規模では、内在的な統合傾向は、最近のガット(関税貿易一般協定)や多国間投資協定(MAI)などがもたらす外側からの政治的圧力に呼応している。経済をあつかう政治家の目からみれば、文化は最新の電子技術のおかげで、やっとビッグビジネスとして成長したということができる。したがって、文化はいまや世界的な自由貿易協定に組み込まなければならないというわけである。これらの協定の目的はただひとつ、国境を越えた資金の流れを保障し、それによって国際的統合を容易にするというものである。
文化にとって、とりわけ文学にとって、この集中化の過程は本稿の主題である「文化の多様性」を消滅させるだろう。ユネスコ(国連教育科学文化機関)は、まだ文化の多様性を守ろうとしている。じつは、文化の多様性を守ることこそユネスコの存在理由である。だが、問題は私たちから文化のエッセンスを盗み、この惑星をひとつの単調な「すばらしき新世界」に変えてしまおうとする世界的プレーヤーたちの共同の企みを前に、ユネスコがあとどれほど、あるいは私たちみんながあとどれほど、抗していけるかという点にある。
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