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3月21日(火)のラジオ第一「ビジネス展望」での、内橋克人氏の発言を、ほぼ全文、テープ起こしして文語調に直したものを掲載します。
運動論的な側面からも、考えさせられることをおっしゃっていると思いました。
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衰退か再生か 岐路に立つ労働組合(内橋克人氏)
―――――――(アナウンサー):春闘の成果をどのように見ればいいか?
内橋さん:
労使(労働者と使用者)の力関係がここ10年間ほどで全くかけ離れてしまった。
今年はそのことをまざまざと見せ付けられた年と言えるのではないか。
私は2004年のこの時期に、「消えるのか春闘」と題して話した(「ビジネス展望」で)が、ここ数年の推移を振り返りながら今年の春闘を総括すると、もはや日本の労働組合はこのまま衰退していくのか、あるいはそうではなく何かのきっかけをつかんで再生できるのかという、深刻な岐路に立たされていると言わねばならない。
使用者側との間にあまりに大きな力の格差が出来上がってしまった。このままでは、労働組合そのものの存在意義が問われる時代が来るのではないかと思う。
指導者(労働組合の)にそうした危機意識がどの程度あるのか、ということが大変気になるところだと言わざるを得ない。
これだけ企業の業績が過去最高を更新し続けている、好調な経済指標が出揃っているが、こういう結果(春闘の)では、景気回復の効果というものが一般の生活者の家計に波及していくという経路、チャンネルが、もう遮断されたのではないか、と言わざるを得ないと思う。
今、日本経済にとっての最大の問題は、一部の富裕層の消費を除いて、一般の大衆消費の持続的な回復の成否だと思う。
そうした中で、今回の春闘の結果には改めて歴史的評価を問われるのではないかという気がする。
労働組合はもう消えてしまったのかという声も聞かれるほどであるが、それほど過小な成果にとどまったということだ。
労働側の闘う力の衰弱だけでなく、使用者側が繰り出す論理に立ち向かう生活者の論理、あるいは働く者の論理の構築が弱かったということをまざまざと見せ付けられた、という気がする。
例えば、国際競争力が大切だ、賃上げを認めるとデフレ逆戻りの懸念がある、等、ベースアップそのものを否定する論――経済界がこういう旋風を巻き起こしたわけだが――。その結果、実質的なベースアップをほとんど獲得できなかったと言っていいのではないか。
額で見ると、五百円から千円止まりであり、ゼロ回答も少なくない。
労働組合側が当初掲げたのは、賃上げ復活春闘だったが、そのスローガンにふさわしい成果とはとても言えない。
経団連の奥田会長が、「春闘は終わった」と発言したのは3年前の2003年のことだが、それ以来春闘は何かこう時代遅れだ、もはや現実的ではないと、そういった通念がもう出来上がってしまったと言えるのではないだろうか。
このまま進むと、この次やってくるのは労働組合無用論、これが社会を覆うようになるのではないかということが懸念される。
―――――――改めて、労使双方の対応を考えるとどういうことが言えるか?
使用者側はなかなか戦略的だったと思う。
史上最高と言われる業績回復だ。株主への配当、設備投資、研究開発投資はすでに大きく増やしている。
一方、働く者への報酬、報い方については、とりわけ2002年以降、労働分配率が急低下している。
今回はそういうこともあって、労働組合側が大変勢いづくのではないかと使用者側は警戒していた。
そこで、日本の賃金水準はすでに国際的に見て高水準であるということを唱えて、大変強い牽制を繰り返した。
戦略的に見るとまず、トヨタは一千円の満額決着という形になったが、これが全体の流れを決めてしまった。
経営者側はこれを春闘相場の天井と見た。
利益一兆円を超えるトヨタなのに、ベースアップに要するコストは年20億円程度で済む。
こういった決着の仕方の効果は大変大きいものがあり、当初労働組合側が描いたシナリオ、つまり、大手でまず大幅な賃上げを復活して、その形成果(?)を中小企業あるいはパートの賃金底上げに及ぼしていこうというシナリオが、崩れた。
二番目に、使用者側は、労働組合側の統一闘争方針にくさびを打ち込むのに成功したと言えるだろう。
企業業績における格差の拡大を前面に押し立てて、全体を一律賃上げする――横並び方式と言うのだろうか――、という時代は過去のものだ、という意識を社会化させるのに成功した。つまり、支払い能力に応じて考えるのが当然だという見方が社会に一般化してしまったわけだ。
同時に、成果主義型賃金の普及で、同じ企業内でも賃上げに格差が出るのはこれまた当然という見方も社会通念になってしまったほど。
これはヨーロッパと比べて全く逆。
今年の春闘は、過去何年もベースアップ要求を断念してきた労働組合が、言ってみれば反転攻戦に出るきっかけにしようと強気だったわけだが、この壁を打ち破ることはできなかったと言えると思う。
今、労働組合の組織率(雇用労働者に占める労働組合員の割合)はわずか18.7%。
この厳しい現実を反映してのことと言えると思う。
―――――――労働側は、正規雇用と非正規雇用の賃金格差を是正しようということで意欲的だったのだがどうでしょう?
これについてかなり前向きに取り組んだ印象。
全国1200万人に上るパート労働者の待遇改善を掲げた。
待遇は徐々に改善されつつあるが、それも春闘の成果というよりは、昨今パート労働力の需要と供給関係に多少逼迫感が出ているということによる。
それでもある巨大スーパーで時給5円引き上げるという程度にとどまった。
本気で労働組合が取り上げなければ、この問題についても、よく正社員組合と労組は言われるが、そういう労働組合の衰退は避けられないのではないか、という予感がする。
―――――――労働組合はこれからどこに拠り所を見出すべき、確立すべきだろうか?
政治の場で言えば、与党と野党のバランスが崩れて、野党の力が弱まっている。労働組合と使用者側の力関係も崩れてくる。そうなると、社会的な拮抗勢力がなくなってしまう。
強い政権、強い財界。この間の力関係がどうなっていくのか、これをチェックする対抗思潮をどう築いていくか。また、理論武装を急ぐ必要があるのではないか、というふうに痛感している。
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【heartのコメント】
●最近、マスコミでは景気が回復しているなどと言われているが、これはそもそも本当なのか?実感できないが。
もしこれで回復しているというのなら、景気などという言葉は国民の幸福とは何の関係もない、政治の道具にしかすぎないということになる
(「景気が回復」すれば、財界は喜び、政治家は財界の資金援助を受けてまた当選させてもらえる、また、アホな国民はなんとなく気分がよくなって政権を支持する)。
そんなものなら、景気の善し悪しで一喜一憂するのはバカだということになる。
●企業が人間を見ず、数字ばかり見ていることが問題だ。
人間の、人間による、人間のための企業活動であってしかるべきだと思うのだが。
●内橋さんは、
>≪使用者側との間にあまりに大きな力の格差が出来上がってしまった。
このままでは、労働組合そのものの存在意義が問われる時代が来るのではないかと思う。≫
また、
>≪今年の春闘は、過去何年もベースアップ要求を断念してきた労働組合が、言ってみれば反転攻戦に出るきっかけにしようと強気だったわけだが、この壁を打ち破ることはできなかったと言えると思う。
今、労働組合の組織率(雇用労働者に占める労働組合員の割合)はわずか18.7%。
この厳しい現実を反映してのことと言えると思う。≫
と述べておられるが、指導者の問題というよりは、自分の問題であるにもかかわらず、労組に入らず、関心を持たず、関わろうとしない労働者側の問題ではないかと思う。
(労働組合の組織率の推移については
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kumiaisosikiritu.htm
がよくわかります。
組織率は1976年以降29年間連続して減少しているということです。ちなみに1975年の推定組織率は34.4%だそうです)
また、経団連の奥田会長が「春闘は終わった」と2003年に発言して以来、
>「春闘は何かこう時代遅れだ、もはや現実的ではないと、そういった通念がもう出来上がってしまったと言えるのではないだろうか。」
と述べておられるが、学生運動にしてもそういうイメージで捉えている若者が多いのではないだろうか。
今の日本ではあらゆる運動力が力を弱められていると感じる。
責任は、もちろんそういう方向に誘導している政権・財界など強者にもあるが、強者に何をされてもあきらめ顔で黙っている国民の多くにもあると思う。
また、マスコミも市民の運動力を弱める一端を担っていると思う。
基地問題や反戦運動などを見ると、活発に運動している人もいると感じるが、大手マスコミはほとんど取り上げず、何かマイナスなイメージを植え付けようとしている気がする。
例えば、機動隊・・・いわば、独裁者コイズミの信奉者にとっては逆らうことなど考えられない「お上」の一味・・・と衝突する運動家らの映像がよく流されるように思うが、これは運動家らの主張内容よりも、運動家らの過激な姿をクローズアップして、運動家らに「異端児」のレッテルを貼ろうとする報道の仕方ではないだろうか。
こうした映像を毎回見させられていると、運動に関わることに躊躇する人が増えてしまうと思う。
もっとも、権力側と闘おうとすれば権力側の持つ「武装」集団と対峙させられるのは必然と言ってよいだろう。権力側がガンジーのような「非暴力」主義者であれば、武装集団はよこさないだろうが。
したがって、今後も、機動隊と衝突する運動家ら、という絵図はなくならないのだろうが、変えられることが一つある。
マスコミ(小さなマスコミだけでなく大手マスコミも)を市民の味方につけることだ。
考察者Kさんも
http://www.asyura2.com/0601/idletalk17/msg/334.html
で書いておられるように、日本人は大本営発表を信じやすい国民性を持っているようだから、マスコミが、本来の役割の一つと考えられる「権力を監視する役割」を再び担うようになれば、市民による運動もまた活発化するのではないかと思う。
もちろん、テレビや新聞といったメディアだけでなく、これからネットを見る人がさらに増えれば、ネット上のマスコミにも期待できる。
阿修羅のようなサイトがメジャーなニュースソースにでもなれば、権力を監視する気運が高まり、お上には絶対服従、という人も減って、運動もしやすくなり、選挙もより国民のためになる結果が出るようになるのではないだろうか。
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