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歴史の真実に目をそむけた教育学者の末路―『諸君』藤岡信勝論文批判
(「Internet Zone::Movable TypeでBlog生活」の「僕の書いたもの」から)
http://ratio.sakura.ne.jp/old/wrintigs/fujioka.html
内容があまりに大部なので、「終わりに」の項のみを以下に転載する。
終わりに
藤岡氏は、このように「一国平和主義」論と「社会主義崩壊」論という二つのイデオロギー攻撃に屈服し、戦後の民主的な教育運動や歴史研究、さらには日本共産党攻撃をもっぱらにする立場に自ら転落した。
同時にそれは、藤岡氏の学問的な「荒廃」へとつづく道でもあった。たとえば、日露戦争に関連してすでに指摘したように、氏は司馬遼太郎氏の小説を読んだことから一足飛びに「日露戦争は自衛戦争だった」という結論にいたっている。そのさい、関連する資料を具体的に検討するという学問的な手続きはとられていない。また、戦後の歴史研究をひとまとめにして「善玉・悪玉史観」とするのも、まったく非学問的な決めつけである。
そもそも、学問にとって、事実にもとづいて、それを具体的に分析し、いかに客観的な真実を明らかするかということ以外に基準はない。それは、科学的社会主義の見地でもある。マルクスやエンゲルスは、歴史や社会を分析するさいに、何か特別な「型紙」にもとづいて現実を都合よく裁断するようなやり方を厳しくしりぞけてきた。ところが、藤岡氏は、従来の歴史研究に「東京裁判史観」「コミンテルン史観」などのレッテルを張って、その豊かな学問研究の内容を切り捨てる一方で、「自由主義史観」なる新たな「型紙」をかかげて、それにあう「事実」やさまざまな論者の主張をひろいあつめることに血道をあげている。しかし、そうした氏の議論が学問的な検討にたえるものでないことは、もはや明らかであろう。
これらは、侵略戦争への反省という戦後の“出発点”を否定し、社会進歩に敵対する立場に転落した藤岡氏が必然的に行き着いた末路をしめすものである。
「Internet Zone::Movable TypeでBlog生活」とはまったく違った立場からの藤岡信勝評を以下に一部のみ転載する。
●藤岡信勝(ふじおか・のぶかつ)
http://members.at.infoseek.co.jp/toumyoujisourin/jiten-hujioka.htm
さて、今でこそ小林が抜けた後の「つくる会」二枚看板の片割れと言ったガチガチにホシュなイメージのこの藤岡センセイだが、なんと元・共産党員である。いや、これだけなら驚くに値しないかもしれない。西部センセイだって呉師匠だってかつては活動家だったじゃないか、と。書いてるものもヤクザな(失礼)彼らと違って行儀のいい官僚気質の藤岡が民青でどこがおかしい、と。
いや、問題は決して共産党員だったことではなく、「湾岸戦争をきっかけに転向するまで」共産党員だったことである(笑)
そう、なんとこの藤岡センセイ、40過ぎるまで共産党員だったのだ!
それが今や「つくる会」の最有力セクト「自由主義史観研究会」の盟主なのだからなんともはやである。
さて。この藤岡センセイ、「論者」としては明らかに戦後民主主義者な司馬遼太郎を無理矢理な解釈で持ち上げたりと本当に東大教授かと思うくらいお粗末な仕事しかしていないが、「運動家」としての手腕には卓越したものがある。
現に「転向」前、共産党員だった教育学者・藤岡信勝は論壇露出こそほとんどなかった(はず)ものの、80年代に突入しても、いや、90年代に湾岸で砲声が上がるまで、地道に地道に地方公園や「勉強会」を開催しては学校民主主義的な民青センスに支えられて生きている小中学校の教師や父母に「子供たちに本当の意味での教育をしましょう」と扇動して回っていた。
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2つのサイトを紹介したが大筋で小生と一致する考え方は前者の方。しかし前者も後者も藤岡信勝氏を節操のない人物とする点では一致する。こんな人物が「つくる会」運動を牛耳ってきたのだから、この会の未来も明るいものではないだろう。
人物評ということでウィキペディアの藤岡信勝(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B2%A1%E4%BF%A1%E5%8B%9D)もあたってみたが、「つくる会」運動を始めるまでのことにはほとんど何も触れていない。他の人物についてもこんないい加減な内容なのかと、不審の念がわく。
以上は gataro の独り言。
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