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2006年03月07日
「つくる会」顛末記
[近況報告]
――お別れに際して――
(一)
私は「新しい歴史教科書をつくる会」にどんな称号であれ戻る意志はありません。
一度離別決定の告知を公表しており、新聞にも報道され、誤解の余地はないと思っていましたが、産経(3月1日)に私が「院政」をもくろんでいるとわけ知り顔のうがった記事が出ましたので、あえて否定しておきます。
私は理事会にも、評議会にももはや出席する立場ではなく、会費を払っているので総会の一般席に坐る資格はあるでしょうが、これも今後遠慮しようと考えています。すなわち、いかなる意味でも私は「つくる会」に今後関係を持たないこと、影響力を行使しないことを宣言します。
(二)
名誉会長の名で会長より上位にある立場を主宰することは二重権力構造になり、不健全であるとかねて考えていましたので、いわば採択の谷間で、離脱を決意しました。
次に新版『新しい歴史教科書』は私の記述の主要部分が知らぬ間に岡崎久彦氏の手で大幅に改筆され、この件で、執筆者代表の藤岡氏からいかなる挨拶も釈明もなかったことを遺憾としてきました。採択が終るまでこの件を表立てて荒立てることは採択に悪影響を及ぼすから止めるようにと理事諸氏に抑えられ、今日に至りました。
旧版『新しい歴史教科書』にのみ私は責任もあり、愛着もあります。旧版がすでに絶版となり、新版のみが会を代表する教科書となりましたので、私の役割はその意味でも終っています。
また『国民の歴史』は「編/新しい歴史教科書をつくる会」と表紙に刷られていますが、会とも版元とも契約期限が切れましたので、今後の再販本は私の個人的著作として自由に流通させていただくことになります。
(三)
しかし1月16日に重要な理事会があり、17日に名誉会長の称号の返上を公表したのですから、昨秋より最近の会内部のさまざまなトラブルに対し私もまた勿論無関係ではありません。私が自らの判断と言動で一定の影響力を行使したことは紛れもありません。
そこで会の一連の動きに対し私が今どういう見方をしているかをできるだけ簡潔にお伝えし、私の責任の範囲を明らかにしておきます。感情的対立を引き起こしているテーマなので、私に関心のあるポイントだけ申し上げます。他で公表されるであろう資料文献などと併読してご判断ください。
今回の件はたった一人の事務系職員の更迭をめぐる対立から始まった内紛ですが、人間の生き方の相違、底流にあった思想の相違がくっきりと露呈した事件でもありました。
「つくる会」は過去にも内紛を繰り返しましたが、今回は今までとは異り、異質の集団の介入、問答無用のなじめない組織的思考、討論を許さない一方的断定、対話の不可能という現象が、四人の理事(内田智、新田均、勝岡寛治、松浦光修の諸氏)からの執行部に対する突然の挑戦状で発生し、私は自分がもはや一緒に住めない環境になったと判断せざるを得ませんでした。
1月16日の理事会は、さながら全共闘学生に教授会が突上げられた昭和43年―44年ごろの大学紛争を思い出させました。「あァ、会は変わったなァ、何を言ってももうダメだ」と私は慨嘆しました。四人の中の新田理事は、「西尾名誉会長はいかなる資格があってこの場にいるのか。理事ではないではないか」と紋切型の追及口調で言いました。一体私は好んでつくる会の名誉会長をつとめているとでも思っているのでしょうか。八木会長は彼をたしなめるでも、いさめるでもありません。
「新人類」の出現です。保守団体のつねで今まで「つくる会」は激しい論争をしても、つねに長幼の序は守られ、礼節は重んじられてきました。とつぜん言葉が通じなくなったと思ったのは、12月12日の四理事の署名した執行部への「抗議声明」です。その中には、執行部のやっていることはまるで「東京裁判と同じだ」とか「南京大虐殺問題を左翼がでっちあげて日本軍国主義批判を展開することを想起させる」などとといった見当外れの、全共闘学生と変わらぬ、おどろおどろしい言葉が並んでいました。
いったいこれが保守の仲間に向ける言葉でしょうか。私がもう共に席を同じくしたくないと思ったのはこのような言葉の暴力に対し無感覚な、新しい理事の出現です。
今回の件はいろいろな問題点を提起しましたが、私が痛憤やるかたなかったのは、何よりもこのような荒んだ「言葉の暴力」の横行でした。保守の思想界ではあってはならないことです。
(四)
宮崎正治事務局長は人も知る通り性格も温順な、優しい人格です。デスクワークに長け、理事会の記録の整理は緻密で、遺漏がなく、人と人とを会わせる面談の設定などもとても親切で、気配りがあり、私など随分良くしてもらいました。個人的には感謝しています。総会などの運営もぬかりがなく、シンポジウムの開催ではベテランの域に達していました。
けれども私たちは次の採択のために事務局長の更迭をあえて提言しました。「私たち」とは八木、藤岡、西尾の三人です。三人の誰かが先走っていたということはありません。八木さんは単なる同調者ではありません。率先した提言者のひとりでした。例えば、宮城県県知事が変わり、「つくる会」に好意的な人物らしいと分って、八木会長は対応を宮崎氏に申しつけました。しかし彼は行動を開始しないのです。
宮崎さんはいい人ですが、独自のアイデアはなく、また果敢な行動力もなく、私が提案したいくつものアイデアも「分りました」というだけで実行されたためしはありません。「難しいからやらないという弁解を最初に口にするのは官僚の常で、つくる会の事務局が官僚化している証拠だ」と叫んだのは遠藤浩一さんでした。
採択戦の最も熱い場面で、もっと目に立つ運動をしてほしいという現場会員からの支援要請があるにも拘らず、文部省が「静謐な環境を」といったことを真に受けて、積極的な運動をむしろ「やってはいけない。敵と同じ泥仕合をしてはいけない」と抑えつけたのが宮崎さんでした。杉並の採択戦でとうとう藤岡氏が怒りを爆発させました。鎌倉その他からも不満の声がいっせいに上りました。
宮崎さんは自分の性格の消極性をよく知っています。他人と四ツに組んで対決する人間としての気迫の欠如もよく承知しています。くりかえしますが、彼は几帳面な人ですが、「つくる会」の「事務局長」という対決精神を求められるポストには向いていないのです。
こう申し上げることで多分ご本人を傷つけたことになるとは私は思いません。自分の性格の長短は誰でもかなり正確に自ら気づいているものです。性格だから変えようがありません。
ですから、事務局長更迭は穏当な案件なのであって、宮崎氏の雇用解雇はこの段階ではまったく考えられていません。昨年の9−10月頃のことです。
彼の生活のこともありますから、どういう立場で彼の名誉と給与を守るかが執行部の悩みの種子であり、鳩首会談の中心テーマでした。どこかで誰かが報告してくれるであろうコンピューター問題などが出てくるのはこの後だいぶたってからのことでした。
(五)
事務局長としての宮崎氏の不適任性は、事務局を内側から見ている役目を長くつとめた種子島理事や、会計監査の冨樫氏の共通認識であり、私を含む六人の執行部もまた、身近で彼を見ていたから言えることでした。地方にいる理事や、新しく入ってきたばかりの理事にいったい何が分るというのでしょう。
いいかえれば、こうしたボランティア団体で局長人事に限らず一般に事務局人事は「執行部マター」であります。他の理事は事情がよく分らないのですから、追認するのが常識です。
ところが今回に限ってそうはならなかった。先述のとおり「言葉の暴力」の乱舞する挑戦的な行動が突如として四人の理事によって展開されました。しかも、驚くべきことが時間と共にだんだん分ってきました。この四人のうち三人は保守学生運動の旧い仲間であり、宮崎氏もまたその一人であり、昔の仲間を守れ!という掛け声があがったかどうかは知りませんが、私的な関心が「つくる会」という公的な要請を上回って突如として理不尽なかたちで出現したことは紛れもありません。
私はだんだん分ってきて、驚きましたが、同時にひどく悲しくなりました。こういうことはあってはいけないのではなかろうか。
しかも困ったことにどうもこの動きには背後になにかがあるのです。そしてその背後を八木会長が配慮する余りに、彼がずるずると四人組の言い分に引きずられて、事務局長辞任は西尾や藤岡氏の意志であって自らの本来の意志ではなかったかのごとき声明を出したり、またそれを再び打ち消す逆声明を出したりと、ほとんど信じられない迷走ぶりをくりかえしだしたのでした。これらの文言はすべて証拠として残っています。
八木さんは会長として会を割れないという一念があったのでしょう。私は今はそう理解しています。宥和を図る、というのが彼の一貫した態度でした。しかし宥和といっても一方に傾きがちで、四人組にいい顔をして、他方に配慮が足りないために、遠藤、福田、工藤の三人が副会長を辞任し、八木氏を諫止しようとする挙に出ました。八木氏には宮崎辞任を急がせるようにという三人の意志がぜんぜん伝わらなかったようでした。この点では他方を甘く見ていたのは失敗だったときっと彼はいま後悔しているでしょう。
であるなら、八木さんをこんなにおびえさせた背後のもの、それに対する配慮のために自分を失いかねなかった背後の勢力とは何でしょうか。じつは、ここからが微妙で、言いにくい点なのですが、要するにわれわれにとって兄弟の組織、親類のような関係にある団体「日本会議」です。
「つくる会」は一つの独立した団体です。人事案件はあらゆる独立した団体の専権事項です。どんなに親類のような近い関係にあっても、別の組織が人事案件に介入することは許されません。
「つくる会」の地方支部は大体「日本会議」と同じメンバーで重なります。日本会議を敵に回すことは「つくる会」の自己否定になる、と八木さんはおびえていました。四人組に対し強く出ることは会を割るだけでなく、日本会議の今後の協力が得られなくなることを意味するのだというのです。
しかも当の宮崎氏は「俺を辞めさせたら全国の神社、全国の日本会議会員がつくる会から手を引く」と威したのでした。私はこれを聴いて、いったん会を脅迫する言葉を吐いた以上、彼には懲戒免職以外にないだろう、と言いました。それが私が会長なら即決する対応です。四人組が彼を背後から声援していることは明らかです。
(六)
会の幹部は日本会議の椛島事務総長にも、また、同じように背後から宮崎事務局長の立場を守ろうとしていた日本政策研究センターの伊藤哲夫さんの所にも出向いて挨拶に行っています。私は行っていませんが、八木、藤岡、遠藤、福田の諸氏は互いに都合のつく者同士で組んで挨拶と相談のために出向いているのです。
しかし、ここで一寸変だと思われる読者が多いでしょう。事務局長更迭は独立した組織である「つくる会」の専権事項であって、他の組織の長におうかがいを立てるべき問題ではありません。しかし八木執行部はそうしたのでした。そして余り色よい返事をもらえないで帰って来ています。
どう考えても妙です。日本会議も日本政策研究センターも、ご自身の事務局員の人事案件について他の組織におうかがいを立てたことがいったいあるでしょうか。私は「つくる会」の「独立」が何よりも大事だと言いつづけました。
椛島有三さんも伊藤哲夫さんも私がよく知る、信頼できるいわば盟友であることは先刻読者はご承知のとおりです。椛島さんとは夏の選挙戦で大分から宮崎を共に旅し、伊藤さんとは九段下会議の仲間です。宮崎人事に口出しして「つくる会」の「独立」を脅かしてはいけないとお二人はまず何よりも考えたでしょうし、考えるべきでもあります。
椛島さんは、「宮崎君をまあ何とか傭っておいて下さい」というようなお言葉だったそうです。伊藤さんは「つくる会」の案件だから自分は関知しないし、「つくる会」の運動には政策センターとしてももう直接参加するつもりはないと言ったそうです。(ですが、宮崎氏は反対のことを言っていて「伊藤さんは自分の解任に最終的に同意したわけではない」と最後まで言い張っていました)。
椛島さんも伊藤さんもあの古い保守学生運動の仲間なのです。今はもう関係ないと仰有るかもしれませんが、日本的なこの古いしがらみが八木会長の行動を徒らに迷わせ、苦しめたことは動かせない事実でした。
彼は会の「宥和」を第一に考えました。そして、日本会議や日本政策研究センターが協力しなくなるという恐怖の幻影におびえつづけたのです。私の前でもくりかえしそう語っていました。それが事実であることを、椛島さんも伊藤さんもよく考えて下さい。ご自身がそう意図しないでも、相手に知らぬうちに激甚な作用を及ぼすことがありうるということを。
お二人は何の関係もないと仰有るでしょうし、また事実関係はないのです。しかし「関係」というのは一方になくても他方にあるという心理現実があります。そのことを少し考えておいて下さい。
(七)
八木さんは会長ですから会を割るわけにいかないと必死でした。私は会の独立が大切だと思いました。一つのネットワークが一つの会組織に介入して、四人組をその尖兵として送りこんできているのではないかとの疑念を抱きつづけました。
私だけでなく、他の理事たちは強く危機感を私と共有しました。私がまだ会を立ち去る前です。そして、その危機感は2月27日の理事会までつづいて、四人組のこれ以上の影響を阻止するために八木会長解任という結果をひき起したのではないかと考えます。八木さんの迷いぶりが彼の身を打ったのです。
コンピューター問題とか、会長中国旅行の正論誌問題とか、いろいろ他にもあるのでしょうが、私は他の問題の意見を述べるつもりはありません。
八木さんが不手際だったとも思いません。彼は彼で精一杯会を守りたいと念願していたのでした。しかし藤岡さんはじめ他のメンバーも会を守りたいと考え、激しくぶつかるほかありませんでした。
まず最初に四人組が組織と団結の意思表明をしました。全共闘的な圧力で向かってきました。そこで反対側にいるひとびとは結束し、票固めをせざるを得なかったのだと思います。
票の採決がことを決するのは「つくる会」の歴史に多分例がありません。初めての出来事です。組織的圧力がまずあって、ばらばらだった反対側があわてて組織的防衛をしたというのが真相でしょう。
ひょっとすると思想的にみて、現代日本の保守運動に二つの流れがあるのかもしれません。その対立が会のこの紛争に反映したのかもしれません。しかしそれを言い出すとまたきりがなく難しい話になりますので、ここいらでやめておきましょう。
いずれにせよ今日を最後に、私は「つくる会」の歴史から姿を消すことにいたしたいと思います。
皆さまどうも永い間ありがとうございました。
(了)
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