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怪メール事件(四)――八木秀次氏の犯罪の可能性を立証【西尾幹二のインターネット日録】
http://www.asyura2.com/0601/senkyo20/msg/1357.html
投稿者 木田貴常 日時 2006 年 4 月 19 日 16:01:04: RlhpPT16qKgB2
 


「つくる会」創始者は、どうやら自分で引導を渡すための行動をとってきたようです。


八木秀次氏はどう応えるのでしょうか?


ブログを開設したばかりの藤岡信勝氏はどう釈明するのでしょうか?

http://blog.so-net.ne.jp/fujioka-nobukatsu


======================


西尾幹二のインターネット日録


怪メール事件(四)――八木秀次氏の犯罪の可能性を立証――

target="_blank">http://nishiokanji.com/blog/2006/04/post_314.html


               (一)


 郵便ではなくメールの時代になり、他人への転送も手軽になって、信書が他人に見られる危険も増

大している。メールにだって公私の区別はある。私的メールは封筒に切手をはって出した私信と原則

同じである。


 知人からのメールを第三者に無断で渡すのは、自分の立場を守るために行い、差出人の名誉を顧み

ない場合には、どう考えても社会的道義に反する。ましてメールの差出人を脅迫するために、見えな

い処から差出人に匿名でメールを送りつけるのは、ただの不道徳にとどまらない。刑法上の犯罪を構

成する可能性があると私は考える。


 前回の日録

で私はどこからか不意に送られてきた「怪文書2」を紹介した。その中に次の一行、「藤岡は『

私は西尾から煽動メールを受け取ったが反論した』と証拠書類を配りました。」があったのを読者は

覚えておられるだろう。証拠書類を藤岡氏が理事会(3月28日)に配った、という意味である。「怪文

書2」をもう一度お確かめいただけると有難い。


 理事会にそのような証拠書類は配られてはいなかった。ただ私の自宅に、「怪文書2」の送られた

前日(3月31日)と同日(4月1日)に念を入れて二度、証拠書類が送られてきた。


 証拠書類は私が過去に藤岡氏に出したメール(2月3日付)である。私信が回り回っていつしか覆面

の脅迫者の手に渡っていて、脅迫文と一緒に、藤岡氏が「西尾の煽動に反論して」八木氏に屈服した

証拠書類としてファクスで送られてきたのである。


 このメールは私が藤岡氏に「つくる会」の会長になることを強く要望し、藤岡氏がためらって逃げ

腰であることに私が失望したという内容の、互いに正直に内心を打ち明けた往復私信であって、一枚

の紙に二人で書き込まれ、ファクスで往復された(後に全文を公開する)。


 この2月3日付の「西尾・藤岡往復私信」が3月末日に覆面の脅迫者の手に渡っている事実からいえる

ことは、まず第一に藤岡氏が私信を無断で他に流用した道義的罪である。第二に藤岡氏は敵対してい

る勢力――八木秀次・新田均・宮崎正治の諸氏に脅迫されたか何かの理由で屈服し、秘かに私を裏切

って、内通し、相手への自己の忠誠を誓うしるしとして差し出しているのではないかという私の疑問

である。


 私は早くからこの疑問を抱いて、今回の怪メール事件のクライマックスはこれだと踏んでいた。な

ぜなら「西尾・藤岡往復私信」の西尾・藤岡以外の所有者が、覆面の脅迫者であり、彼こそ他でもな

い、「怪文書2」の作成者並びに発信者と同一人となるからである。犯罪人を突きとめる立証のカナ

メである。


 4月6日付の「日録」target="_blank">「産経新聞への私の対応」(四)のコメント欄に「永吉さんへ」と記した私自

身の書きこみがある。そこに「そしてきわめつきは、私が理事の一人を支援すべく数ヶ月前に書いた

文章に添え書きしたその人の反論がそのままファクスで送られてきた。その理事はもう八木氏に屈服

した、これが証拠書類だ、と記した別の紙が届けられる。彼が自分の身を守るために相手にこれを渡

したことは間違いない。」と書いた。


 コメント欄の上記の一文に、長いこと互いに疎遠になっていた藤岡氏がパッと反応してきた。まる

で釣餌にとびつく魚のようにである。その一枚をみせてほしい、と彼は言うのでファクスで送って、

電話で「この紙は誰にいつ渡したのか」と藤岡氏に訊くと、「失くしてしまった。いま何処かにいっ

てしまって分らない」と案の定子供みたいな返事をする。


 私は藤岡氏に正直に告白させるために手順を踏んだ。href="http://nishiokanji.com/blog/2006/04/post_313.html" target="_blank">「怪メール事件」(

三)を出して、次に私が「西尾・藤岡往復私信」を全面公開する意思を示して、4月14日に藤岡氏

に質問状を送った。そして15日に会談が可能となり、真相と考えられ得る以下の内容が確認された。


       
                (二)

 話は長くなるが、今回は総集編なので我慢してもらいたい。


 「つくる会」の事務局にいま事務局長は欠員だが、鈴木尚之氏という方がそれに似た役割で働いて

いる。


 鈴木氏は私の会長時代にも働いて下さった方である。タフで、わけ知りで、情報通で、世故に長け

、世に言う甘いも酸いも噛み分けた調停役で、若い人には親分肌で、年輩者には人情の機微を心得、

人の気を外らさない話上手の心憎い人物である。国鉄をJRに変えた時代の労組関係の有名な立役者だ

った。しばらく他の組織にいたが、「つくる会」の危機に際し力を貸してほしいという要請を受けて

舞い戻ってきた。


 鈴木氏は不思議なことに、八木氏と藤岡氏の両方から、信じられないほどに大きな信頼を寄せられ

ている。両方からというのが奇妙である。私はつねづねそこに危うさを感じていた。


 成程、鈴木氏は人間通であり、学者たちの知らない方面の俗事に顔も広く、大人の知恵者であるが

、また曲者でもある。何を考えているのか本当の処は分らないしたたかなひとだ。「つくる会」の行

き止まりの危機に、ただひとり影響を与えているのは種子島氏でも、藤岡氏でも、八木氏でもなく、

鈴木氏にほかならない。彼は重要なあらゆる会議に出席し、会を操縦している。


 組織が瀕死の危機にあるときには必ず不思議な人物が登場し、不思議な力を発揮するものである。

鈴木氏は八木氏と藤岡氏を「握手」させるという「宥和」を根本方針としてきた。


 しかし本来的に和解できないものを和解させようとすると、病を重くする場合がある。解決をかえ

ってこじらせる。円く収めるよりも膿を出した方がよい場合がある。そういう意味で鈴木氏がいい役

割を果して来たかどうか、私はずっと疑問に思っている。


 本題に入る前にもう一つ告げておきたいことがある。私が1月の理事会の翌日の17日に名誉会長の称

号を返上し、会を離れる声明を出したのは、「つくる会」を見捨てたからではなく、会の外部に出て

誰に遠慮もせずに内部の恥部を暴き、病巣を剔り出し、背後にうごめく他の組織の暗部に光を当てよ

うと決心したからであった。


 11月と1月の理事会で私は私が「四人組」と名づけた固い団結の分派活動に、異質の政治性を見た。

会を呑み込まんとする陰険なネットワークの暗い闇を感じた。「四人組」とは新田均皇學館大学教授

、内田智弁護士、勝岡寛治明星大学職員、松浦光修皇學館大学助教授であり、それに宮崎正治前事務

局長がからむ。彼らは昭和44年5月発足の全国学生連絡協議会という早大を中心とした右派系学生運動

の一団につながる。


 固い血の盟友関係を築いているせいではないかと思うが、2月と3月の彼らの行動を見ていると、汚

れ役、文書役、見張り役、などのネットワークが出来ていて、連携プレーにそつはなく、パッと効果

的に動き、集団で主張を通そうとする。彼らの行動の仕方について聞くたびに私は薄気味が悪い。


 彼らの目的は歴史教科書ではない。政治的支配権そのものが狙いだ。そして、新田氏の早大大学院

政治学科の後輩である八木秀次氏は会長である立場を忘れ、昨年10月頃から事実上このグループの一

員となって行動している。


 「四人組」は私に言わせれば「つくる会」の一角に取り憑いたガン細胞のようなものであって、放

って置けばどんどん増殖するだろう。新しい理事として昔の組織の仲間を多数入れて、やがて八木氏

も追い払ってしまうかもしれない。思い切って切除し、今のうちに強権で排除するか、それができな

ければ会そのものをスクラップにするしか、増殖を阻む手はない。Scrap and build againである。


 私はこの会に「宥和」の政策はもはやあり得ないと考えている。八木氏の代わりに強力な指導者が

立って、強権発動して「四人組」を排除してしまう以外に会が救われる道はなく、そのためには現状

では同じ方針を公言していた藤岡信勝氏に会長になってもらうのが一番いいと思った。それ以外に方

策はないだろう。1月後半から2月にかけて、私だけでは決してなく良識派は他に選択肢はないと認識

し、おおむねそういう判断だったといってよい。丁度正論大賞の受賞もきまり、藤岡氏には追い風だ

った。何で氏が阻まれる理由があろう。


 私はこの希望や期待を会を離れた直後の当時、誰にも隠さなかった。1月25日に九段下会議が終って

、飲み屋で友人数人に事情を全部開陳した。30日の路の会で保守系知識人の諸先生に背景の経緯を全

面公開し、藤岡さんにいよいよ会長になってもらうべきときが来た、と言った。その席に小田村四郎

氏、石井公一郎氏といった日本会議の重鎮もおられた。


 たちまち八木氏の耳に入った。当然である。私は隠し立てするつもりもないし、名誉会長を辞めて

も一会員として主張すべきことを主張する権利を失ったわけではない。


 国家の機密じゃあるまいし、たかが私的団体のこれからの方向に期待を表明するのをなんで陰険に

隠し立てする必要があろう。路の会の当日の席上には扶桑社の真部栄一氏もいて、聴き耳を立ててい

た。


               (三)


 2月2日の午後6時ごろ八木氏から私に電話がかゝり、これから藤岡、鈴木の三氏でつれ立って私の家

に来たいという。緊急の相談があるらしい。西荻窪に彼らを迎え、空腹の三人に酒と粗餐をさし上げ

て、なごやかに、気分も良く話し合った。これ以上会のことを他人に話さないでほしい、というのが

八木氏の私への要望であった。別れしなに「八木さん、ときどき電話を掛けてくださいよ」と私は言

った。


 私の藤岡支持に変更はなかった。しかし、藤岡氏は鬱病にでもかかっているのではないかと思われ

るほど元気がなかった。2月3日朝、私は「昨夜の意図は?」と題したメールを彼に打った。するとメ

ールの行間に、彼がペンで反論を書きこみ、ファクスで送り返して来た。それが以下に掲げる「西尾

・藤岡往復私信」の全文である。




昨夜の意図は?         注:青字が藤岡氏による反論

    
昨夜は貴方にとって何のためにもならない会合をなぜしたのですか。

八木氏と握手させようとしている鈴木氏があなたの最大の敵だということが分らないのですか

。                    ↑全くのまちがいです。

  

わたしが「これからは八木コントラ藤岡のはてしない闘争が始まる」といっ
             ↑デタラメです。宮崎・4人組・八木の行動に良識

                        派が怒っているというのが事実です。

たら、あなたはニヤニヤ笑っていればいいのに、なぜすぐ打ち消したのですか。

きのうは鈴木さんに仕切られ、あなたは八木さんのペースにはまってしまいました。なんのた

めの会ですか。             ↑事実ではありません。

それよりなぜ求めて執行部会を開かせたのですか。会合をしない会長の怠惰
     ↑執行部としての正統性を利用して、まず宮崎辞任に追い込むためで

               す。

をついて、文書攻撃を開始すべきだったのではないですか。

行動は果敢に、そして孤独にひとりでやるものです。西部グループに公民教科書で屈したときに、私

は援軍もなく一人でした。小林を追放したときは田久保さんがみかたでした。でも貴方でさえ傍観者

でした。

こんどあなたには私をふくめ、たくさんの援軍がいます。しかし援軍はあくまで、助っ人です。それ

以上のものではありません。

覇権は自分で獲得するものです。
 ↑私は覇権を求めたことなど一度もありません。今までの私の全行動がそれを

証明しています。西尾さんは政党と、こういう会を混同しているのではありませんか。私の目的はよ

い歴史教科書を多くの子どもに届けることによって日本を建て直すことです。覇権は関係ありません

。※

私はあなたを緊急応援するように、三副会長と福地さんに今朝、檄をとばしました。(西尾)




 ただし藤岡氏の最後の文章に私がもう一度見解を述べて再度ファクスで送り返している。「ここに

書かれたことは・・・・・・」以下がそれで、これに対する藤岡氏の返信はなかった。




※ ここに書かれたことはキレイゴトすぎます。良識派は私も含めて、藤岡会長にするのがさし当りの

終着点なのです。あなたはそれに全力で応えなくてはならないのではないですか。



 以上の「西尾・藤岡往復私信」を経過して、私は藤岡氏にいたく失望した。穏和しい性格ではない

のに、妙に温良ぶっている。戦意をすでに喪失している。昂然の気概がない。それにまた、心を打ち

明けあった「私信」にユーモアひとつ書けないようではもうダメだ、先行きこれは見込みないと正直

がっかりした。


 「覇権」ということばがたゞのレトリックだということがどうして分らないのだろうか。「私の目

的はよい歴史教科書を多くの子どもに届けることによって日本を建て直すこと」だって?


 冗談じゃないよ。なんでこんな当り前すぎる、教訓めいたことばしか出てこないのか。


 せめてひとこと「私は覇道ではなく王道を歩みます。されば援軍は雲霞のごとき大軍となりましょ

う。ご心配なく。」くらいの悠然たる言葉をなぜ吐けないのか。


 心がちぢこまって、生真面目がいいことだと思って、言葉に遊ぶ心が全然ないのである。それでい

て物静かで地味な真面目さが本領という人柄ではなく、何かというとむきになって、顔を真赤にして

、激語乱発で怒っている。


 もちろん怒ることはいい。怒りは精神の高貴さにつながる。しかし真の怒りにはどこか他が見て笑

いが宿っているような風情がなくてはいけないのだ。


 この「私信」は私が藤岡氏に本心をぶっつけ、彼が自分の正体をさらした最後の記念的文章だから

全文をのせた。これ以後、会長候補として彼を支持する気持はどんどん失せていった。私は彼を可哀

そうな人だと思うように1なった。彼は何が理由か分らぬが、すでに背骨が折れている。


 1ヶ月後の3月初めにさらに何かが起こったようだ。藤岡氏は6日の首都圏支部長会議で「八木氏は日

本の宝です」と発言し、周囲をびっくりさせた。5日にはメールの激語が八木氏の家族をおびやかした

からといわれて、菓子折を持って八木氏宅に謝罪に行ったという噂がパッと広がった。鈴木氏がここ

でも悪い役割(藤岡氏の男の値打ちを下げる)を果たしている。


 あの「怪文書1」、「日本共産党離党H13」のメールがあちこちに撒かれたのは3月初旬の同じ頃で

ある。因果関係は分らない。


 藤岡氏は3月11、12日の全国評議員・支部長で沈痛な表情で多くを語らなかったそうだ。いい気にな

って藤岡排撃の侮辱語を並べる新田氏の演説に隣席でじっと耐えつづけるその姿は、哀れを催すばか

りの悲惨さであった、とある評議員が私に報告してきた。


  
             (四)


 さて、そこで「西尾・藤岡往復私信」の行方という本題にいよいよ入る。


 私は藤岡氏に同情こそすれ、決して道義的な罪を犯したことはないが、氏は2月3日付の「西尾・藤

岡往復書簡」を同じ日に鈴木尚之氏に渡した、と表明している。一生懸命に彼を支援しようとしてい

た私に対する、同じ日の直後に起こった背信行為である。


 「八木氏と握手させようとしている鈴木氏があなたの最大の敵」と書いた私のことばに藤岡氏は「

全くのまちがいです」と付記した事実はご覧の通りであるが、鈴木氏に対し自分が善良な心を持って

いることを証明し、鈴木氏への忠誠心を誓うために私との「私信」を利用したのである。


 自己弁明のためにあっさりと他人を売る。しかもその他人は自分を守り、支えようとしている人で

ある。信義は弁明より値が安い。自分が誰かに媚を売るために、信義なんか糞くらえ、なのだ。藤岡

氏はそういう男である。


 「私信」の移動、藤岡氏から鈴木氏への移動の心理的動機には以上のごとく背徳の匂いがする。

               (五)


 それなら鈴木氏の手に渡った「西尾・藤岡往復私信」のその後の運命はどうなったのだろうか。


 3月28日の理事会で種子島会長の不可解な独断裁定によって、いったん票決で解任されていたはずの

八木氏が復権して、副会長に戻った。天麩羅屋で共同謀議のされた可能性のあるあの日の夜、多分、

四人組プラス宮崎氏たちは祝勝ムードであったろう。


 八木氏は副会長に復帰して7月から会長になるという種子島氏のお墨つきを得た後――3月の末――

でも、藤岡氏排撃の目的をやめようとしない。当り前である。こういう対立には原則として「宥和」

はないからだ。それなのに、鈴木氏はまたしてもここで勘違いしたのだった。


 藤岡氏にはもともと会長を狙う気はないということを八木氏に納得させさえすれば八木側は鉾をお

さめ、会は円くおさまり、融和すると鈴木氏は考え、「西尾・藤岡往復私信」を利用することを思い

ついた。そして「私信」を八木氏に3月30日か31日かに渡した。


 八木氏は即日これを私への脅迫に利用した。「怪文書2」の「藤岡は『私は西尾から煽動メールを

受け取ったが反論した』と証拠書類を配りました」という例の脅迫文句に対応させて、私に証拠書類

として送ってきた。


 鈴木氏はその事実を次ぎのような経過で確認したと伝え聞く。


 鈴木氏は八木氏にこの件で4月6日から10日すぎごろまでに3回電話している。4月6日付「日録」のコ

メント欄に「永吉さんへ」という西尾署名の書きこみがあることは本稿(一)で記述したが、鈴木氏

も目ざとくこれをよんで、例の「私信」が流出しているとピンと来た。


第一回目の八木氏への電話では


鈴木  「八木さん、あの書類は外に出していませんね。」

八木  「折り畳んで自室にしまっています。」

鈴木  「あなたが万一外に出したらすぐ分る仕掛けになっているんですよ。」

八木  「誰にも見せていませんよ。」

鈴木  「文章を私が精妙に改竄していて、西尾さんの所へファクスが届いている文章と合わせると

、私 にはあなたの手許にあるものと実物かどうか分るんですよ。だから、外へ出しちゃだめですよ

。」


第二回目の電話では、


鈴木  「藤岡さんから問いつめられて、すでに西尾さんからファクスで送られて来た実物を見せら

れることになりました。そうすると、文字の改竄が一致すると八木さんの名を出さざるを得ませんよ

。」

八木  「ウーン」


 これにつづく言葉はなかったそうだ。


第三回目の電話では


鈴木  「西尾さんから藤岡さんにファクスで送られてきた現物をついに見せられました。間違いな

くこれは八木さんにお渡ししたものと同じものです。八木さん、ちゃんと確認しましたよ。」

八木  「いや 申し訳ない。だけれど自分がやったものではない。自分は新田氏いこれを転送した

。」


 例によっていち早く他人に責任を転嫁し言い逃れをしている。しかし実行犯が誰であれ、司令塔で

ある主犯格が八木氏である事実は覆らない。こういう場合には主謀者の罪の方が重い。


 「西尾・藤岡往復私信」の実物一致を通じて、もうひとつの脅迫文章「怪文書2」の作成者ならび

に発信人の主体がとりもなおさず八木氏であることがほゞ確定したと言ってよい。


 加えて八木氏は、「怪メール事件」(二)で追跡確認した通り、ガセネタの「怪文書1」(共産党

党歴メール)を公安調査庁に依頼してホンモノであるとのお墨つきを得たとして(ガセネタをホンモ

ノへと自分の意志で偽装したことになるが)、新聞記者を瞞し、報道を動かした犯行が重なっている

 藤岡氏の私に対する行為には人間的信義をゆるがす道義的な罪の匂いがするが、犯罪の匂いはしな

い。しかし八木秀次氏の私に対する行為には、脅迫罪や公文書偽造といった、刑法上の罪の匂いがす

る。


 尚、「怪文書2」に私が脅迫されたと感じた証拠は、当日録では少し羞しくて書かなかったのだが

、夜中に私は完全にあれに瞞されて、理事会の本当の情報の恐ろしさを教えてくれた人がいるのだと

信じ、教えてくれたのは田久保忠衛氏に相違ないと考え、感謝の文言を書いて田久保氏にファクスし

たのだった。翌朝二人で笑い話になったのは言うまでもないが、脅迫罪が成立する十分な根拠といえ

る。


 そしてその脅迫の文書の作成者ならびに発信人は「西尾・藤岡往復私信」の発信人と同一であり、

八木秀次氏にほかならないことをここに確認し、私は彼を告発する。

           お わ り に

 
 余りにも悲しい物語である。全国の「つくる会」の支援者にはお詫びのことばもない。しかし真実

は白日に曝されねばならない。人は苦い真実を直視して、眼球の奥に黒い斑点が映ずるまでじっと瞼

を閉じないで、見つづけなければいけない。


 余りに乏しい人材が生んだ悲劇である。八木氏を私は会長に推薦したし、藤岡氏に会長になっても

らいたいと念願した。責任の半ばは私自身にもある。


 余りに彼らは孤独に耐える力がない。自分を守るために人を裏切ったり、オママゴトのような謀略

ごっこをして、それで大学の先生がつとまるということ自体もおかしい。歴史や公民の偉そうな教科

書をつくる資格なんか今や全然ない。


 小さな学者の団体には荷が重すぎた。国内的期待の大きさと国際的軋轢の厳しさに比べて、責任を

担おうとつとめた人間たちの器が、私も含めて、小さ過ぎた。理事の中で、名前だけ出して実際に働

らこうとしない人たちが余りに多すぎたのも問題だ。一部の理事が労働過重になり、バランスを失し

た面も間違いなくあった。


 最初はたしかに、政治的野心のない学者の団体が教科書を実際に作り、採択してもらおうとしたこ

とに、信用があった。「つくる会」の人気の秘密は非政治性にある。けれども採択のために自民党の

協力を得ようとし、各種政治団体にも近づいた。自民党がお願いしてくるのが筋であり、各種政治団

の方が近づいてくるのが本来なのだ。「つくる会」は地味な教科書製作の職人団体、そして誇り高い

知識人の集団であればそれだけで十分だったのだ。


 学者に政治家の真似はできないし、してはいけない。代りに会の中心にいる事務局長が政治的活力

の源泉でなければいけない。政治力の権化のような人物を事務局長に欲しいと思った。私が事務局長

更迭を言い出した理由はそこにある。私は俵義文氏は、そのエネルギーといい果てしない執念の強さ

といい、敵ながら天晴れと思っている。


 宮崎正治氏は己を知らな過ぎる。彼が日本の武士道や儒学を勉強してきたというのなら、それは笑

い話にもならないであろう。彼のことを「法隆寺に火をつけた男」と書いていた人がいるが、当らず

とも遠からずである。


 藤岡氏にもひとこと、多くの人が口にする正直な疑問を私がいま代弁しておく。共産党離党は平成3

年(1991年)であると信じてよいが、それでも常識からみると余りに遅いのである。先進工業国でマ

ルクスは60年代の初頭に魅力を失っていた。68年のソ連軍チェコ侵入は決定的だった。左翼は反米だ

けでなく反ソを標榜するようになり、いわゆる「新左翼」となった。私は彼らは理解できる。しかし

70年代から80年代を通じて旧左翼、民青、共産党員であったことはどうしても理解できない。


 青春時代に迷信を信じて近代社会を生きつづけることがなぜ可能だったのか。藤岡さん、やはりあ

なたが保守思想界に身を投じたのは周囲の迷惑であり、あなたの不幸でもあったのではないか。私は

あなたが党との関係史を一冊の本にして、立派な告白文学を書いて下さることを希望しておく。


 「先生、私に分らないことが二つあります」と言って来た人がいる。「種子島さんはなぜ変心した

のですか。それから岡崎久彦さんを教科書の内容になぜ介入させたのですか。」ことに後者はアメリ

カ属国の教科書でいいのか、という意味で、それをフジサンケイグループが望んでいる結果なのか、

という率直な質問であった。この二つの質問のどちらに対しても私は分らないと答えるしかなかった



 「つくる会」の全国の支部の方々には謝罪しか今は言えない立場ではあるが、ひとつだけ考えても

らいたいことがある。あなた方は口を開けば本部が宥和し、円く収めろというが、それがいかに間違

いかはお分かりになったであろう。


 地方の教育官僚や教育委員たちが何と言っていたか覚えていますか。「扶桑社版では角が立つから

、帝国書院か東京書籍かをえらんで、何とか宥和し、円く収めて下さい」と。「つくる会」の全国支

部の人たちの精神構造も、教育官僚や教育委員たちとほとんど同じだといっては言葉が過ぎるだろう

か。


 すでにしてすべてが末期症状である。至る処に蟠踞するのは小人の群れ、末人の戯れ、畸人の気の

触れ。正常な社会から見れば、血迷ってどこかおかしいと思わざるを得ない。いつの日か再興の刻が

来るのであろうか。


 私はここで余りにも悲しい物語の幕を下ろすのみである。


                                  ――了――


Posted by Nishio at 2006年04月19日 13:47 | コメント (0) | トラックバック (0) | Clip!!

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