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http://tizu.cocolog-nifty.com/heiwa/2006/04/200_2006_82ad.html から転載。
>>日々通信 いまを生きる 第200号 2006年4月8日<<
知覧再訪
3月28日、特攻基地知覧を訪ねた。桜が満開だったが雨だった。雨に散る桜に、60年前この地を飛びたった若者たちを思った。
この前訪ねたときはなかったと思うが平和記念館には陸軍の疾風(はやて)や飛燕のほか、海軍の零戦などが展示されていた。
当時を偲ばせるさまざまな遺品があり、写真があった。若い特攻隊員全員の個人写真があった。17歳、18歳から20歳前後の若い隊員の写真を見ていると、彼らを死に追いやったものへのはげしい怒りが湧いてくる。
館の外に彼らが暮らした三角兵舎があった。私が甲府の郊外の丘陵につくったのと同じ形式だった。
私は18歳だったが、甲府の山中に陣地を構築し、米軍が上陸してくれば、爆薬をかかえて敵戦車に体当たりさせられるはずだった。
私たちには銃もなく剣もなかった。軍事教練を受けるということもなかった。ただ、甲府の旧兵舎を壊して、古材を山の中までかついでいき、三角兵舎をつくる人夫仕事をさせられただけだ。
やがては陣地構築ということで、山の中に一人一人がはいるタコツボをつくったりする仕事をさせれたのだろう。
私は足のまめがつぶれ、化膿して歩けなくなっていた。死について考えるということはなかった。動作緩慢でただ、徹底して軍隊不適応症の私は軍隊生活がいやでいやでたまらず、それ故にいっそう古兵達から殴られたり、蹴られたり、ありとあらゆるしごきを受けたが、じっと耐えて一時一時を過ごした。
彼らの無知をあわれみ、軽蔑していたから、どんな制裁も耐えられたのであろう。その態度がいっそう彼らをいらだたせたにはちがいないが、その他にどんな態度もとることができなかった。
私は彼らの横暴に耐えながら、ひたすら、やがてこの戦争は終わるという言葉にすがりついていた。その言葉を私はある日、人影のない夜の洗濯場で人目を避けてで洗濯しているときに、誰とも知らぬ兵士から聞いたのだった。
彼は私の耳元で、御前会議でソ連を通じて講和の申し込みをすることがきまったから、戦争はもうすぐ終わるとささやいて去っていった。多分、あまりにみじめな私に同情して教えてくれたのであったろう。 私はその全く不思議なささやきをたちまち信じて、ただ、その戦争の終わる日待って、あらゆる苦しみに耐えたのだ。
戦争が終わる何日か前、私は病兵として楽な作業につけられていたが、胸膜炎で療養して軍に復帰した一等兵と二人だけで水汲みに行ったとき、ふと、心を許して、戦争ももうすぐ終わるらしいと言った。
彼は驚いて国体はどうなるのだと強い語気で言ったが、私は、いまのように兵士の食糧もなく、武器もなくて、どうして戦争をつづけられるのかと言った。彼は不満そうだったが、何も言い返すことはしなかった。川口の町工場で働いているという若者だった。
当時の軍隊の食糧事情は想像を絶するものだった。配給はあったはずだが、上の方でかすり取られて兵隊たちの食糧は、到底、生命を維持することができぬひどいものだった。
私のような番外のもっとも下っぱの二等兵は、竹の筒にもりあげた高粱飯に塩気のうすい塩汁が与えられただけだ。私よりすこしましな兵隊は孟宗竹の食器だったが、私の場合は、竿竹にする竹なのだ。容量はある程度あっても、底まで飯をいれることはできないし、そんなにしても箸で食べることはできないのだ。
私は栄養失調で、下痢がつづいた。ついに木材を運ぶ作業の途中で倒れ、動くことができなくなって、一晩を道端で野宿した。誰か兵隊が一人、看病のために付き添ってくれた。それがきっかけで三角兵舎暮しのための温泉つくりという楽な仕事につけられたのだ。
その使役では、古兵達が炊事場からいろんな食糧をせしめてきて、なかでも一番駄目な兵隊の私とその一等兵が炊事をやらされていたのだった。
下士官も古兵も班のはずれものらしく、しごきも制裁もなかった。私たちは入隊以来はじめて呑気な日々を送っていた。
戦争がつづき、米軍が関東に上陸すれば、天皇は長野にいて、日本軍は中部山岳地帯で抗戦することになっていた。甲府の連隊がやっていたのもその陣地構築の作業だったのだと思うが、八月現在、日本軍はすでに内部から崩壊しはじめていたのではないだろうか。
知覧の特攻基地からの出撃も七月十九日が最後だったようだ。すでに乗員も飛行機もなくなっていたのだろう。
沖縄決戦に特攻突入作戦をするといって呉を出港した戦艦大和は護衛の艦船もわずかで、航空機による護衛はなく、敵空軍による集中攻撃を受けて、出動の翌日、四月六日に奄美群島付近でみじめな最後を遂げた。
何のための出撃か。「戦艦大和の最後」には当時艦内でその意味について論争がおこなわれたことが記されているが、どうせ負けるなら美しく滅びたいという玉砕思想が当時の軍を支配したのであったようだ。
知覧から飛びたった第一回特攻隊は1945年3月26日、このとき出撃して戦死したのは10名、最後の出撃は7月19日、戦死者10名だった。
もっとも多数が出撃したのは5月24日で、125名が戦死している。5月25日には71名が戦死している。
3月1日、硫黄島が玉砕し、3月25日、米軍は慶良間列島に上陸した。沖縄決戦がはじまったのである。知覧の特攻は沖縄戦に大量出撃し、散華していったのである。
沖縄のたたかいは惨憺たるものだった。日本軍は死闘したが、大量の島民がまきぞえになって死んでいった。中学生や女学生までもが、軍に編入され、鉄血勤王隊、姫百合部隊として死んでいった。
の名を残している(脱字は原文のママ)。自決したものも多数だった。
沖縄のたたかいは6月23日をもって終結するが、この3カ月の戦闘で日本軍将兵(県出身者を除く)6万5908人、米軍将兵1万2281人、 県出身軍人・軍属2万8228人の戦死者が出た。また、一般県民9万4000人(推定)が犠牲となった(以上県援護課資料による)。
この間、東京、横浜、大阪をはじめ、地方各都市が焼尽され、約30万人が戦災死をとげたといわれる。
私の家が焼かれたのも5月25日だった。すべてが焼き尽くされた焼野が原で、沖縄で大勝利をおさめたといって万歳の声がひろがったのを記憶している。当時の新聞・ラジオは特攻攻撃による大戦果を連日伝えていたのである。
軍首脳にこの戦争が敗北であることは明瞭であったにちがいない。しかし、なぜ、戦争はつづけられ、若き戦士たちは死に向って突入させられつづけのか。沖縄で、日本全土でかくも多くの人命がうばわれつづけたのか。
「必勝の信念」ということがいわれた。「天佑神助」ということがいわれた。「神風特攻隊」ということがいわれた。日本の女学生は日の丸に「神風」と書いた鉢巻きを締めて工場で働いた。
もともと勝算なきたたかいだった。そのたたかいをはじめた者たちを赦すことができない。このたたかいを早期に終結させることができなかった者たちを赦すことができない。
雨の降る知覧で私の心にわきあがる思いはつきることがなかった。
あの戦争をはじめた者たちは、日本を世界のなかでリアルに考えることができず、ただ、ひたすら主観的心情に押し流されて、日本を亡ぼしたのだった。
彼らは「神国日本」を誇称し、愛国心と必勝の信念を国民に強要した。
彼らも主観的には愛国者だったのだろう。
しかし、客観的にはどうだったか。
あらためて「愛国」ということを考える。
自己の主観的信念を心情を強調して、日本を亡ぼしたもののことを考える。
自己の信念や主観的心情をなによりも重視して国民の利益と幸福を破壊するいまの首相とその同類の政治家は、昔の日本の指導者たちと同様の資質の持主ではないだろうか。
過去を考えることは日本人について考えることだ。
「愛国心」がしきりに強調されるいま、あらためて過去の歴史を思わずにはいられない。
春はたちまち過ぎて行く。皆さんのご健康を祈る。
伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu
[参照]
特攻の町知覧
http://www.geocities.jp/kamikazes_site/tokko_shiryoukan/chiran.html
特攻の町・知覧にて 吉田 裕
http://www.jca.apc.org/JWRC/center/library/jihyo28.htm
「アリラン」
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/5410/tokko_episode/torihama_tome/mitsuyama_ariran.html
文学に見る戦争と平和「戦艦大和の最後」
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/hs@61.htm
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