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命日の日には多くの人がかつては思い出を語っていたが、同時代に活動した人で存命の方も少なくなったこともあってか、はたまた時代が暗転してか、彼のことを語る人も少なくなった。
以下 http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-date-20060220.html から転載。
多喜二の時代といま
1933年(昭和8年)のきょう、作家で日本共産党員だった小林多喜二は東京築地署で虐殺された。29歳だった。
時代は、日本社会全体にくらーい影が覆っていた。都会では不況・閉塞感、農村では飢饉、娘の身売り。それに比例するように排外熱は高まっていた。
「まんしゅう、まんしゅうだよ。満洲が手にはいりゃあ、こんな不況は一発で吹き飛んじまうんだ」(映画「戦争と人間」で俊介、耕平が屋台で食事しているときの酔客の言葉)
日本はその満洲を1931(昭和6)年の謀略によって手に入れ、前年3月1日には、満州国建国宣言をおこない「ニセ満州」をでっち上げていた。
時代は急ピッチで戦争の坂道を転げ落ちていった。
「海外侵略と国内の専制支配はメダルのうらおもてである」との真理は、戦前の日本こそピッタリだった。
日本帝国主義は、過酷な国内収奪・搾取と海外進出を特徴としていた(その痕跡は、こんにちにも引きつがれている)。
「満洲・王道楽土」は、当時の支配層が、農民や貧しい労働者の不満をそらせ、植民地支配を強固にするための一石二鳥のスローガンだった。その結果、多くの農民、労働者が満洲にわたり、ソ連参戦時には関東軍に見放され、数々の辛酸を味わったこと、それがまた今日の「残留孤児」問題の発端になっていること、貧しかったわが高知県・幡多地方から、多くの農民たちが「開拓団」として送り込まれ辛酸を味合わされたことなど、語りたいことは多いがいまはおく。
多喜二のことである。
彼は、この時代の支配者の欺瞞と搾取の実体を暴き、それと力は弱いがたたかう労働者、農民と党の姿をえがいた。しかも、彼は日本共産党の地下活動のもとでそれをやったのだ。
たたかうことと書くことは、わかちがたい彼の生き方だった。
それゆえに国体の変革を目的とする団体、個人をミンチにしようとする治安維持法と特高警察の憎悪の的となった。
彼は路上レポ中に逮捕された。そしてその日のうちにありとあらゆる拷問をうけて虐殺された。
この虐殺は、本格的な侵略戦争への傾斜を深めていた天皇制政府の残虐かつ冷酷な決意の現われだった。獄中にあった党の幹部のなかからは「死の恐怖」から「転向」声明を出したものも現れた。特高警察のスパイ挑発活動ともあいまって、党は追いつめられていく。
治安維持法と特高警察は、次第に弾圧の範囲を学会、言論界、宗教界へとひろげていった。先に再審裁判が棄却となった「横浜事件」もそれである。
「帝国主義戦争と天皇制権力の暴圧によって、国民は苦難を強いられた。党の活動には重大な困難があり、つまずきも起こったが、多くの日本共産党員は、迫害や投獄に屈することなく、さまざまな裏切りともたたかい、党の旗を守って活動した。このたたかいで少なからぬ党員が弾圧のため生命を奪われた。
他のすべての政党が侵略と戦争、反動の流れに合流するなかで、日本共産党が平和と民主主義の旗を掲げて不屈にたたかい続けたことは、日本の平和と民主主義の事業にとって不滅の意義をもった」(日本共産党綱領)
いま時代は、ある意味で1930年代に似かよっているといわれる。
閉そく感はあり、貧富の格差は広がっている。
言論抑圧、監視社会の危険はせまっている。
だが、多喜二の時代とは異なる条件をもっている。
それを最大限にいかして、多喜二の生き方をいまに引きつぎがんばりたいものだ。
多喜二虐殺の翌日の21日、国際連盟は日本軍の満洲謀略を明らかにしたリットン報告を採択し、満州からの撤退を日本政府に勧告した。松岡洋右全権は、ただちに連盟脱退を表明席をけった。
国内外で日本は破局への道を転げ落ちていった…この轍をくりかえしてはならないと思う。
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