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http://mitsui.mgssi.com/terashima/0602.html から引用
驕る資本主義の陥穽――M・ウェーバーの予言
1905年、今から100年前、マックス・ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を著した。その中に興味深い記述がある。「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない。将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終る時、まったく新しい預言者たちが現われるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか。それとも ――― そのどちらでもなくて ――― 一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、まだ誰にも分らない。それはそれとして、こうした文化発展の最期に現われる『末人たち』(letzte Menschen)にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無なるものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう』と。――」(大塚久雄訳、岩波文庫)資本主義の現状を考える時、このマックス・ウェーバーの洞察は驚くほど我々が直面している問題を予言しているといえる。
目眩がするような荒廃
2005年、私達はあまりにも荒廃した経済社会の現実を突きつけられた。極めつけがマンションの耐震強度偽装事件であった。この事件に関わった人達の顔を注視すると、「精神のない専門人」という言葉が胸を突く。構造設計を偽造した姉歯なる建築士の存在はあまりに悲しい。発注業者、建設会社などの「コスト削減」の圧力に耐えかねて偽装設計した組織犯罪の犠牲者を装っているが、この人の表情にウェーバーが言った「粉飾された機械的化石」を見るのは私だけではあるまい。
姉歯建築士は高卒でありながら努力の結果、一級建築士の資格を得た人だという。同情するならば、大卒の建築士が同門の先輩や友人に支えられて仕事を得る機会が多いのに比し、自前で仕事を確保せざるを得ず、勢い「安かろう悪かろう」の仕事にも引き込まれることになるのだという。しかし、同じく高卒の一級建築士として名声を得た安藤忠雄氏のような存在がいることも忘れてはならない。安藤氏の本を読むと、「連戦連敗」の中でいかに自分の筋道を貫いたのかが分る。いかなる圧力があろうが「魂を失わない専門家」もいる。ともすれば経済性と効率性だけが探求されがちな資本主義のゲームの中で、一隅を照らして現場を持ち堪えている専門家がなければ、この社会は成立しない。
欠陥マンションを建設・販売した当事者達も、「法令違反までは指示しなかった」というのが弁明の最後の拠り所であるようだ。確かに、「鉄骨を法令を超えて削減しろ」とまでは要求しなかったのかもしれない。だが、この事件の当事者のうち一人でも「安全基準を満たした高品質の住居をより安く提供しよう」というビジネスプランを的確に意思表示していれば、かくも卑しい無責任の無限循環は生じなかったであろう。
もう一つ、2005年に目撃した経済社会の出来事で後味悪く残っているのは、ライブドア、楽天によるメディア企業の買収・経営統合の試みであった。法律に反する活動をしているわけでもなく、新しい事業モデルとして旺盛な活力を評価する動きもあるが、私は資本主義の退嬰以外のなにものでもないと思う。自らの事業を創造し「育てる資本主義」ではなく、企業さえも売り買いする「売りぬく資本主義」を象徴する存在だといえる。しかも、ビジネスモデルそのものが米国の先行モデルの亜流にすぎず、マネーゲームによって株価の時価総額を実力以上に引上げることに専念し、しかも資金調達力の源泉でもある時価総額に見合った法人税負担を通じて国家社会に貢献しているわけでもなく、自らの株主や従業員への適正な付加価値配分をしているとも思えない。ただ自己増殖本能をたぎらせるだけで、バランスのとれた企業責任を果す意思に欠ける未熟な企業である。そうした企業が「IT関連企業」と称し、騒擾を通じた宣伝効果でネームバリューを上げ、自社のサイトへの顧客のアクセスを増やして利益を得るというゲームに日本全体が付き合わされてきた。「メディアとネットの融合」もそれを推進できる人材を育てているわけでもなく、経営層の知見の浅さはあきれるばかりである。
「ものいう株主」とされる村上ファンドに至っては、「村上が動いた」という幻想で株価を引上げ、ほどよく売りぬくという仕手筋も真っ青の手法で、背負った投資家の短期的利益だけで企業経営に影響力を行使しようとする存在であり、とても資本主義社会を健全化する主体とは思えない。投資ファンドが企業経営に与えるべき役割は、経営の弛緩への良い意味での牽制であるべきで、短期的利害だけであってはならない。結局、宗教や倫理を持ち出さないまでも、資本主義社会を支える人間の質がこの社会の価値を決めるのである。虚業に立つ企業買収屋の表情には、ウェーバーのいう「自惚れた無なるもの」を見る。
冷戦後のグローバル資本主義の驕り
東西冷戦が終わり、東側といわれた社会主義圏が崩壊したことによって「グローバル資本主義」の時代が到来したとされた。国境を超えてヒト・モノ・カネ・技術・情報が自由に行き交う時代といわれ、「大競争の時代」と喧伝されたが、現実に進行したことは米国流資本主義の浸透であった。
米国流資本主義とは、競争主義・市場主義の徹底であり、株主価値の最大化を求める「株主資本主義」である。株主にとって良い経営、すなわち株価が高く、配当が多く、説明責任を果している経営を高く評価する資本主義である。
しかし、欧州の資本主義は趣きを異にする。ユーロ社民主義の伝統を背負う欧州は、企業経営のあり方(コーポレート・ガバナンス)について米国とは全く異なる価値判断を有している。「ステークホルダー資本主義」というべきで、企業を取り巻く利害関係者、株主のみならず、従業員、取引先、地域社会、国家、地球環境にバランス良く付加価値を配分する企業経営がよしとされる資本主義である。
欧州の論者の中には「米国は資本原理主義の総本山だから」とイスラム原理主義になぞらえてからかう人もいる。1917年のロシア革命以来、欧州の主要国は「社会主義の挑戦」に悩み続けてきた。これに対し、米国は一度も社会主義政権を生み出したことも、社会主義政党を育てたこともない。現在でも、英国は労働党政権であり、ドイツは社民党が参加する連立政権である。
一党支配の不条理と非効率によって社会主義が自壊していった事態を、「資本主義は勝った」と誤解したことによって、冷戦後の資本主義は弛緩した。対抗勢力を失い、自らを厳しく律する意識を拡散させ、「グローバル資本主義」の名の下に一気に米国流資本主義を増幅させていった。そして、あからさまな競争主義・市場主義の礼賛、株主資本主義の肯定が主潮流となっていった。資本の論理がためらいもなく主張され、「資本と経営の分離」や「ステークホルダー重視の資本主義」など資本家の横暴を抑制するために積み上げてきた資本主義の進化の過程を忘却したかのごとき風潮が支配し始めた。マネーゲームが加速され、それに群がる「精神なき専門人、心情なき享楽人」が跋扈しはじめた。
資本主義には当然のことながら「欲と道連れ」という要素がからみつく。だからこそ、資本主義社会の可能性を信じ、それを支える経済人は、本質を見失うことなく、頑ななまでに空虚なものを拒否し、自らを律することに厳しくなくてはならない。
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