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TOP 【世に倦む日日】 http://critic2.exblog.jp/
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今日は司馬先生の没後十年。あれから十年の月日が流れた。大谷本廟の鳥野辺墓地にはこれまで二回足を運んだ。東山五条の大きな交差点に面して西大谷と呼ばれる大谷本廟があり、その北側(向かって左側)の沿道を通って坂を上がると鳥野辺墓地の入口がある。東山の急な斜面に下に向かって棚田状に段々に墓地区画が切り拓かれていて、東山五条から一度上がってきた坂をもう一度階段で下りて目的の墓を探す具合になる。鳥野辺の言葉の由来は平安期にここで鳥葬が行われていたからだろうと言われているが、ここは親鸞の眠る聖地であり、だから一人でも多くの者が親鸞の傍で眠ろうとして、大小の墓石がびっしりと連なっている。真言の聖地である高野山奥の院と較べれば、ここは本当に狭く、巡礼する気分も決して高野山のような荘厳さや霊験さを感じることはできないが、それでも中世以来の数百年、貧しい者も富める者も、親鸞の側での極楽往生を願ってきたことの痕跡がよく分かる。
聖地のはずの大谷本廟のすぐ真横に国道一号線(五条通)が走っていて、そして故人の墓は下から二番目の区画にあり、そのため往来する車両の騒音が喧しく、排気ガスの臭いすら漂ってくるようで、墓に手を合わせる者は少しうら寂しい気分になる。国道を挟んだ向かい側は京都女子大のある阿弥陀ケ峰で、だから国道一号は二つの山の間の窪んだ谷間を東西に通っている。交通量が異常に多い。地理的位置を考えれば、確かにあの場所に国道を通す以外にないだろうが、思想的に考えれば、それは奥の院の神秘の森の百メートル横に高速道路を敷設するのと同じである。それを許す真宗の世俗性(あるいは宗教的形式性の拒絶)という問題を考えざるを得ず、「衆生と共に生きる親鸞」という独特の思想性に思いを馳せてしまう。そこに眠るのが親鸞だけなら、そこは当別な聖地ではなかったのだが、十年前から聖地中の聖地となり、毎年2月12日の前後には頭の中に周辺の情景を再現させながら時間を過ごしている。訪れた二回ともこの時期であったため、墓の前には菜の花が添えられていた。
この地が故人の墓所に選ばれたのは、おそらく夫人の配慮であり、記者時代の本願寺との深い縁の他に、この場所が龍馬の墓のある霊山神社と目と鼻の先という事情がある。それは間違いない。だから訪れた者は二つの聖地を同時に巡ることができる。二つの墓の間にある空間は、日本中で最も賑わっている観光地であり、そこにある寺院は日本で年間参観客が最も多い巨大寺院である。五条坂を上り歩いて七味屋本舗を左に曲がり、産寧坂とニ寧坂を下って高台寺に突き当たるところを右に折れれば霊山神社に出る。この坂道の勾配が急で中高年の足腰には堪える。入園料を払って入る霊山墓地も階段が続いて息が切れる。が、墓を訪れる者は若い世代が多く、階段を歩きながら喚声を弾ませている者が多い。高知の桂浜と同じ情景がそこにある。若い人が希望を持って心を躍らせている姿を見るのは悪くない。龍馬と慎太郎の墓は並んでいて、龍馬の墓前にはお龍の写真がある。いい感じの聖地であり、まだ行ったことのない人はぜひ一度訪れてみていただきたい。休憩所が途中にあり、京都盆地が一望できる。
自分はこの十年、一体何をしてきたのだろう。二十年前は、小さくとも何事かを成して、胸を張って東大阪の邸宅の門をくぐることを夢見ていた。それは適わず、初めて八戸ノ里の駅を降りたときは、すでに故人になっていて、邸宅の奥には記念館が建っていた。夢を失って行くのが男の人生だけれど、そう思うけれど、今はもう、その人に会うために何事かを成していなくてはと緊張して身構える相手がいない。十年前に思ったことは、生きて見(まみ)えることはできなかったけれど、天国で会うときは、自分も地上でこれこれのことをしてきましたと自慢して報告して、膝の上に乗っかって甘えたいということだった。十年経って、それすらも見込めそうもない自分の現実を口惜しく悲しく思う。きっと天国に行っても、故人の周囲には偉い人たちが群れなしていて、自分は恥ずかしくてその近くへ歩み進むこともできないのだ。合わせる顔がないのだ。車の騒音に包まれた鳥野辺の墓前に佇んで思ったことは、己の不甲斐なさと惨めさで、羞恥と不面目で胸が詰まり、蹲(うずくま)り、心の中でさえ一言も発することができなかった。
ようやく三年前に追悼と巡礼のモニュメントを作り、誰にも負けない追悼の作品だと自分だけでひそかに思い、そう思うことで微かに自分を慰め得ている。こんなものではとても報告の材料にはならないけれど、自分のできる精一杯であり、生きている間は、羞恥と不面目を紛らわす一つの慰めにはなる。これと向かい合うことで、あの2月12日を思い出すし、3月10日の大阪を思い出すことができる。追悼の言葉の中で最高に私の心を打ったのは黒岩重吾だったが、追いかけるようにすぐに死んだ。国立大阪病院に運ばれて手術する前、生きて帰還するつもりだったから、そのとき遺言は残さなかった。が、「二十一世紀を生きる君たちへ」を読むと、数年後の自分の死が予感されていて、それが遺書になっている。十年前、偉人の死に衝撃を受けて反省したはずの日本人は、しかし故人の遺言を忘れ、さらに滅亡と自壊の歩を進めている。故人の遺志を継ぐ指導者は現れようとしない。一年に一度の菜の花忌。鳥野辺の墓前と東大阪の記念館に足を運べない人は、この拙作を代替物にして、心の中を故人への思いで埋めて欲しい。
十年一日、魂魄の割れる思いだ。
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