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幕末の志士大集合 フルベッキ写真の謎
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四十数人の若者が外国人教師フルベッキを囲んでいる古い群像写真。西郷隆盛や坂本竜馬ら志士たちが集合した記念写真との触れ込みで、忘れたころに世に現れる。以前から、研究者の多くは「英傑大集合などではない」と相手にしていない。「こちら特報部」でも二十一年前にその真偽を探った。それが二十一世紀になって、またよみがえっている。 (宮崎美紀子)
■マユツバなのに収まらぬうわさ
「根拠がないのに、うわさは一向に収まらない。困るんですよ。学者はみんな(英傑大集合は)マユツバだと言っているのに。次の次の世代になると、ますます本物だと信じる人が多くなる」
この写真、いわゆる「フルベッキ写真」を撮影した日本の商業写真の開祖・上野彦馬。その弟の孫にあたる上野一郎・産業能率大学最高顧問は嘆く。
「フルベッキ写真」が話題になった最近の例は一九八五年。自民党の二階堂進副総裁(当時)が議場に持ち込み、しばし歴史話に花が咲いた。「こちら特報部」では、その直後、三回にわたって「追跡・謎の写真」を連載、長崎にあった佐賀藩校「致遠(ちえん)館」の生徒とフルベッキの写真で、撮影は一八六八(明治元)年から二年の間に撮られ、「英傑大集合」ではないとの結論に至った。その際、手がかりを教えてくれたのが上野氏で、同氏は「こんな騒ぎには終止符を」と語ったのだが…。
■明治天皇まで写っている説も
二〇〇二年ごろ、今度はインターネットで高額で取引され、「本物だろうか」との相談が寄せられた高知県立坂本竜馬記念館がホームページで注意を呼びかけた。ネットでは今も出回っている。ちなみに、二十一年前は、三十一人の英傑が「判明」していたが、現在出回っているものは四十四人全員の名が書き込まれている。明治天皇が写っているという説も。しかもネット時代だけに伝説は、より速く広範囲に広がる。
さらに〇四年十二月、朝日、毎日、日経の各紙に「幕末維新の英雄が勢ぞろい」「歴史ファン驚きの写真」と、写真を焼き付けた十二万六千円の陶板額の広告が掲載され、「新聞に掲載されたのだから本物か」と謎が再燃した。広告文には「本物である可能性が高い」「この維新史の資料が埋もれていたことが惜しまれてなりません」とある。
広告を掲載した各紙に取材したところ、審査では「広告文に『専門的な研究はこれからですが』とあり『本物』と断定しているわけではない」(朝日新聞社広報部)、毎日新聞東京広告局も同趣旨との判断だったと回答。しかし各紙とも掲載後に「本物か」と読者の指摘があり、「実態把握に努めましたが結論が得られず、誤認を与える恐れがあるとの判断に至り」(毎日)、いずれも以後は掲載をやめた。日経と朝日は掲載時、真偽に議論があることを知らなかったと説明する。
一方、この商品を製造した佐賀県の業者は、「フルベッキ氏の子孫からいただいた写真で、初めから全員の名前が記入されていた。立派な研究者が調べたもの。確かに文献では大集合はあり得ないが、文献だけに頼るのは危険」と自信を持っている。
フルベッキ写真は、過去にも書物に登場している。大隈重信監修「開国五十年史」(明治四十年)には「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」のタイトルで、岩倉具視の息子の岩倉具定らが写っていると説明文にある。雑誌「太陽」(同二十八年)も、一九一四(大正三)年の「江藤南白」も「佐賀藩の学生」と説明してきた。
ところが肖像画家の島田隆資氏が一九七四、七六年に雑誌「日本歴史」に論文を発表。島田氏は、複数の西郷の肖像画を比較し、西郷が写っていると断定。大久保利通、坂本竜馬、陸奥宗光、高杉晋作ら二十二人を割り出した。撮影時期は、彼らが写っているという前提のもと、維新前の一八六五(慶応元)年とした。他の書物にある「維新後」「致遠館」との矛盾は、維新後に敵味方に分かれた英傑たちが一緒に写っているのは困るという政府の圧力で、致遠館の学生として発表したと片づけた。
顔が似ているかどうかを論拠にした島田論文を、文献を基に研究する歴史の専門家たちは「これだけの人が集まったのなら記録があるはず」と、相手にしてこなかったが、島田説の信奉者は多い。
佐賀県を訪れたら、県物産振興協会の売店にも、やはり英雄の名前入りの陶板額が売られていた。新聞広告とは別の業者で「真偽がわからないので、島田論文のコピーとともに販売している。不況の日本と佐賀に勇気を与えたい」と話す。佐賀市の「大隈記念館」では、数年前まで西郷らの名前が入った説明文付きで展示していたから、信じる人が多いのもわかる。もっとも、同市文化課は「根拠がない」として、「今は致遠館の写真と紹介している」。
この二十一年間、謎の解明は進んだのか。先の上野氏は、十年前にフランスで見つかった鮮明なフルベッキ写真を見せてくれた。
三十年前の著書「写真の開祖 上野彦馬」には、裏書きなどから撮影年月日が判明している写真をもとに、彦馬スタジオの内装の変遷を紹介している。慶応年間のスタジオは十人入れば窮屈だったが、明治以降に拡張され、床は中央が石畳に変わった。
■慶応にはない石畳と敷物鮮明
「不鮮明な写真をもとに、いろんな人がいろんなことを言うが、鮮明な写真で、石畳と敷物がはっきりと分かった。慶応年間の写真には、このスタジオは出てこない」と上野氏は断言する。彦馬が撮影した長崎の別の学校の学生とフルベッキの送別記念写真(「明治初年撮影」とされている。長崎歴史文化博物館所蔵)の内装とも一致する。
上野氏は苦笑する。「これだけの人が集まれば、必ず記録があるはずなのに、信じている人たちは『秘密会議だからだ』と言うから、いやになりますよ」
三年前には、一九〇〇(明治三十三)年にニューヨークで出版されたフルベッキの友人グリフィス著「フルベッキ伝」の全訳「新訳考証 日本のフルベッキ」(洋学堂書店)が出版された。同書で、訳者の村瀬寿代氏は、グリフィスが写真の中に岩倉具定・具経兄弟、大隈重信がいると書いていることから、彼らの足跡を調べ、撮影時期を明治元年十月から同十二月の間と推定した。
「額に入れて生きる糧にしている人も多い。正当な歴史を後世に残すべきだ」と、以前の記事を思い出して本紙を訪れた慶応大学の高橋信一助教授も、「写っているのは致遠館関係者。撮影時期は明治元年十月二十三日から十一月十九日」との論考を公開。明治の撮影なら、竜馬や天皇がいるはずがない。
佐賀の歴史に詳しい佐賀城本丸歴史館の杉谷昭館長は「いろんな推察ができるのが、この写真の面白いところ。まだまだ研究が必要」と話す。広告の陶板額の業者も主張する。「佐賀藩士の写真なら、研究で明らかにしてほしい。いずれ決着をつけなきゃいけない写真ではある」。肯定派も否定派も「まともな議論」を期待しているようだ。
1985年の「こちら特報部」記事 第1弾(6月24日付)で、写真の所有者の入手経路をたどり、「田中竜夫元文相の家に代々伝わる写真」という伝説を否定。1枚1万円程度で売られたものが、複写を重ね、広まったことが判明。第2弾(同27日付)で、大の西郷ファンだった島田隆資氏が76年の論文発表後、自ら英傑の名前を書き込んだことがわかった。「撮影後、すぐに名前が書き込まれた」という説を否定。第3弾(同30日付)で、写っている可能性が高い岩倉具定の記録を調査。長崎留学の時期、「開国五十年史」の記述、上野彦馬スタジオの記録から、撮影は明治以降で、英傑写真ではないとの結論に至った。
◆写っている“英傑”たち◆
◇矢印上段右から 陸奥宗光、吉井友実、五代友厚、鮫島誠蔵、中村宗見、別府晋介、西郷従道、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、村田晋八、伊藤博文、江藤新平、中島永元、中野健明、勝海舟
◇同下段右から 横井太平、横井小楠、横井左平太、日下部太郎、坂本竜馬、高杉晋作、岩倉具定、岡本健三郎、副島種臣、フルベッキ博士、ウィリアム・フルベッキ、岩倉具経、江副廉蔵、大隈重信、中岡慎太郎、桂小五郎、大村益次郎(名前は原文のまま)
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