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デモ行進と市民社会の成熟度
2月3日―メディアを創る
少し前の話になるが、1月31日の毎日新聞の「西雷東騒」というコラムで小田実が書いて事を紹介したい。久しぶりに共感を覚える文章に出会ったからだ。
「私は『主権在民』の民主主義を政治の原理としてもつ市民社会の根本は、デモ行進だと考えている。デモ行進は労働組合や過激学生だけがすることではない。市民がさまざまな違いを越えて、共通の主張、反対、抗議の意思表示のために集まり、ともに歩く。これが市民デモ行進であり、市民社会だ」という文章で始まる、「デモ行進と市民社会の成熟」という随筆は、かつてベトナム反戦活動を率いた小田の面目躍如である。
彼は、「自分は決して奇矯の言を弄しているのではない」として、市民が政治主張をしたいなら、反対、抗議をやりたいなら、選挙を通じてやれ、そのためにこそ議員がいる、政党がある、議会がある、といった反論が間違いであると、要旨次のように述べるのである(筆者要約)。
「・・・民主主義と市民社会の伝統を持つイギリスのロンドン市長が、イラク反戦のデモ行進に際して『市民よ、デモ行進に立ち上がれ』と発言したことを思い出せ、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、などで何十万人、何百万人の規模のデモが起こったことを思い出せ、これらの国こそ立派な政治制度を持つ国ではないのか。民主主義の起源はアテナイの直接民主主義である。そこでは「選挙」は重要ではなかった。全員自由参加、回り持ち、といった市民の直接参加こそ求められていた。「選挙」が重要となるのは古代ローマからであるが、同時にその時代から民主主義の堕落・衰退が始まり、帝政への道が開かれることになった。現代の民主主義国家ではどうか。市民の生死がかかっている重要な問題でも、首相や議会が勝手に決めて事は始まり、終わる。市民に残された民主主義手段はデモ行進だけだ・・・」
私は学生時代にはデモを避けて過ごした。官僚になってからは一度もデモに参加することはなかった。その私が外務省を辞めて自由な身になって初めてデモに参加することになった。それは、権力側に身を置いていた時には決して感じなかったこの国の民主政治の限界を、嫌と言うほど見せつけられたからである。選挙で選んだ政治家や政党が、我々の権利や主張をよく代弁してくれない時、最後に残された抗議はデモ行進しかない、小田実の言葉がその通りであると思うようになった。
そうは言っても、やはり違和感を抱く自分を正直に告白する。何故だろうかと考える。小田が言うように自分は欧米と違って市民社会の成熟度がたりない日本という国の、典型的な国民だからなのか。社会の見る目を恐れるからか。自分の時間を犠牲にしたくないからか。見知らぬ人たちと行動をすることへの警戒感があるのか。かつて仕えた国家権力への畏敬からなのか。おそらくそれらのすべてであろう。
一つだけデモで賛成できないことがある。デモ行進する多くの人が、デモを規制する警官や門衛たちに敵対的な態度を取りがちな事だ。それは間違いだ。我々の敵は権力者である。決して末端の警官や守衛ではない。彼らはむしろ我々の同輩であり味方であるのだ。そこのところを認識せずに闇雲に敵対的になるのでは民主運動も広がらない気がする。敵はあくまでも権力者である。こんな事を言っていては小田実に怒られるであろうか。
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