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(回答先: Re: 所詮は制服を着た鉄砲玉でしかなかったのでは 投稿者 遙か群衆を離れて 日時 2006 年 2 月 27 日 07:04:40)
http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-209.html から転載
きょうは2.26事件から70年目である。いまから70年前の未明、第一師団の歩兵連隊を主力とする青年将校に率いられた軍隊は、「昭和維新」となえ午前5時から6時にかけて首相官邸、要人私邸、警視庁、朝日新聞などを襲撃、テロを断行した。
軍拡に反対していた高橋是清元首相、蔵相は7発の銃弾を浴びて絶命したあと、日本刀による胴切りをうけ、さらに腹部をメッタ切りされ、ほとんどの内臓は外にはみ出していたという。
これは「革命」でも「維新」でもない。ただの人殺しである。
事件の経過については、関連サイトを参考にしていただくとして、この事件が先の「戦前」にはたした役割について考えてみたい。
陸軍の陰謀・謀略
まず、この事件は青年将校たちが単独で考え、行動をおこしたものではない。また巷間にいわれるように北一輝、西田税が首謀者で、純真な青年将校をあおっておこした事件ではない。特設軍法会議は表面上はそういう形で決着した。
だが、これが陸軍中枢による謀略であり、青年将校たちはそれに煽られて軍の言いなりにならない政治家たちを屠った事件であったことは、NHKと澤地久枝によって明らかにされた(日本放送出版協会「雪は汚れていた」)。「反乱」を支持する陸軍大臣告示は、26日午前11時前には近衛師団に伝えられていた。それは準備されていたのである。
ところが昭和天皇は陸軍のそうした態度をみて、断固鎮圧を求め自ら近衛師団を率いて乗り出すことさえ表明した。陸軍中央はその怒りに驚き、当初の正面突破から青年将校たちをスケープゴートにして抵抗者を排除する作戦に変更する。陸軍中央という支えをうしなった青年将校たちはなすすべもなく、淡雪のごとく溶けていった。
ハメられたことを知った磯部浅一は猛然と陸軍中央の謀略を暴露し、昭和天皇を呪詛し、北と西田を救おうと努力した。澤地さんらは、軍法会議の主席検察官が自宅に保管していた資料を読み解き、そのことを明らかにした。
国民世論と「昭和維新」
ではなぜ、陸軍中央は青年将校をそそのかし政敵を屠ろうとしたのか。
それまでも軍によるテロルや計画はあった。515事件など、じっさいに総理大臣を殺すことまでやった事件もあった。
だが、それらのテロルに国民世論は寛大だった。それには、当時の時代の閉そく感もあった。不況、失業、農村の荒廃、政治家の汚職、財界の傲慢ぶり――これらにたいする国民の不満は、軍人たちの行動に期待するところがあった。
対外的には満蒙問題である。排外熱は、新聞ラジオによってあおられていた。「向こうが仕掛けたから、満洲とはいわず支那全土をとっちゃったっていいんだ」「そうしたら景気もよくなるでせう」――当時の新聞は国民世論の一部を紹介している。
こうして満州事変は、多くの国民の熱狂的な支持を集め、陸軍は一躍スターにのしあがっていた。こうした中で、軍部や右翼のテロルに対して世論は同情的で、軍法会議の判決も甘かった。それらが陸軍中央をして武力クーデターに訴えても、国民も天皇も容認してくれるだろうとの判断をもたせたとしても不思議ではない。
だがもくろみは外れた。昭和天皇は自分の軍隊を勝手に動かして、重臣たちを殺したことに激怒したのである。
狡猾な陸軍中央は、青年将校を切り捨て、真崎大将に形だけの責任をとらせることで実をとろうとしたのである。陸海軍大臣現役制の復活、軍事予算の増額など、軍による政治支配を確立しようとしたのである。国民世論は巧妙に誘導された。
すでに反戦・反軍を公然と唱える団体、個人はミンチにされたか獄中、最前線に送り込まれていた。
昭和天皇のイニシアチブ
昭和天皇は226事件で断固としたイニシアチブをとった。
陸軍の直接的な陰謀を一喝で粉砕したのである。明治憲法のもとでそれだけの威光と権力をもっていたのである。
だか、このあと彼のイニシアチブは、軍の暴走を防ぐ方向では発揮されなかった。なぜか?昭和天皇はのちになって「立憲君主としてふるまったからだ」などと弁明しているが、あと知恵で説得力はない。
要は226事件のように自分の軍隊を勝手に動かしたりされること、統帥権干犯には絶対君主として厳しい拒絶反応はしめすが、通常のルールにもとづく事がらには寛容であったのではないか。軍部は226事件以後は、絶対に統帥権干犯を犯すことはしなかった(昭和20年8月14日深夜からの「クーデター騒ぎ」があるが、軍中央はこれには加わっていない)。軍部は天皇を納得させることに苦心したのである。
昭和天皇は戦争に対しては関心も高く幅ひろい知識も持っていた。統帥部の上奏に自分なりの判断をもって開戦を決断したのである。昭和天皇は聡明な絶対君主だった。だが、絶対君主だったがゆえに、国を破局に追いやることを防げなかった。
彼に戦争責任があることは明白である。
歴史は合成力
つくづく歴史は社会を構成する諸階層の合成力だ、この226事件をみて思う(そのうえに諸外国の力もある)。
登場人物の一人一人の思いは色々あっても、他の人物たちとの思いとの衝突があって、意識された方向へとはすすまない(青年将校たちの昭和天皇に対する思いと、昭和天皇の皇道派への思いのミスマッチは昭和史の悲劇であり、喜劇でもある)。
その昭和天皇でもその意志だけで時代が動かせたのではない。もちろん彼の意思は大きなベクトルだった。だが、その彼も抗えない「見えない力」に動かされていたし、また動かしていたのだ。軍部も財界も政党もそうだった。一人一人の力は弱かったけれども国民もそうだったのだ。そのなかでそれぞれの利益と安定を求めてもがきながら歴史はすすんできた。よく歴史の動きをつかさどる強大な支配者がいて、庶民はそれに操られてるにすぎないという「歴史観」を思い浮かべがちだが、じっさいの歴史の真実はそんなものではなく、もっとドラマチックである。
226事件は、戦前の日本の体制が必然的に破局へと向かう契機となった。だが、その布石はその前に準備されていたのであり、歯止めを自ら取り払っていた。選択肢はますますせばまっていたのだ。
そういう先の「戦前」との比較でいまの「戦前」をとらえたとき、いまはまだ226事件以前であると思う。だが、それを準備しているさまざまな事象(まったく同じではなく、今風にアレンジされたという意味で)をとらえることができる。
いまを新たな「戦前」につなげることを食いとめるためには、226事件につづく道を一つひとつつぶしていくことが求められていると思う。
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