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反米嫌日戦線「狼」(美ハ乱調ニ在リ)
国民が熱狂・興奮・感動するとき、国家による殺人は名誉となる。
http://anarchist.seesaa.net/article/11131833.html
ロフトプラスワンで行われた月刊『創』トークライブに行ってきた。今回の内容は、森達也、鈴木邦男、山本直樹、綿井健陽などが出演したが、ほとんど司会の『創』編集長・篠田博之さんの独演会になってしまい、ゲストの発言がほとんど無いという消化不良の内容で、少々ガッカリした。しかし、第1部「靖国問題」のゲスト・東條由布子の大東亜戦争自慢話を聴くだけでも価値はあった。
A級戦犯、東條英機元首相の孫である東條由布子は、今年、靖国問題を特集するマスゴミによく出演していた。
サンプロに出演した際のビデオhttp://www.geocities.jp/kyokutou_kokusai_gunzi_saiban/SP_0703a.html
彼女はちょっと遅れて登場。グッチのアタッシュに祖父東條の思い出の写真とハガキを携えてきた。写真は大正時代、在ドイツ大使館駐在武官だったころのモノもあり貴重なもの。ハガキは東條が自分の子供宛てに書いたもので、子煩悩ぶりがうかがえる内容であった。
彼女の主張は以下のようになる。
中国韓国のコイズミ参拝批判は内政干渉。大東亜戦争は「自存自衛のための戦争だった」。国際法で自衛戦争は認められているのであるので東條は無罪。ただ開戦敗戦の国民に対する罪は認める。東條自身は、「7度生まれ変わっても罪を償う」といっているとのこと。
会場からの質問では、あの木村愛ニ氏が賊軍の者も祀ってくれとヤワラカク質問。彼女はすべての者を靖国に祀ってもらいたいと主張していた。
引っかかったのは「東條は天皇の身代わりとして戦犯になったのでは?」という質問に対し、彼女が毅然として「祖父は誰の身代わりになったのではない」と、キッパリ否定していたこと。俺には、それは遺族としての感傷としか思えない。
東京裁判での天皇の責任を回避するために、東條にすべての責任を負わせた。
東條の孫が祖父が死刑となった理由を美化しようとも、これが事実である。
1946年3月6日、GHQのボナ・フェラーズ准将は重臣の米内光政会見してる。彼は、天皇が連合軍の最善の理解者と認識しており、占領が継続する間は天皇制も引き続き存続すべきだと考えていた。しかし、連合国側に天皇を戦犯者として挙ぐべきだとの主張が強い。
これに対する対策として、天皇が何の罪も無いことを日本側が立証してくれることが最も好都合である。そのためには近々開始される裁判が最善の機会と思う。ことに東條に全責任を負担せしめるようにすることだ。即ち東條に、つぎのことを云わせて貰いたい。
「開戦前の御前会議において、たとい陛下が対米戦争に反対せられても、自分は強引に戦争まで持っていく腹を既に決めていた」と。(新出資料からみた『昭和天皇独白録』)
これに対して米内は、「全く同感です。東條・嶋田に全責任をとらすことが、陛下を無罪にするための最善の方法と思います。しかして、嶋田に関する限り、全責任をとる覚悟でおることは自分は確信しておる」と応じている。
東條に戦争責任を押し付けることによって天皇を救うという発想は、かなり早い段階からGHQの内部で共用されていたようだ。1945年9月25日、『ニューヨーク・タイムズ』のクラックホーン記者は、天皇に拝謁し、現在の皇族への記者会見と同様、あらかじめ提出されていた質問への回答を文書で受け取るというかたちで、天皇との単独インタビューを記事にしている。
次に東條大将は真珠湾に対する攻撃、ルーズヴェルト大統領の言葉をかりるならば「欺し討ち」を行うために宣戦の大詔を使用し、その結果、米国の参戦を見たのであるが、大詔をかくのごとく使用することが陛下の御意図であったでしょうか、という質問に対し、「宣戦の大詔は東條のごとくにこれを使用することはその意図でなかった」という意味の簡単な御返事があった。
実際の天皇の回答部分の文には、「陸海軍の配備、攻撃の時間や場所など戦争の個々の作戦については、天皇はほとんど相談を受けない。それらは最高司令官だけが、ほとんどの場合、決定する。ともかく、陛下は、戦争開始の前に、正式の宣戦布告をなさるおつもりであった」とだけあって、そこには東條の責任を明示する文言はまったく含まれてはいなかった。どのような意図で、掲載の段階で、事実上、東條を非難する内容の文章に変わったのか。
天皇としては、東條への非難を公にしたいところだが、天皇自体は雲の上の人のイメージを大事にしなければ国民の支持は得られない。つまり、東條を公の場で天皇が非難することは、このイメージが崩れてしまう危険がある。そこで考えられたのが有名な『昭和天皇独白録』ではないだろうか。これは、天皇の戦争責任回避のために、東京裁判前に突貫工事で作られた弁明書であり、ボナ・フェラーズ准将の示唆を文章として具体化したものなのだ。天皇への聞き取り役となった『五人の会』のメンバーの一人、宮内省御用掛の寺崎英成の妻はボナ・フェラーズ准将の縁戚であった。
東條は、1947年12月31日の東京裁判法廷で、天皇の戦争責任に関する重要な証言を行っている。
「日本国の臣民が、陛下の意思に反してかれこれするということはあり得ぬことであります。いわんや、日本の高官においてをや」
これでは、大東亜戦争の開戦は天皇の意思だったということになってしまう。
すでに天皇の免責を決めていたキーナン首席検察官は、この東條の証言を撤回させるために行動を起こした。田中隆吉→松平康昌→拘禁中の木戸幸一から東條への説得を依頼した。この結果、翌48年1月6日の法廷で東條は、前回の証言は国民としての私的感情だったとして、撤回した。
東條工作のあとで、田中は松平に招待され、その場で非公式に「今回のことは結構であった」という天皇のお言葉を伝えられるとともに、御下賜品としてジョニ赤のウィスキー1本をもらっている。(『田中隆吉著作集』)
ところで、天皇自身は東條を積極的に評価している。「話せばよく判る」「一生懸命仕事をやるし、平素云っていることも思慮周密で、なかなか良い処があった」などと持ち上げている。しかし、そこは「東京裁判」対策で作成された『昭和天皇独白録』、「私は東條に同情しているが、強いて弁護しようと云うのではない。ただ、真相を明らかにして置きたいから、これだけ云っておく」、と歯切れの悪い内容となっている。
孫の話で知ったことで驚いたのは、東條の次男・東條輝雄のことである。彼は、ゼロ戦や戦後初の国産旅客機YS-11、航空自衛隊のC-1 (輸送機)の設計に携わった有能な技師で、三菱重工業の副社長を経て、三菱自動車工業の社長・会長を1981年から1984年迄務めた。東條家と三菱はつながっていたのである。
他の財閥についてもいえることだが、三菱は戦争のたびに大きくなった。第1次大戦では軍需で多大の利益をあげた。その反動がきた大正9年の大恐慌では、弱小財閥が軒並みつぶれたのに反し、三菱は資本を蓄積して銀行部や営業部などの各部を株式組織に改めてこれに備えたので、微動だにしなかったばかりか、逆に伸びたのだった。また第2次大戦でも大量の軍需をまかない、企業としては大幅な拡張をみたが、終戦と同時に財閥解体の憂き目にあい、ついに崩壊するかにみえた。けれどもその組織と人材とはほろびなかった。そして今日では三菱グループとして各社が互いに資本や技術を提携して産業界の大きな勢力になってきている。おそらくその規模は戦前の何倍かになっているであろう。つまり三菱財閥は国家の興隆とともにあったのだ。64年当時三菱電機社長高杉晋一著『私の履歴書』より
戦争で儲けていった三菱。『男たちの大和/YAMATO』の戦艦大和そして武蔵も三菱製だ。
東條由布子は、いま講演でひっぱりだこらしい。最近では、自衛隊での講演も多いという。
ちなみに、東條の部下にはろくな奴がいない。
東條の腹心の部下としては「三奸四愚」と呼ばれた三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二、四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄やインパール作戦を直訴し白骨街道を築いた牟田口廉也、陸軍大臣時代に仏印進駐の責任問題で一度は左遷したが、わずか半年後に人事局長に栄転し陸軍次官も兼任した富永恭次がいる。富永はフィリピンで特攻指令をだし、自らも特攻すると訓示しながらも、「胃潰瘍」の診断書をもって護衛戦闘機付きで台湾に逃亡した。しかし、これらの部下を東條は処分しなかった。
自衛官は、東條を軍人としての反面教師と思っているであろうか?
posted by 死ぬのはやつらだ at 02:40
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