★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK18 > 119.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 某ブログが排除された という件(manbow BLOG) 投稿者 片瀬テルミドール夏希 日時 2005 年 12 月 27 日 06:05:36)
http://lapsang-souchon.tea-nifty.com/pokopon/2005/12/post_70b7.html
ほっとけない世界のまずしさ、というキャンペーンをみかける。貧困というのは「何千年も続いてきたのに、私たちの代で途絶えさせていいのか」という意見は見られない、なくしたいと思っている人の方が多いようだ。
世界のまずしさは、それが理由で死んでいく人が多いわけだし、自分がその立場になったら嫌だし、ほっとけないと思う人が多くて当然なんだろう。
ところで、私はピアノが弾けない。たぶん弾けた方がいいと思うが、弾けないことで特に困っているわけではない。私のピアノ演奏のまずしさをほっとけない、そういう人がいても大きなお世話だ。
さて、食べ物がうまいトコに、不味いと言う、陶器の便器が割られないのに、便所のマナーが悪いと言う、そういうのは不当だろう。けれども、食べ物がうまくて、陶器の便器が割られないトコにも、他に改善すべきことは多い。だから、それを批判するのはアタリマエだ。ところが、そのアタリマエの批判を悪口と思い込む、そういうアタマのまずしさは、ほっとけばいいのか。
アタマのまずしさは、気づきさえしなければ、本人はシアワセなのである。私だって、オカシナことを書いていることにウスウス気付いているが、この程度のアタマのまずしさは、生きるか死ぬかの問題じゃないから、私にとっては受忍限度内なのである。だから、私のアタマのまずしさはほっといてくれてもいいのである。
それで、アタマのまずしさをほっとけないとどうなるか。アタマのまずしさを指摘されることは、アタマがまずしいほど、改善の手がかりではなく、単なる「悪口」と思ってしまうわけである。私のアタマのまずしさはそこまでは行ってないと、たぶん思うので、ほっとけない人も安心してくれていい。でも、私のフトコロのまずしさをほっとけない人の方がウレシイ。
さて、アタマのまずしい人は、食い物がうまいからいいトコだ、なのに批判するのは悪口だ、というアクロバット的論理と同じように、ピアノ演奏ができるし便器の知識もある、なのにその意見への批判は悪口だ、悪口を載せたシステム管理者に文句を言ってやれ、と思ったりしかねない。
そんなわけで、私の場合、他人のアタマのまずしさは基本的にほっておく。ところが、そういうアタマのまずしさをほっとけない人もいる。
以前に「パッチギ」の感想にトラックバックを貰って、それ以来、定期的に読んでいたblogが全く更新されなくなった。最近になってわかったのは、使っているblogシステムにログインできなくなったらしい。理由はわからない。なおかつ本人もシステムの管理者が全面的に悪いとは思っていないフシがある。だから、私はほっとけばいいんだろう。
けれども、ログインできなくなった理由のひとつ、要素としては大きなものではないかもしれないが、使っているblogシステムのトップに紹介されている人のblogの論理に対し、そのアタマのまずしさがほっとけなかった、
http://anarchist.seesaa.net/article/10880981.html
というのがあるようだ。
だいぶ以前のエントリーで、「ネットは並列的な異文化を作るように言われたが、実際は階層化を進めた」というコメントがあった。
こういう例を見ると、アタマのまずしさは、やはりほっとくしかないと、ますます階層化が進むのかなぁと思う。
天皇の後継問題についても、表面的には「男系維持」「女系容認」「やめちゃえ」という意見に分かれているのだろう。けれども、もっと大きな差を最近、感じる。
冒頭にあげたような「存在」と「当為」の混同をせず、いずれかの意見を主張する人、つい混同してしまうが論議の結果「当為」論に辿り着く人、まったく混同に気付かないで主張する人、そしてY染色体云々とか言い出すトンデモさん。この4階層の差の方が大きいんじゃないかと思う。
▲このページのTOPへ HOME > 政治・選挙・NHK18掲示板