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(回答先: パナマ侵攻 投稿者 Palapala 日時 2007 年 3 月 31 日 13:23:49)
パナマ侵攻の真実
12月20日の真夜中、アメリカ軍がパナマに侵攻。アメリカ軍はパナマ国内27カ所を同時に攻撃した。首都パナマシティでは、パナマ国防軍本部が最大の攻撃目標となり、周辺に住む人々の家も無差別に爆撃された。
アメリカ軍は、国防軍本部に乗り込む前に、その周辺を4時間にわたって包囲し、降伏を呼びかけた。
――A・バンクロフト(パナマ難民委員会代表)「降伏の呼びかけから10分ほど経つと、ヘリコプターの音がして爆撃が始まり、私たちは地面に叩きつけられたんです。アメリカはレーザー光線も使っていました。アメリカ軍の攻撃が、軍関係の施設だけでないことはすぐにはっきりしました。
爆撃が数時間続いた後、アメリカ兵が言いました。全員手を上げて出てこい。そして彼らは私たちを教会に連れて行ったんです。朝の6時ごろだったでしょうか。突然教会の前の建物が燃え出したんです。その中に全財産を置いてきた人たちは、火を消すために教会から走り出ようとしました。するとアメリカ兵は、空に向けて威嚇射撃をしたんです。みんな教会に走って戻りました」
アメリカ軍はパナマを、新しく開発されたハイテク兵器、ステルス戦闘機やアパッチ・ヘリ、レーザー誘導ミサイルなどの実験場とした。まだ開発途上の兵器をその威力を試すために使ったのである。
――C・サイモン(パナマ大学教授)「われわれは戦闘員たちの証言を手に入れました。レーザー光線にやられて、文字どおり熔けて死んでしまった者がいるそうです。レーザー光線は自動車をまっ二つにすることもできます。こうした恐ろしい威力を持つ兵器が使用され、そのためによりいっそう多くの血が流されることになったのです」
――R・クラーク「高性能の兵器が単なる実験の目的で使用された可能性は非常に高いと思います」
元アメリカ司法長官のR・クラークはパナマ侵攻に関する調査の指揮にあたってきた。
――R・クラーク「使用を避けるべき場面でも、不必要に兵器が使われていました。正当性のない、度を超えた兵器の使用があったのです。そのために、計りしれない犠牲が生まれ、侵攻の傷跡が深くなっていきました」
――M・ハーツガード(アメリカ人ジャーナリスト)「人口が密集している都市部にも砲撃や空襲は行なわれました。市民の中に数しれない死傷者が出たことは疑いようもありません。しかしアメリカは、そんなことにはおかまいなしでした」
爆撃が一段落した後も、アメリカ軍による破壊的な行為は続き、武器を持たない市民がその犠牲となった。目撃者の証言では、多くのパナマ人がアメリカ兵に捕らえられ、処刑されたという。
オリバーディアさんは、多くの犠牲者を出した、チョリージョ地区のコミュニティリーダー。彼はパナマ侵攻の翌朝、強制収容所に連行された。
――R・オリバーディア「近くの高校が収容所代わりに使われていて、そこに連れていかれたんです。収容所にはパナマ軍兵士もたくさん収容されていました。彼らは何が起きているのかわかっていないようでした。手足を縛られて、草の上に座らされていたんです。私はチョリージョ地区から連れてこられた他の人々と一緒にいて、目の前で処刑が行なわれるのを見ました。入り口の側にいたパナマ兵8人が、アメリカ兵に殺されたんです。」
パナマ侵攻の際、国防総省は、アメリカの主だったニュースメディアから16人の報道陣をアメリカからパナマに送った。しかし、この4人は侵攻開始から4時間が過ぎるまでパナマに入ることができなかった。しかも、彼らはパナマに入ってからも36時間の間、アメリカ軍の基地から出ることを許されなかったのである。
――E・キャロル(海軍准将米国防情報センター)「報道陣はパナマに入ったその日からアメリカ政府に都合よく利用されたんです。彼らはアメリカ政府、アメリカ軍が見せたいと思う場所にだけ連れていかれました。侵攻によってパナマが負った傷跡は隠され、報道されなかったのです」
独自の取材を試みたジャーナリストたちは、アメリカ兵に阻止され、攻撃のあった地域に入ることができなかった。アメリカ軍はまた、パナマの報道機関を麻痺させた。ラジオ局を破壊し、テレビ局を占拠して軍の暗号送信に使ったのである。多くのジャーナリストが逮捕され、パナマを代表する日刊紙、『ラ・レプブリカ』の社屋も襲撃と略奪にあい、新聞は休刊に追い込まれることになった。アメリカ軍はパナマにおけるニュースメディアを極めて効果的に支配した。そのため、侵攻直後の3日間の様子を伝える映像は、ほとんど残されていない。
――P・スコット(カリフォルニア大学教授)「ベトナム戦争の時代にはなかった、新たな報道規制が行なわれたのです。だから合衆国の市民はすべてが終わるまで、パナマで起きた真実を知りませんでした。ゴルバチョフが、それまで旧ソ連で行なわれていた厳しい報道規制を取り払おうとしていたその同じ時期に、アメリカ合衆国で全く逆の現象が起きていたとは、なんとも皮肉なことです」
アメリカ軍は新たに就任したパナマ政府のメンバーとともに、鎮圧政策に乗り出した。公共の施設、官庁、大学を支配下に置き、反アメリカ的な立場をとる団体のオフィスを破壊し、何千人もの人々を逮捕したのである。
――L・バーンズ(中南米評議会)「副大統領カルデロン、大統領エンダラ、そして司法長官クルツ。彼らは政敵の名前を書き連ねてアメリカ軍に渡しました。自分たちにとって都合の悪い相手を片っ端からブラックリストに挙げたのです。アメリカ軍はこのリストにあった人々の家に乗り込み、彼らを収容所に連行しました。エンダラたちがリストに挙げたという、それだけの理由で拘束されたのです。法的な正当性はどこにもありませんでした」
――V・バン・イスラー(ジャーナリスト)「逮捕の危険を感じた政治家たちは身を隠さなければなりませんでした。元官僚や外交官、大学教授といった人々が逮捕され、次々に難民キャンプに送り込まれていきました。投獄された人もいます」
別のサイトですが参考までに
http://www.hat.hi-ho.ne.jp/heart_thoughts/panama/asalto.htmlパナマ侵攻
窓の外から撮影されたノリエガ宅の室内(1991年3月)。 侵攻から1年以上経過していますが、室内は逃げ出した時のまま管理されており、キリスト像などのクリスマス用と思われる置物が見えます。(写真提供:宮崎ツヤ子) ●概要
1889年12月20日午前0時45分、武装ヘリ部隊がパナマ市内6ヶ所に対し爆撃を開始し、パナマに侵攻した。 アメリカ合衆国ブッシュ政権は、パナマのノリエガ将軍を、麻薬密輸の容疑で逮捕するという名目であった。
アメリカの兵力は、パナマに駐留していた南方軍、本土降下部隊など24,500名であり、 20日未明にパナマ国内27カ所を同時に攻撃し、パナマ市街では市街戦となり、 3日間の戦闘でパナマ側は民間人を含めて400人〜2000人の死者出たという。
最大の攻撃目標は、パナマ国防軍本部であったが、隣接するエルチョリージョ地区も爆撃され、 労働者街のサンミゲリート地区も焼け、民間人に多大な被害をもたらしたのであった。
これに対し、ハイテク兵器を駆使した米軍はわずか23人の死者であった。
ノリエガ将軍は投降した後、米本国で裁判され1992年「麻薬密売」の罪により40年の拘禁判決を受け、 現在もアメリカ合衆国フロリダで服役中である。
侵攻と同時に野党のエンダラが、米軍基地において大統領就任を宣言した。
なお、パナマは1994年に軍隊を廃止し、警察力だけになっている。
●パナマ侵攻の暗部
・国連総会で軍事介入は非難された
アメリカは、国際法を無視し侵攻したのである。
・侵攻の真の目的は内政干渉である
パナマ運河を抱えるパナマの内政をコントロールするという歴史的な思惑がある。
侵攻後に、パナマの麻薬売買の量は格段に増えたという指摘もある。
・新兵器が実験目的で使用された可能性
ステルス戦闘爆撃機、アパッチ・ヘリ、レーザー誘導ミサイルなどの度を越えた使用が指摘されている。
・チョリージョ地区がなぜ空爆されたのか
人口密集地区であったチョリージョ地区が、ノリエガ一派が隠れているという理由で焼かれ、 市民に多数の犠牲者が出たという。
・パナマ側の死者が未公表。
10年以上も経つのに、死者は現在も公表されていない。
米軍はパナマのラジオ局、テレビ局を占拠し、パナマのジャーナリストを逮捕したため侵攻時の映像が残っていない。
●パナマ侵攻と日本
・ノリエガ元将軍の回顧録
「米軍のパナマ進攻は日本の影響力拡大が引き金」とノリエガ元将軍は、語っている。 「米国人の凶暴さに対抗して資金力のある日本をパナマ運河に引き込むことで、アメリカをけん制」しようとした。 そのため、パナマ運河の将来の管理が日本の支援でパナマの手に落ちるのを阻止することが狙いで、米軍は侵攻したという。
・第二パナマ運河計画
日本主導の第二パナマ運河計画に期待したノリエガ政権は、パナマ市内のオマール公園に大平正芳元首相の胸像を作った。 また、パナマ市内の繁華街には「大平通り」もある。
●ノリエガ元将軍
ノリエガ宅の邸内(1991年3月)。アメリカ軍は、クリスマスが近づく1989年12月20日未明に、ノリエガ将軍を逮捕するという名目で、パナマに侵攻しました。 (写真提供:宮崎ツヤ子) マヌエル・アントニオ・ノリエガ[Manuel Antonio NORIEGA]
元パナマ国防軍司令官(将軍)で元最高実力者だが、米軍のパナマ侵攻により捉えられ、フロリダで服役中である。
1940年2月11日パナマ市生まれ
パナマ大卒
57-61 ペルー士官学校に留学
62年 パナマ国家警備隊
69年 チリキ地方軍司令官
70年 情報機関G2司令官
82年12月 参謀総長
83年8月 国防軍司令官
87年7月 反ノリエガ暴動
88年2月 米マイアミ連邦大陪審が麻薬取引罪で起訴
88年5月 ノリエガ支持派5千人による民兵組織「尊厳大隊」創設
89年10月3日 モイセス・ヒロルディ少佐がクーデターにより一時ノリエガ逮捕に成功するが国防軍により制圧され、失敗に終わる
89年12月 「政府主席」就任
89年12月20日 米軍侵攻で失脚
89年12月24日 バチカン代表部に逃げこみ亡命を申請
90年1月3日 米麻薬取締局に逮捕
92年7月10日 マイアミ連邦地裁で禁固40年の判決
97年4月 回顧録「アメリカの囚人」を出版