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「アーリア人種」の影【佐藤哲朗】
http://www.asyura2.com/0601/revival1/msg/255.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2006 年 11 月 26 日 19:02:21: YdRawkln5F9XQ
 

(回答先: 細かなページまでいまここで書き込みできなくてすいません。 投稿者 偽の友をあばけ 日時 2006 年 11 月 26 日 07:55:01)

http://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/2chap14.html

第十四章 血の轍(わだち)
・シンハラ仏教ナショナリズムの誕生
・「アーリア人種」の影
・文明と血脈
・四たび「日出づる国」へ
・注釈


←前章へ 次章へ→ 総目次

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▼シンハラ仏教ナショナリズムの誕生

 アナガーリカ・ダルマパーラは仏教復興運動をアジア近代化の精神的指針として提示した。また、彼のミッションはアジアから西欧にまたがる国際的な広がりを持ち、多くの白人インテリ層を新たに仏教に帰依させた。

 しかし仏教を掲げたアジア主義者、あるいはコスモポリタンという献辞は、ダルマパーラの多様な顔の一面しか言い当てていない。彼はスリランカ国内において、後の民族紛争の火種となる排他的な民族主義的思潮、『シンハラ仏教ナショナリズム』の最初にして最大のイデオローグとして記憶されている。

 若いダルマパーラが旗振りをつとめた仏教復興運動は、スリランカの多数民族にして仏教徒でもあるシンハラ人のナショナル・アイデンティティ確立を目指し、徐々に政治色を強めてゆく。ランカーの獅子によるアジテーションは、能天気なコスモポリタリズムを前提としたオルコット大佐の『仏教復興運動』との摩擦を招いたばかりでなく、タミル人をはじめとするランカ島内の他の少数民族に対するシンハラ人の排外主義を激化させる結果となった。

 スリランカの研究者J.B.ディサナヤカの論文に寄り添う形で、ダルマパーラがシンハラ仏教ナショナリズム成立に果たした役割を顕彰もとい検証してみよう。

「三世紀に及ぶポルトガルとオランダによる支配につづいてイギリスが一世紀にわたり支配したために、十九世紀の終わりまでには、シンハラ人仏教徒は、自分たちの運命を決定し民族独立に導く指導者を欠いていると感じるようになっていた。ダルマパーラが若いころに民族主義運動に関わって埋め始めたのが、まさにこの歴史的空白だったのである。民族的指導者としてのダルマパーラの役割は二つあった。ひとつには、シンハラ人仏教徒に確固たるアイデンティティーをもたせること、そしてそのアイデンティティーに誇りをもたせることだった。前者を達成するために、セイロン島にいる他のすべての民族(エスニック) 、言語、宗教共同体と明らかに異なる主要な要素をシンハラ人仏教徒に意識させようとした。また後者のためにダルマパーラはこれらの相違を称賛し、ときには誇張していった。」【*1】

 彼のシンハラ・アイデンティティ戦略のなかで最も重要なキーワードとして用いられたのは、シンハラ人と「アーリア人種」との結びつきであった。

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▼「アーリア人種」の痕跡を求めて

 アーリア人種とは耳慣れぬ言葉だが、19世紀から20世紀半ばにかけて猛威を振るった人種差別理論、その頂点にヒトラーの第三帝国を冠する「アーリアン学説」の根幹をなす人種概念である。これをひとことで要約すれば、「歴史上の偉大な進歩は、常に、白人であるアーリアン人種によって成しとげられてきた」という学説だ。

「アーリアン学説は、一八世紀末、言語の類似性から出発し、一九世紀後半、イギリスのインド植民地支配体制確立後、学説としての体系化が進行し、二〇世紀に入り、西欧の帝国主義支配が世界に拡大してゆくのに即応して、人種論としての色彩をますます深め、アーリアンの原住地も西北ヨーロッパ、イギリス、ドイツなどとの結びつきを合理化する地点に設定され、次第に西北方へ伸びてゆくこととなった。
 一八五九年から六一年にかけて、マックス・ミューラーはロンドンの王立協会で講義をし、従来、「インド・ヨーロッパ」、「インド・ゲルマン」といっていた言い方を、「アーリア」と言い換えるべきだと説いた。なぜならば、インドに侵入したサンスクリットを話す人々は、自らをアーリアと呼んでいたからだ、と説いた。(中略)トーマス・ヤングは、この共通な祖語をもつ言語群(サンスクリット語とギリシャ語、ラテン語、ペルシア語、ゲルマン語など:筆者補)の人々をインド・ヨーロッパ語族と名付けたが、その限りでは、言語の類似性の問題であり、人種や血の問題ではなかった。ところが、マックス・ミューラーになって、インド・ヨーロッパをアーリアと言い換えるべきだと言い出し、いささか様相が違って来、人種論に転化してしまった。
 リグ・ヴェーダを研究し、そこに「アーリア」というひびきのよい呼称で呼ばれている集団があり、その集団が、原住民を征服して、古代インド文化を創造した、と解釈したマックス・ミューラーは、その「アーリア」こそヨーロッパ人、ペルシア人、インド人の共通した祖先である、と主張した。晩年、彼は自説の誤りを認め、(中略)言語の類似性を基礎とする言語学上の概念であるインド・ヨーロッパ語族を、人種的ひびきをもたせた「アーリアン」に言い換えたことは、言語と人種を混同することになることに、彼自身も気がついたらしい。しかし、そのときには、彼自身がアーリアン学説を説き出してから、既に三〇年近い月日が流れていた。そればかりか、アーリアン学説は何よりも、一九世紀後半の世界制覇に向かうヨーロッパの時代的風潮に強く訴えるものがあり、既に、強固な学説として定着し、ひとり歩きし出してしまっていた。」
(『アーリアンとは何か その虚構と真実』津田元一郎 人文書院 1990年 p35-36)

 長い引用になってしまったが、「アーリアン学説」を応用すればこんな言説がいっちょあがり。…かつてインドは古代において優れた「アーリア人種」によって支配された。アーリア人種による輝かしい古代文明を築いたインドは、いまなぜ停滞しているのか? それは、劣等人種との混血を繰り返したためである…。より「純血」にちかい西欧のアーリア人が、インドを支配するのは「科学的」に正しい!

 このような「アーリアン学説」は、当然ながらアジア諸国の「劣等民族」には絶えがたい屈辱を与え、様々な形の反発を巻き起こした。後述するダルマパーラのように、「セム族の劣った宗教(キリスト教)を奉じるヨーロッパ人よりも、我らアジアの仏教徒こそが真のアーリアの伝統を継ぐものである」という主張もなされたし、「日本語のほうが、現代西欧諸語よりサンスクリット語に近い」という言語学的な反駁もあった。平井金三はそのような説を称えていたようだ。(彼の共同研究者である田口卯吉が喧伝した日本語=アーリア語族説は、最近文庫化された橋川文三『黄禍物語』(岩波現代文庫 2000年)に詳しく紹介されているので参照されたし。)

 なんといっても相手は「近代科学」の錦の御旗をもっていたし、「アーリア人=白人」という人種的特徴を持ち出されるとグゥの音も出なかった。当時は本当に、世界は「白色人種」によって支配されていたからだ。アジア知識人もまた、「人種主義」という舞台の上で醜悪な舞を踊ることを余儀なくされた。

 どうしても、言語は血脈の表象でなければならず、人種には優劣が存在せねばならなかった。そして「劣った血」の持ち主は「高貴な血」に奉仕することによってのみ存在を許され、究極にはガス室へと送られねばならなかった。生き残りの切符を手に入れるため、人々は「アーリア人種」の痕跡を求めて奔走した。かように時代の風潮を支配した「科学的」人種主義。その呪いの言葉の勢力下で、ダルマパーラは二十世紀に入るとシンハラ・ナショナリズム運動の中心人物として、故国スリランカやインドにおいて活発な運動を始めるのである。

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▼文明と血脈

 ダルマパーラはシンハラ人のルーツを太古の選民(と空想された)「アーリア人種」に求めたうえで、インドのエートス、つまり偉大なアーリア人の文明の最高に昇華された形態を「仏教」に与えた。ディサナヤカ曰く、「アーリア人が「高貴」な人種で純血だということは、ダルマパーラがシンハラ人に植えつけようとしたシンハラ人意識の中心をなす考え方となった。」スリランカの民衆を目の前にして、ダルマパーラはしばしば扇動的な言葉を叫んだ。

「ライオンの力を備えた人々の子孫が、現在のシンハラ人である。その子孫は決して征服されなかったし、野蛮な血は一切混ざっていない。」

 仏教を奉じるアーリア人、汚れた血の混じっていないシンハラ民族こそが、真のアーリア人と呼ぶに相応しい…。『人種の純血性』という呪いが、南アジアの小島でも繰り返し増幅されていった。「このようにエスニシティーを定め、シンハラ人は一方で「ドラヴィダ」人に分類されるタミール人や「アラブ」に分類されるイスラム教徒と区別され、もう一方でダルマパーラが「野蛮」と分類したヨーロッパ人からも区別された。
(中略)ダルマパーラが「ダンマ・ディーパ」すなわちブッダの教えの島という概念を利用してシンハラ人の心に刻みつけたのが、シンハラというエスニック・グループと仏教の間にある分かち難いつながりである。「シンハラ人でなければ仏教徒でない」というスローガンがシンハラ人の民族的(エスニック) ・宗教感情を高めた。」【*2】

 彼はつねづね、仏教をその精華とする『アーリア文明』を称賛していた。その場合、対立概念として彼が持ち出したのは『セム族の文明』(The semitic civilization)に属する「破壊的」なイスラム教やキリスト教だった。岡倉天心らの大アジア主義とも響きあうこの文明論的視座は、外国人を聴衆とした場合には(人種を超えた普遍文明である)「汎アーリア主義」のニュアンスで語られた。それがシンハラ人聴衆を相手にしたときには、しばしばアーリア「人種」という血の論理へと変換されたのである。

 本来『アーリア文明』の担い手であるべきインドは、イスラム教徒の侵略による仏教の破壊とヒンドゥー教の迷信によって疲弊し、堕落の極に達してしまった。我々が偉大なるブッダの教えを実践している間、森の中を駆け回り獣を追っていたような野蛮人たち(ヨーロッパ人)が、いまインドを我がもの顔で蹂躙している。仏教の再興によって偉大なるインドを取り戻すことは、純血を守った「アーリア人の末裔」であるシンハラ民族に課せられた使命であった。少なくとも、彼は、そう考えていた。1908年、ダルマパーラはインド自治権運動に言及して次のように喝破している。

「シャンカラチャリヤによって説かれたヴェーダーンタ教は、再生族(バラモン及びクシャトリヤ階級 訳注)のためだけの宗教でした。何百万もの溢れんばかりのシュードラ階級は、宗教のかやの外に置かれ、彼らは宗教的真理の深層を飲み込むことを許されなかったのです。その結果バラモンは排他的で独善的になり、非バラモン階級は迷信の泥沼にのたうつ羽目となりました。
 …今日、それと同じ独善的な主張がイギリス議会で、国務大臣によりインドに向け宣言されたのです。モーリー氏によれば“インドの民衆には自治政府は相応しくない。そして百年以上、彼らはそのままの状態であろう。”というのです。
 しかし仏教の本質的な教義は、(我々に)独立のための自治政府をと求めています。“自分自身を明かりとせよ。自己を汝の頼りとせよ。誰をも汝の頼りとするな、自己は自己の主人である、その他の誰が主人でありえようか?。”そのような民主的な仏陀の教えが、インド民衆の人生に影響を与えていた間、インドは征服されることはなかった。しかし排他的なバラモンたちが権力を握ったとき、カースト制は維持され、そしてインドは衰退したのです。」【*3】

 ダルマパーラの思想的文脈において、インドにおける仏教復興とシンハラ=アーリア民族意識の鼓舞とはパラレルに結びつけられていた。対機説法と呼ぶにはあまりにもきわどい矛盾を孕みながら、ダルマパーラは時代の激流のただなかを、前へ前へと「仏陀を背負って」進みつづけた。筆者はそのことを批判する言葉をもち得ない。

 たとい「思想的に」どんな問題があったにせよ、セイロン全島を行脚して繰り広げられた彼のアジテーションは、英国の植民地支配によって劣等感と無力感に打ちひしがれていた民衆に、人間らしい自尊心への目覚めをうながした。まだ7才の頃に、ダルマパーラの説法(バーナ)を目撃したダーナパーラは、その熱狂を次のように回想している。

「ある朝、太鼓のビートに乗って今晩ゴール市場広場でアナガーリカ・ダルマパーラの説法会が開かれることが告げられた。この時の販売主任(訳者注:ダーナパーラの務めるカレースパイス店の上司で、ダルマパーラがシンハラ語新聞に寄せた記事の熱心な読者であった)の興奮ぶりを想像して欲しい。われわれは皆その「バーナ」を聞いて熱にうなされたようになり、敬虔な思いで胸が熱くなった。(中略)
 それは今まで聞いたこともない、否これからも二度と聴くことがないような摩訶不思議な「バーナ」だった。
 彼は僧侶のような袈裟は身につけなかった。僧侶のように結跏趺坐をして座らなかった。僧侶のように経典の引用をすることもなかった。
 彼は彼自身が発明した奇妙な服を身にまとい、何もやましいところのない人間が見せるような毅然とした態度で真っ直ぐ背筋を伸ばして立っていた。帝国主義と白人の責任を徹底的に非難するダルマパーラの声の響きには、聞いているうちにほとんど耳鳴りがしてくるほどだった。(中略)
 当時のセイロンでは多くの人がへつらい、ぺこぺこし、こそこそしているなかで、アナガーリカ・ダルマパーラはしっかり胸を張って歩いていた。彼はただ一人の貴族だった。彼はシンハラ人に自尊心を植えつけ、胸を張って歩くことを教えたのだ。」【*4】

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▼四たび「日出づる国」へ

 故国スリランカにおけるシンハラ・ナショナリズム勃興のただなかにあって、ダルマパーラの眼差しは依然として強く日本国に向けられていた。「『宗教復興』は民衆が政治的、経済的な従属を当然のこととして許容した精神状態でいる限りは全く不可能であることを痛切に感じていた」【*5】ダルマパーラは、他のアジア諸国と日本とを対照させ、「国家が政治的に他国に従属しているとき、弱者はその特性を無くしてしまう。日本を除いたアジアは道徳、産業、政治や経済の状況が堕落してしまっているのだ。」【*6】と分析していた。

 民族の自立のためには、シンハラ人への技術教育が必要なことを力説していた彼は1904年、具体的行動として父ムダリヤルを説得して織物学校を設立した。同じくシンハラ人青年を技術研修生として日本に送り、織物その他の技術を学ばせる目的で六万ルピーの財団を設立した。【*7】彼は1908年の論説のなかで次のような言葉も残している。

「仏教と千年の時を共にしたことで、日本は最強の世界大国の一つになりました。千年の時を(仏教なしに)ブラーフマニズムと共にしたことで、インドは堕落の最悪の状況にあります。…千年の時が満ち、仏陀の警告の声が再びインドに届きました。古代の信仰の教えは今、サンディやアジャンタやエロールの洞窟からでも、ナーランダやブッダガヤやベナレスの僧院からでも、ヒマラヤのアシュラムからでもなく、日出づる国から広まるのです。」【*8】

 この論説から五年後、ランカーの獅子は四たび「日出づる国」へ上陸を果たす。それは次回のお話。(つづく)

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■注釈

【*1】『アナガリカ・ダルマパーラとシンハラ仏教ナショナリズム』J.B.ディサナヤカ著 中山敬訳(『思想』誌1993.1「特集 ナショナリズム」に掲載) J.B.Dissanayakaは1939年生まれ。セイロン大学ペラデニア校博士課程修了。コロンボ大学教授。(当時)言語学、シンハラ文化史。著書に『シンハラ文化史』(シンハラ語)がある。

【*2】ディサナヤカ 同上 一方、コロンボ大学教授(シンハラ文学)のKusuma E.kurunaratne女史は「ダルマパーラは伝統文化のリバイバル運動を始めたのです。20世紀初頭のスリランカは植民地支配下の文化抑圧の状況にありました。彼はスリランカの全てのグループは独立をかち取るため、自己の伝統文化を取り戻すために立ち上がったのです。私は、当時の民族文化リバイバリズムと現在の非常に狭いナショナリズムとは違うものだと考えています。」と述べている。(98.3.9 東洋大学に於けるインタビュー)

【*3】Anagarika Dharmapala "India and Japan" MJB Vol.16,No.4,1908("Return to Righteousness"A Collection of Speeches,Essays,and Letters of the Anagarika Dharmapala.Edited by Ananda Guruge, 1965.)

【*4】D.B.Dhanapala "Anagarika Dharmapala's work in Ceylon(Sri Lanka)" Maha Bodhi Society -Diamond Jubilee Souvenir (The Maha Bodhi 1891-1991 Centenary Volume, The Maha Bodhi Society of India, p101-102)

【*5】Kumari Jayawaedena "Anagarika Dharmapala's Impact on Ceylon Politics wasDecisive and Far Reaching" MBJ Vol.73,No.3&4,1965

【*6】Kumari, ibid.

【*7】『伝記』P.145. 1906年には、最初の織物学校がスリランカに設立され、まもなく大きな教育機関となった。なお、ダルマパーラが一九〇四年に設立した留学財団から日本に留学した技術留学生については 山田英世『セイロン〈こめとほとけとナショナリズム〉』桜楓社 1974, に簡単な後日談が載っている。

【*8】Anagarika Dharmapala, ibid.

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コメント
1. 中川隆[-13358] koaQ7Jey 2018年10月25日 18:17:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19531] 報告
橘玲の世界投資見聞録 2018年10月19日
今、ホモ・サピエンスのアフリカ起源説など人類史の常識が次々と覆されている
[橘玲の世界投資見聞録]
http://diamond.jp/articles/-/182802

馬を手にしたヤムナヤの遊牧民がヨーロッパに移動した

 ライクは『交雑する人類』で、DNA分析からヨーロッパ、南アジア、東アジア、アメリカ原住民、オーストラリア原住民、アフリカなどでどのようにサピエンスが移動し、交雑していったのかを説明している。ここではそのなかで、ヨーロッパとインドについて紹介しよう。

 1万年前、中東の肥沃な三日月地帯で農耕が始まると、新たなテクノロジーを手にしたひとびとは農耕可能な土地を求めて東西に移住していった。しかしなかには農耕に適さない森林地帯や草原地帯(ステップ)もあり、そこには依然として狩猟採集民がいた。農耕民と狩猟採集民は、時に交易し、時に殺し合いながら暮らしていた。そうした集団のなかには、今日、DNAにしか痕跡を残さない者もおり、ライクはそれを「ゴースト集団」と呼ぶ。

 遺伝学的には、8000年前頃の西ユーラシアの狩猟採集民は青い目に濃い色の肌、黒っぽい髪という、いまでは珍しい組み合わせの風貌だったと推定されている。ヨーロッパの最初の農耕民のほとんどは、肌の色は明るかったが髪は暗い色で茶色の目をしていた。典型的なヨーロッパ人の金髪をもたらした変異の最古の例として知られているのは、シベリア東部のバイカル湖地帯でみつかった1万7000年前の古代北ユーラシア人(ゴースト集団)だ。

 ヨーロッパの東には中央ヨーロッパから中国へと約8000キロにわたって延びる広大なステップ地帯があったが、5000年ほど前にそこで馬と車輪というイノベーションが起きた。この最初の遊牧民の文化を「ヤムナヤ」と呼ぶ。

 馬という高速移動手段を手にしたヤムナヤの遊牧民は、新たな土地を求めて移動を繰り返した。このうち西に向かった遊牧民が現在のヨーロッパ人の祖先だ。

 ここでライクが強調するのは、遊牧民がヨーロッパの農耕民と交雑したわけではないということだ。DNA解析によれば、彼らは定住民とほぼかんぜんに置き換わってしまったのだ。

 遊牧民が定住民の村を襲ったのだとすれば、男を殺して女を犯して交雑が起きるはずだ。その痕跡がないということは、遊牧民がやってきたときには定住民はいなかった、ということになる。そんなことがあるのだろうか。

 ここでの大胆な仮説は病原菌だ。ペストはもとはステップ地帯の風土病とされているが、遊牧民が移住とともにこの病原菌を運んできたとしたら、免疫のない定住民はたちまち死に絶えてしまったはずだ。こうして交雑なしに集団が入れ替わったのではないだろうか。

 15世紀にヨーロッパ人はアメリカ大陸を「発見」し、銃だけでなく病原菌によってアメリカ原住民は甚大な被害を受けた。興味深いことに、それとまったく同じことが5000年前のヨーロッパでも起き、「原ヨーロッパ人」は絶滅していたかもしれないのだ。

西ヨーロッパ人と北インドのアーリア、イラン人は同じ起源を持つ同祖集団

 馬と車輪を手にしたステップの遊牧民のうち、ヨーロッパ系とは別の集団は南へと向かい、現在のイランや北インドに移住した。彼らはその後「アーリア」と呼ばれるようになる。

 独立後のインドでは、「インド人とは何者か?」が大きな問題になってきた。

 ひとつの有力な説は、ヴェーダ神話にあるように、北からやってきたアーリアがドラヴィダ系の原住民を征服したというもの。この歴史観によると、バラモンなどの高位カーストは侵略者の末裔で、低位カーストや不可触民は征服された原住民の子孫ということになる。

 だがこれが事実だとすると、インドはアメリカの黒人問題と同様の深刻な人種問題を抱えることになり、国が分裂してしまう。そこでヒンドゥー原理主義者などは、アーリアももとからインドに住んでおり、神話にあるような集団同士の争いはあったかもしれないが、それは外部世界からの侵略ではないと主張するようになった。

 現代インド人のDNA解析は、この論争に決着をつけた。

 インド人のDNAを調べると、アーリアに由来する北インド系と、インド亜大陸の内部に隔離されていた南インド系にはっきり分かれ、バラモンなど高位カーストは北インド系で、低位カーストや不可触民は南インド系だ。インダス文明が滅び『リグ・ヴェーダ』が編纂された4000年〜3000年前に大規模な交雑があり、Y染色体(父系)とミトコンドリア染色体(母系)の解析から、北インド系の少数の男が南インド系の多くの女と子をつくっていることもわかった。

 近年のヒンドゥー原理主義は、カーストが現在のような差別的な制度になったのはイギリスの植民地政策(分断して統治せよ)の罪で、古代インドではカーストはゆるやかな職業共同体で極端な族内婚は行なわれていなかったとも主張している。この仮説もDNA解析で検証されたが、それによると、ヴァイシャ(商人/庶民)階級では、2000〜3000年のあいだ族内婚を厳格に守って、自分たちのグループに他のグループの遺伝子を一切受け入れていないことが示された。ジャーティと呼ばれるカースト内の職業集団にもはっきりした遺伝的なちがいがあり、インドは多数の小さな集団で構成された「多人種国家」であることが明らかになった。

 西ヨーロッパ人と北インドのアーリア、イラン人は同じステップ地方の遊牧民「ヤムナヤ」に起源をもつ同祖集団で、だからこそ同系統のインド=ヨーロッパ語を話す。それに加えてライクは、バラモンによって何千年も保持されてきた宗教もヤムナヤ由来で、ヨーロッパ文化の基層にはヒンドゥー(インド)的なものがあることを示唆している。

2. 中川隆[-13357] koaQ7Jey 2018年10月25日 18:21:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19531] 報告
2018年08月20日
アーリア人による侵略の歴史と現在〜混血で同化回路が失われる〜
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2018/08/7976.html


アーリア人とは、西洋人の祖先、広くはインド・ヨーロッパ語族の民族に共通する祖先と言われている古代の種族で、世界史の教科書では、インダス文明に侵略し滅ぼした民族と記されていることもしばしば。

アーリア人は超古代にエジプト→メソポタミア→インダス→中国と侵略を重ねそこで他民族と混血していった。それが、言葉の作り、文型が同じとなっている理由として指摘できる。インドヨーロッパ語族も中国語も、みな主語+動詞のSV、SVC、SVOで構成されている。それだけでなく、脳構造も同様になっている。

実は、古代のアーリア人により侵略との相似が、近現代にも起こっている。南北アメリカ大陸では西洋人あるいはスペイン人やポルトガル人が、アジア諸国のタイ・フィリピン・ハワイ・オーストラリアなどではイギリス人が、アーリア人という名前に代わっただけの侵略が繰り返されてきた。

そして今、日本でも同じことが繰り返されようとしている。移民(=観光客招致という触れ込み)で、あらたなるアーリア人による侵入が行われている。

以下、

井口和基氏のブログ
https://quasimoto2.exblog.jp/238706176/

より引用します。(文字の着色は引用者による)


(前略)かつて私がアメリカに留学した頃、仲の良い長身のアマゾネスのような金髪碧眼のアメリカ人女性がいたが、彼女から「あんたは(白人とは)目だけが違う」と言われたのであった。確かに目だけはチンギスハン型の腫れぼったい目というやつだった。モンゴル人の目。

ちなみに西洋人になぜモンゴル人が嫌われるようになったか?については諸説あるが、一番はチンギスハンによる蒙古襲来の記憶。そして、西洋人がキリスト教を信じるようになって、いわゆる「悪魔の目」をその東洋人型の目に描くようになったからである。

万物を見通す目=イルミナティーのシンボルマークは、古代エジプトのイシス神の目、それがホルスの目になり、最終的には悪魔主義者の目、イルミナティーのシンボルマークになったものであるが、もともとは古代エジプトの神々の目から来たわけだ。

ところが、古代エジプトでもアーリア人の侵入の3000年前以前の超古代エジプト人は人種がアジア系、というより、我が国で言えば縄文系に近い人種であった。だから、ルクソールの巨石、カルナック神殿の神々はみな日本人のような体型と顔形をしているわけである。

超古代ミステリー5:世界の謎の碑文は神代文字で読めるのだ!つまり日本語だった!

それがアーリア人の侵入支配の後にはいわゆる西洋人型のクレオパトラのようになった。

ちょうどアメリカ大陸が古代アメリカはアジア人型のネイティブインディアンやインディオが住んでいたが、そこにスペイン人のコルテスやピサロのような残忍な白人が侵入して支配した後では、現地人の顔形がすっかり変わってしまったというのと似ているのである。
同じことはヒマラヤの南、超古代インドでも起こった。西側からアーリア人がインドに侵入した。

これがインドにバラモン(=ブラフマン=金髪碧眼の人=アーリア人)が侵入した。いわゆるアーリア人の侵入という出来事である。3000年前のことである。

その結果、我が国の士農工商のように、カースト制度が生まれたのである。

とまあ、これはわざと士農工商とカースト制度を同列にする戦後の日本の自虐史観で書いたものだが、実際にはこれはまったく違うものであった。

我が国の士農工商はあくまで社会の職業上の区分であって、人種的なものではない。しかしインドのカーストは明確な人種差別のカーストであり、金髪碧眼種のバラモンことBrahman(ブラフマン)が一番上につき、その下にハーフ層。その下に土着人。そして一番下が最下層の貧困層というものである。

バラモン教というは単に当時のバラモン層が持ち込んだアーリア人の悪魔教(=拝火教)がベースになった。だから、悪魔教じゃだめだということで、バラモンからブッダが登場したのである。

中世近代になり、これと同じことが北中南米のインディオ支配で全く同じことが繰り返され、南米ではインドのカーストと同じことが今現在も残っているのである。アメリカもすでにそうなっているし、オーストラリアやニュージーランドは人種殺戮で原住民がまったく少なくなって絶滅危惧種になった。オーストラリア人となったアングロサクソン人が、現地人をハンチングで人間狩りを行ったからである。
ヒマラヤの北の中央アジアでもいわゆるトルコ経由、ウィグル経由で、アーリア人が侵入したのである。

これが「秦氏」の祖先であり、金髪碧眼種であった。秦の始皇帝の時代である。中国でも超古代中国と3000年前以降の古代中国とでは人種が全く違うのである。

ちょう古代中国では、日本で言う縄文系のアジア人が古代王朝、夏や殷(=商)を作っていた。殷(いん)は、沖繩や台湾と同相の文化を持つ。一言で言えば、超古代日本人の一派である。だから、その殷が最初にいわゆる「漢字」の祖先を生み出していた。つまり、「殷文字」である。

それが、周の時代にアーリア人の中国への侵入がはじまって、いわゆる「春秋戦国時代」になり、その後に、中国大陸はアーリア人に支配され、いわゆる「秦」(しん)が誕生し、後の「漢(かん)」へと変遷していく。

中国の歴史

ここに中国人化した(つまり、漢字を使う)アーリア人が誕生した。これが「あやひと=アーリア人」=「漢人」である。(「あやひと」については、ブログ1で検索)

KANOという台湾の野球映画があるが、その中で「漢人、萬人、日本人、漢人は力が強く、萬人は足が早い。日本人は守備に長けている」というセリフがあるが、漢人が力が強いというのは、これが原因なのである。

要するに、いわゆる中国人の代名詞である「漢人」というのは、白人種であるアーリア人を祖先に持つ混血アジア人のことである。

3000年前の中国の春秋戦国時代がなぜ起きたか?

これは、我が国において、なぜ戦国時代が起きたか?と非常によく似ているのである。

我が国でも戦国時代には西洋白人種が渡来してきて我が国を乗っ取りを計った。その中で、日本人同士で内部抗争させて有力な部族を殺し合いさせ、弱体化したところで、一気に外人が支配するという古典的手法が用いられた。そう考えるべきなのである。

これはすでに超古代エジプト、超古代インド、超古代中国、中世の南北アメリカ大陸、そして東南アジア、最終的に我が国日本まで続いてきたと見るべきなのである。

中国5000年の歴史というのは真っ赤な嘘で、中国には後半の3000年の歴史しかない。最初の2000年は縄文系のアジア人の時代であり、戦国時代以降の中国人とは体型も顔形も文化も歴史もまったく異なるのである。

中国人は足がすっとしている。

その理由はこれまで椅子とベッドの生活だからだというようなことがいわれたが、それは嘘で、実際には単にもともと西洋人型のコーカソイドの遺伝のせいなのである。だから、いまでも中国人の足には、西洋人同様に内股型やX脚が多いのである。

いまのアラブ人やエジプト人が、アラブ人化エジプト人化したアーリア人だとすれば、いまのインド人はインド人化したアーリア人であり、いまの中国人の漢人は中国人化アジア人化したアーリア人にすぎないのである。

だから、言葉の作り、文型が同じなのである。インドヨーロッパ語族。中国語。みな主語+動詞のSV、SVC、SVO。。。である。

言葉が同じなら、性格や特性もいっしょ。基本的に残虐である。

というわけで、この事実は公然の秘密になっている。

その後、近現代になって似たようなことが、南北アメリカ大陸ではアーリア人という名前ではなく、西洋人、あるいはスペイン、ポルトガルが、アジア諸国のタイ、フィリピン、ハワイ、オーストラリアなどでは、アーリア人という名前ではなく、西洋人、あるいはイギリス人という名前に変わって行われたにすぎないのである。

そしていままさに我が国で再び同じことが繰り返されそうとしている。観光客招致という触れ込みで、あらたなるアーリア人侵入が繰り返されるのである。

アーリア人は、3200〜3500年前に突如、中央アジアに登場したと言われており、出自が不明とされている。引用元では火星から来たエイリアンではないか、とも記されており、謎が多い。


(前略)歴史をよく紐解けば、約3000年ほど前、正確には3200年ほど前から3500年ほど前に突然中央アジア、ヒマラヤの北西部にアーリア人と呼ばれる人種が登場した。あるいは、もっと西の中近東のいわゆるシュメール文明の地にアーリア人が登場した。

アーリア人とシュメールの神話のニビルの神々とは非常によく似ているのである。Aryanアーリアンと英語のAlienエイリアン(=外人=異国人)とはほぼ同じ語源と見てよいだろう。なぜなら、古代ではrとlの区別やyとiの区別やbとVの区別はなかったからである。

Y遺伝子のハプロタイプ研究ではこのことははっきりでていて、A, B, C, D, E, F,…, O, P, Q, R,ときて、西洋人はRである。一方縄文系日本人がCおよびDである。チャイナ人やコリア人はOである。不思議なことに米インディアンはQである。つまり、フィンランドのラップ人=金髪碧眼のアジア人はおそらくPやQであり、その一派が北米に渡ったのだろう。

人類の「Y染色体」ハプログループ分布と「シッチンの人類創世説」に矛盾があるか?

ところで、一般の標準理論では、北南米のインディアンのルーツはアジアから渡ったと考えられているが、ハプロタイプを自然にみれば、北欧の原住民はラップ人のようなアジア系だったわけだから、古代の縄文系のアジア人が西へグリーンランド経由で渡ったと考えたほうが理にかなっている。場所が近いし、渡りやすい。遺伝子的にもすでにラップ人として北欧にPで住んでいて、それがQに変わったと見るほうが自然なのである。アジアはOだから、O→P→Qと行くには時間がかかる。
そんなわけで、やはりこの地球史を見る場合には、「アーリア人」というものを研究しないとまったく真実が見えないのである。それがわからないと、なぜヒトラーがあれほどまでに「アーリア人」にこだわったのかの理屈も理解不能なのである。

アーリア人とは何者か?
我が国では西洋人の祖先、金髪碧眼の先祖程度、あるいは、北欧バイキングの先祖、白人西洋人のご先祖さま程度にしか理解されていないのかもしれないが、それでは本当の地球の歴史は理解出来ない。また、いま我が国でリアルタイムに起きていることの意味が理解出来ないに違いない。

さらに興味深い考察として、混血によって脳構造も変わるという分析がなされてある。これにより日本人が持つ「情緒」=同化たらしめる共認原回路が失われるというのだ。


(前略)外人さんと混血すると脳が日本人脳ではなくなり、いわゆる最大の日本人の特徴である「情緒」が理解できなくなるのである。

なぜか?

これはまだほとんど研究されていないが、というのも、脳科学そのもののリーダーが西洋白人だから、理解不能だし、モティベーションが日本人とは別になるからなのだが、人間の特性は前頭葉ではなく、頭頂葉から後頭葉にあるのである。

前頭葉は物事の処理系であって、人間性の発露ではなかったのだ。

対談 小原實晃・横山賢二 第2部 「心の構造と大脳」

ところがいまだ西洋医学や西洋(=白人種)の生物学や脳科学では、前頭前野に人間性の発露があるという認識にすぎない。

しかし、前頭前野はいわゆる知性、知能、知的処理、こういう「知」に関する部分であって、これは自我、自己、自意識の発露の場にすぎない。

この意味では普通の動物にもある。

しかし、人としての共感とか、日本人がいう「情緒」というようなものは前頭前野や前頭葉には存在しない。

だ・か・ら

だから、西洋語には「情緒」という概念がない。存在しないのである。

日本語の「情緒」を英語に翻訳するとemotionになってしまう。しかし、emotionは情熱とか感情という意味になり、我々日本人が感じる「情緒」とはまったく異質のものになる。

感情=喜怒哀楽なら猿にも動物にもある。人間特有のものではない。

人間特有なものが「情緒」なのだが、それがアーリア人には存在しない。

3000年前から存在せず、いま現代も存在しない。

ということは、そういうことを認知する機能が存在しないということになるわけですナ。

つまり、彼らの脳にはそういう機能がないから認知できず、したがってそういう言葉も概念も生まれなかった。

とまあ、そういう結論になるわけだ。
この情緒は頭頂葉の作用なのである。この頭頂葉のもっともよく発達した人種民族が我々日本人である。

西洋人の頭蓋骨は上下がぺちゃんこだが前後に長い。前頭前野はよく発達しているから自己中になる。分析力は有る。また、後頭部も発達しているから、運動能力も高い。

しかし頭頂葉がまったく発達していないから、彼らには情緒が理解できない。だから、いわゆるスピリチュアルの人が生まれにくい。

それに対して、日本人の場合は頭頂葉が発達しているから、前頭葉があまり発達していなくて分析力は弱かったとしても、情緒を理解する。したがって、日本人は生まれながらのスピリチュアルの人が非常に多い。

その差が現在において同じ高度先進国でありながら、社会の雰囲気がここまで違ってきた理由なのである。

(中略)

虫の泣き声など少しも気にせず、虫を残酷に潰して殺す。そんな白人の子供はハワイにはわんさかいる。そういう人間になるわけである。

まあ、それから教育を受けて、徐々にまともな人間に変わる場合があるが、基本はいっしょである。ユダヤであろうが、クリスチャンであろうが、イスラムであろうが、ヒンドゥーであろうが、仏教であろうが、その点はまったく同じである。

日本人はつねに最初は相手の気持ちに立って考えようとするが、白人脳はそういうことはありえない。四六時中自分が主である。(後略)

以前のエントリーでも触れているが、上記引用を含めて考えると、移民→混血による日本の弱体化とは、脳構造つまり意識構造をも変えてくということ。本源の人類が持っていた共認機能の基底部にある同化回路が失われることを意味する。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2018/08/7976.html

3. 中川隆[-13356] koaQ7Jey 2018年10月25日 18:24:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19531] 報告
インドへのアーリア人侵入説

「アーリア人侵入説」は、言語学の分野から持ち上がってきたものだ。

「インド・ヨーロッパ語族」という分類から、北インドのヒンズー支配層は、BC3000〜8000年に、欧州・中東・小アジア・コーカサスから移動してきた西ヨーロッパ人ではないか、と推理されるようになった。

つまり「白人、金髪、青い目」の侵略者たちが、先住民のドラヴィダ語族の民族を南に押しやり、北インドではカーストの支配者となったのではないか、という話なのだ。


アメリカのユタ大学とインド南部のアンドラプラデシュ大学による共同研究

インドのカースト別のDNA分析から、侵攻したのは「コーカソイドの男子」であり、先住民の下層階級の女子と混血してきたことが証明された。


インドのカースト制度は、「4階層+不可触民」で、実質5階層になっている。

1930年にイギリスがとった人口統計によれば、


1)バラモン(僧侶)・・・・5%
2)クシャトリア(武士)・・・・7%
3)ヴァイシャ(商人)・・・・3%
4)シュードラ(農民工民)・・・・60%
5)アンタッチャブル(穢多非人)・・・・15%

という比率で、これにイスラム教、シーク教、キリスト教、ゾロアスター教などの「異教徒10%」をたすと、100%になる。

1930年以来、1度も統計調査がないというも驚きだが、不可触民(穢多非人)の「15%」という比率は、実際はもっと高いと言われている。

DNA分析の共同研究では、

上層カースト(バラモン+クシャトリア+ヴァイシャ)、
中層カースト(シュードラ)、
下層カースト(アンタッチャブル)

に分類し、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人のDNAと比較している。

表内の数字は、小さいほど関係性の距離が短い(先祖の共通性が高い)ことを示す。
http://jorde-lab.genetics.utah.edu/elibrary/Bamshad_2001a.pdf


■Y染色体のSTR分析

  アフリカ人  アジア人   ヨーロッパ人
上層カースト 0.0166 0.0104 0.0092
中層カースト 0.0156 0.0110 0.0108
低層カースト 0.0131 0.0088 0.0108


日本の皇位継承問題でもおなじみの「Y染色体」だが、これは男系の遺伝を示す。
インド人の「男系遺伝子」は、ヨーロッパ人とアジア人と同じぐらいの距離にある。

カースト別でいうと、上層カーストとヨーロッパ人の関係がもっとも近い。

低層カーストはアジア人にもっとも近い。


■ミトコンドリア染色体のHVR1分析

  アフリカ人  アジア人   ヨーロッパ人
上層カースト 0.0179 0.0037 0.0100
中層カースト 0.0182 0.0025 0.0086
低層カースト 0.0163 0.0023 0.0113


ミトコンドリアのDNAは、母親のものだけが子供に伝わり、父親のものは次世代にはまったく関与しない「母系遺伝」になっているので、母系分析に使われる。

この分析によると、インド人の「先祖の女性」は、歴然とした数値をもって、アジア人に近い。
低層カーストがもっとも近く、上層になるにつれて距離が離れていく。


以上の研究から、インド人の母系と父系に明らかな「系統」が生じており、

1)「アーリア人の男性」が「ワンランク下の先住女性」と混血を繰り返した、
2)「低いカーストの男性」が「高いカーストの女性」と結婚するケースはほとんどなかった、

という結論になる。
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1354332

4. 中川隆[-13355] koaQ7Jey 2018年10月25日 18:36:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19531] 報告

日本人のガラパゴス的民族性の起源
Y-DNAによるヨーロッパ民族度の復習 rev.2
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-1.htm

  巨大書店のジュンク堂で世界史地図帳を購入しました。 目を通していて、インド・ヨーロッパ語族の移動のところでアーリヤ人が印欧語族の故地の中西部ユーラシア(黒海/カスピ海/アラル海の 北側に拡がる広大な地域)から、移動を開始したことが書かれており昔習ったゲルマン民族の移動をおもいだしました。

  ある集団(Y-DNA「R1b」)は西進しヨーロッパに侵入し先住のクロマニヨン人の子孫(Y-DNA「I 」)と遭遇し、 交配を嫌い独自文化を保とうとしたのがケルト民族になってゆき、 交配を強めたのがゲルマン民族の前身になっていったようです。ドイツ人やオランダ人のY-DNA「I 」頻度は意外に高いのです。 やはり異なる遺伝子と交配することで民族エネルギーが上がり、 純度を保とうとすると同質性が高まり民族エネルギーが下がる、という民族学の知識はここでも生きているようです。

  方や南下しイラン高原からインド北部に侵入した集団(Y-DNA「R1a」)は、インド・アーリヤ人として 先住のインダス文明人のドラヴィダ人(Y-DNA「L」)を追い出し インド亜大陸南部に押し込め、現代インド人の肌の黒褐色はかなり密接に交配したドラヴィダ人から受け継いだものです。

  その時にY-DNA「R1a」は故地に留まるかやや北に移動した集団がいたことです。それがスラブ系の集団になったのです。 つまりY-DNA「R1a」はヨーロッパでは間違いなくスラブ民族遺伝子なのですが、実はインド・アーリア人遺伝子でもあったのです。 スラブ民族とインドアリーヤ人は同根なのです。 つまり交配した相手の違いで今我々が知っているくらい違う外観に変貌したのです。 ロシアのプーチンはY-DNA「N」系のような感じですがメドベージェフは「R1a」のような気がします。公開してほしいですね。

  世界史地図帳は世界の動きを改めて思い出させてくれました。寒冷化時代のユーラシア大陸と地続きだった日本半島も 温暖化し海面上昇後の諸島となった日本列島も世界の動きと絡めて見ないと、Y-DNA「D2」が何故日本列島にいるのか、 何故北海道では世界で最も高頻度なのか?Y-DNA「O2b」は日本列島で何故「O2b1」に進化したのか?何故南琉球に最高頻度で分布しているのか? 「C1」は何故本州の最北端に多いのか?何故「C3」は九州に多いのか?北海道の「C3」は本州の「C3」と何故出自が違うのか?.....。 などグローバルな視点で見ないといけないと改めて考えさせてくれました。そのうち日本史地図帳も改めて勉強するつもりです。

Rev.2

  ヨーロッパ情報にも関わらず意外にアクセスが多いので、EupediaのY-DNA情報を転記しより理解しやすいようにすることにしました。 最もアクセスの多いY-DNA「J」とY-DNA「R1a」から始めますのでご参考に!

  下図はEupediaに掲載されているヨーロッパの最大の亜型Y-DNA「R1a」と「R1b」がヨーロッパに辿りつくまでの大移動の予想図です。 彼らはヨーロッパ大陸の最古の住人であるクロマニヨン人の子孫のY-DNA「I」と交配しながら、東ヨーロッパで展開したのがスラブ民族の 母体になり、中央ヨーロッパに進出したのがゲルマン民族の母体になったようです。

  Y-DNA「R1a」の発祥の地はまだ正確にはわかっていないようですが、最も有望な起源地は中央アジアあるいはロシア/シベリアの 南部だそうです。 右下に伸びる矢印がアーリヤ人のインド侵入になります。先住のインダス文明を興したと考えられているY-DNA「L」が母体のドラヴィダ民族を インド南部に押し込めてインド亜大陸を乗っ取ったわけです。


  Y-DNA「R1b」の発祥の地は中央アジア南部からイラン北部の辺りだそうです。下図はいわゆるゲルマン民族の大移動を含んでいるようです。


  ヨーロッパ各地の優勢なY-DNAハプロタイプの地図です。右端中央のカスピ海北部辺にY-DNA「C3c」の地域があることが興味を引きます。 モンゴル帝国のキプチャク汗国等のモンゴル人の末裔の足跡です。


  このEupediaの記事を読んでいると遺伝子のモザイク地域であるヨーロッパ・西ユーラシアの いわゆる白人達はいかに自分たちのルーツにこだわるかが、良くわかります。 ところが大和朝廷族や武士族などの侵略者遺伝子Y-DNA「O3」が学会を牛耳る日本は欧州に負けないくらいの種類のY-DNAやmtDNA亜型を持つ にもかかわらず、日本民族をひとくくりにし特に縄文の日本人の血統や精神文化に対する基盤・貢献を表に出さないように御用学者達を 使い無視してきています。

  日本人の持つ3.11で示されるような他人を出し抜かない、略奪をしない、和を重んじ耐える気質・行動様式は、 Y-DNA「D2」,「C1a」,「C3a」が持つ縄文系の精神文化の表れです。 その上に、メソポタミアと同時期に農耕革命を興したY-DNA「O2」,「O1」の水田稲作農耕民の進取の気質が合わさり縄文−弥生複合民族・文化 となり黙々と技術革新に取り組む日本人の基盤を構成しているのです。

  そして朝鮮半島での生存競争に敗れ武装侵略者として日本列島に逃げ込み、先住民の縄文−弥生集団を蹴散らし日本列島を乗っ取ったのが Y-DNA「O3」で、その好戦性が和を重んじるはずの日本人に極端な残虐性・出し抜き好きなこすい気質を持つ2面性を与えたのです。

  そして日本列島をこれまで長い間支配し、これからも支配してゆくだろうY-DNA「O3」上流階級・支配層つまりエスタブリッシュメント層は 自分たちの支配の正当性を保つために学会や論文を支配し、日本列島を侵略した過程がわかり万世一系を否定する遺伝子の移動の解明は決して 行わないでしょう。行ったとしても発表しないか歪曲するかでしょうね。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-1.htm

5. 2018年11月13日 08:39:52 : wL0F29MjCs : J0veVU7oJnQ[8] 報告
中川クン、阿修羅掲示板の趣旨をふみにじる投稿は辞めたまえ。

阿修羅掲示板のトップに記された「いつ・どこで・誰が語っているのか」の

基本理念に反するアラシばかりしてるじゃないか!!

特にキミのいう遺伝子解析とやらをした連中の「各個人の実名写真入り公開・

研究所のある具体的場所・解析実験の日時」など一切公表されて

いないではないか!!キミのしてることは「新聞に載ってたから

無記名記事であっても盲信しろ」との情報弱者そのものではないか!!

6. 2018年11月14日 02:48:16 : wL0F29MjCs : J0veVU7oJnQ[9] 報告
さきほど、「アーリア人の侵入はなかった」で

ネット検索致しまして出た最新情報と致しましては

「超古代サラスヴァティー文明」の無料翻訳購読可能な

前半部分が出てまいりました。この著作の中に記されております

個人名詞も頑張って他のサイトを出せば「実名+写真入り」で出ます。

また「宮本神酒男」で検索すると、近現代インドの哲学史の

詳細が述べられておりますので、左翼系不可知論者で粋がっておる

中川隆氏よりも遥かに正確性があります。また中川隆氏を

庇い建てするワケではありませんが絶対に「安倍信者」ではありません。

「二つの海の交わり」で検索すると、安倍総理はインド被れ四天王の

一人でありますから、歴史認識の点で安倍信者に近いといえるのは

「宮本神酒男」氏のブログ内容なのであります。

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