グローバリズムは「企業」の論理で、ユダヤ人や共産主義とは何の関係も無い _ 3 アメリカの富裕層が仕掛けているのは、自分たちが100戦無敗になる方法 100戦無敗になるにはどうしたらいいのか。簡単だ。徹底的に弱い相手と戦うことだ。たとえば、大人は3歳児と戦ったら必ず勝つ。
大人が常に3歳児と戦い続ければ、常に勝ち続けることができる。それは勝負ではなく、リンチになるはずだ。大人はその気になれば、殴り殺すことさえ可能だろう。 だから、スポーツはこういった「大人vs子供」のような、最初から勝負が分かりきっているような組み合わせを禁止する。惨劇を避けるためだ。 それを不服として、大人が「自由に勝負させろ」と叫んでいたら、どうかしていると思われるはずだ。 しかし、それはスポーツの世界だからどうかしていると思われるだけで、実社会ではそのあり得ない競争が行われる世界なのである。 100万円の資産しかない人間が、100億円の資産を持つ企業と無理やり競争させられるのが資本主義の掟である。巨大な者が「もっと自由を」という時は、「弱者を叩きつぶす自由をくれ」という意味なのである。 落ちこぼれた人間には金すらも出したくない政府
「どんどん競争させろ。競争のルールは必要最小限にしろ。弱い者がどうなったところで知ったことではない」 これが資本主義を拡大解釈した「市場原理主義」の正体である。日本は2000年に入ってから、この弱肉強食の市場原理主義が小泉政権下で組み入れられた。 事実上の実行者は、当時、経済財政政策担当大臣と金融担当大臣を兼任していた竹中平蔵だった。 この男によって社会経験の浅い若年層は非正規労働者に追い込まれ、どんどん生活が不安定化しくことになる。 こういった格差が生まれるのは当然だと竹中平蔵は言っている。さらに、「日本はまだまだ格差が少ない社会だ」との認識も示している。 つまり、もっと激しい競争社会して、それによって弱者がもっと増えても別に構わないというスタンスである。さらにこの男は2016年に入ってからトリクルダウンも否定している。 トリクルダウンというのは「資産家や大企業を先に豊かにすると、富が国民全体にトリクルダウン(滴り落ちて)、経済が成長する」というものだ。 ケ小平の唱えた「先富論」に似ているものだが、竹中平蔵はそのトリクルダウンもないと言った。強い者はどんどん富むが、その富は弱者に回らない弱肉強食の社会を日本に取り入れたのがこの男である。 竹中平蔵は派遣会社の会長なのだが、派遣会社というのは労働者の稼ぎをピンハネする事業をしている。ピンハネして、要らなくなったら捨てる。 その結果、労働者が弱者になったとしても「それは、その人の自己責任だ」と言うのが竹中平蔵の理論なのである。 弱者など、どうでもいい。落ちこぼれた人間には金すらも出したくない。だから、この男が小泉政権下でしたのは、社会保障支出の大幅な削減だった。 その結果、高齢者も、障害者も、シングルマザーもみんな追い込まれて、生活保護受給者は大幅に増えることになった。 努力しても這い上がれない社会が来ている
弱肉強食の市場原理主義を取り入れればそうなることは、はじめから分かっていた。なぜなら、強欲な資本主義の総本山だったアメリカがそうなったからだ。 アメリカではレーガン政権がこの市場原理主義を推し進めた結果、1%の富裕層と99%の低賃金層という超格差社会を生み出して、今でもその格差の分離は広がっている。 アメリカでは、強者と弱者が明確に分離しており、その格差は極限にまで近づこうとしている。富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しくなっている。 中流階級は激減し、2010年には貧困者が4620万人に達した。7人に1人は貧困層だ。さらに、予備軍まで入れると、3人に1人は生活に追われている状況になっている。 問題なのは、この格差が固定化しつつあるということだ。アメリカン・ドリームはすでに消失している。努力しても這い上がれない社会がやってきているのである。 当然だ。競争を開始する時点での条件に大きな格差がついている。スタートラインが富裕層と貧困層とではまったく違う。正当な競争になっていないのである。 貧困層は満足な給料がもらえない職業を転々とするしかなく、結局、働いても働いても豊かになれないワーキングプアが常態化してしまう。 貧困が固定化するのは、次の5つの要因がある。 (1)生活に追われ、疲れて何も考えられなくなる。 (2)低賃金で自分も子供も教育が受けられなくなる。 (3)金を含め、あらゆるものが不足してしまう。 (4)這い上がれない環境から自暴自棄になっていく。 (5)社会的影響力がなく、権利は保障されない。 いったん貧困に堕ちると、この5つの要因が同時並行で始まっていき、その中で押しつぶされてしまう。 これは、アメリカだけの問題ではなく、今や日本の底辺の問題でもある。すでに、日本の底辺もこの5つの要因にがんじがらめにされて、這い上がるのが絶望的に難しい社会になっているのである。 アメリカでは、強者と弱者が明確に分離しており、その格差は極限にまで近づこうとしている。富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しくなっている。
貧困層は、相変わらず見捨てられていた
格差が固定化されるというのは、富裕層と貧困層の超えられない一線ができるということである。人々は分離し、この両者は次第に違う文化を生きることになる。 暮らす場所も、食べる物も、通う学校も、遊ぶ場所も、付き合う人も、すべて違っていく。そして、この両者は互いに相手に無関心になり、話す言葉すらも違っていくようになる。 日本もそうなる危険性が高い。格差は固定化して、堕ちてしまった人は、社会から見捨てられて生きるようになっていく。 2014年3月。私は10年ぶりにインドのコルカタに向かって、インドの貧困地区がどうなっているのかを確認しに行った。 その結果、どうだったのか。書籍『絶対貧困の光景』で書いたのだが、かつての貧困層はインドの経済発展からものの見事に取り残されていた。 コルカタは、確かに一部は経済発展していた。 ところが、貧困層はまったく経済発展の恩恵に浴していなかったのだ。彼らは社会から無視され、相変わらず社会から見捨てられていた。 10年前、貧困の中で生きていた女性たちは今もまだまったく同じ状態で放置されていた。彼女たちは路上で暮らし、路上で物乞いをし、スラムは相変わらずスラムのままだった。 先進国と変わらないマンション、ショッピングモールができていて、富裕層がベンツを乗り回しているその横で、10年前に貧困層だった人たちは、まだ路上を這い回って生きていた。 (堕ちたら、這い上がれないのだ……) 竹中平蔵が言った通り、「トリクルダウン」など、影も形もなかった。貧困層に富はこぼれ落ちていなかった。完全に置いてけぼりだ。 そういった状況は私もよく知っていたはずだった。しかし、実際にそんな現状を目の前に突きつけられた時に感じたショックは、決して小さなものではなかった。 格差が固定化され、弱者が見捨てられ、貧困層が大量に増え続ける社会がどんなに悲惨な社会なのか、日本人はもっと真剣に考えるべきだ。 日本はそんな道を辿ろうとしているのである。 スラムの子供たち。富める者は富み、貧しい者は奪われるのであれば、この少年と幼い妹には未来はない。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160118T0438270900.html
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大学崩壊? 授業料高騰と人文系学問の消滅…すでにアメリカが迎えている危機とは 2018.12.5 https://dot.asahi.com/dot/2018120400028.html?page=1 連日多くの観光客が訪れるハーバード大学の授業料は年間600万円近くにも上る (c)朝日新聞社
アメリカではすでに問題となっている、大学の授業料高騰。日本の大学も危機的状況にあると、現役のアメリカ大学教授であり、竹内洋・関西大学名誉教授との共著『アメリカの大学の裏側』(朝日新書)を出版したアキ・ロバーツさんは警鐘を鳴らす。授業料値上げが引き起こす問題とは? ロバーツさんにご寄稿いただいた。
* * * 先日、日本のテレビ局の取材スタッフがアメリカに住む私のところにやってきた。12月5日放送の『緊急! 池上彰と考えるニュース総決算! 2018ニッポンが“危ない”』(TBS系)で日本の未来にかかわる危機的状況をいくつか取り上げるようで、高等教育がそのひとつだという。 特に大学の授業料の値上げが近い将来起こることが懸念されているという。日本の大学のモデルとなってきたアメリカの大学での授業料の高騰とその弊害について質問を受けた。昨年刊行した拙著『アメリカの大学の裏側』でアメリカの大学の影の部分にフォーカスしたからか、他の問題点についても聞かれた。 日本では大学の授業料の高騰はまだ未来の心配かもしれないが、アメリカではすでに起こっている現実問題だ。アメリカの大学の授業料は数十年かけて上がり続け、四年制私立大学の平均年間授業料は3万ドル(約340万円)以上にもなってしまった。これは日本の四年制私立の約4倍にもなる。ハーバードなどの有名私立では、年間600万円近くになるところもある。日本の国立や公立大学にあたる州立大学でも有名大学は授業料が高い傾向にある。例えば、カリフォルニア大学バークレー校の州外学生の年間授業料は400万円以上だ。 授業料の値上げはさらなる問題を引き起こしている。一番深刻なのは「教育の市場化」である。大学は学生を高額の支払いをしてくれる「お客様」と扱いだし、彼らを満足させることに必死になっている。例えば良い成績の大判振る舞いである。アメリカの成績はA、B、C、D、F(Fは不合格)と上から五段階だが、四年制の大学では半分近くの成績がAであり、授業料の高い大学ほど成績インフレはひどい。 学生募集のために大学は教育とまったく関係のないアメニティーの強化を競い合うようにもなった。1980年以降に生まれたミレニアルズと呼ばれる若い世代は物質的な豊かさに慣れているので、設備の豪華さや快適さを大学選びの基準にしがちだからである。流れるプールつきのスポーツセンターを何十億円もかけて建てる大学もあるし、スキーリゾートが大学内にあるところもある。大学の寮や食堂というと質素なイメージだろうが、アメリカの大学では高級ホテルのようなところが多い。コンシェルジュを備える大学もある。 大学スポーツ観戦が人気のアメリカでは、スポーツの強豪大学であるというのも大学選びの決め手になる。そのため大学はスポーツの強化にも莫大な資金をつぎ込むようにもなった。このような試みは授業料のさらなる値上げにつながり、結果的に学生にしわ寄せがいく。アメリカの学生ローンは年々増え続けていてついに100兆円を超えてしまった。70パーセント以上の大学生が負債を抱えて卒業するというのが現実である。 日本でも取り上げられる人文系学問の消滅の危機も、アメリカの大学ではもうすでに深刻化している。これも授業料高騰の弊害のひとつといっていいだろう。卒業後のローンの支払いのために、学生は幅広い教養をつけることより、就職に直結する知識やスキルを学ぶことを要求する。近年ではアメリカの大学の専攻の半分以上が特定の職業につくための実用的な分野で、卒業後の職業が明確にできない伝統的なリベラルアーツの専攻をする学生は年々減っている。 この他にも入試の点数だけでなく人物の全体像を審査するホリスティック入試の不公正さ、非常勤講師の多量採用など色々な問題が山積みとなっている。学生を惹きつける「売り」のない大学は、新入生が定員に満たず閉校するというケースも増えている。 日本の大学でも少子化が進むにつれ授業料の値上げや学生争奪戦、それにともなう学生消費者主義の深刻化は避けられないだろう。日本の大学が近い将来直面するであろう「危機」は、日本の大学がモデルとしてきたアメリカの大学の現状を見るとよくわかるのではないか。しかしアメリカの大学の抱えている問題のほとんどが解決の糸口さえ見えていない。日本の大学は何をお手本として高等教育の危機を回避したらいいのだろうか。 ▲△▽▼ 2018年12月26日 アメリカの子育て費用 高校まで2600万円、大学で2倍
アメリカで「中間層」より下だとまともな子育ては難しい アメリカの子育て費用の高さ
日本は子育てに費用が掛かり国は無理解だとされ、比較対象として欧米先進国が理想的に語られることが多い。 先進国の中もアメリカはそうでもないという話があり、2015に誕生した子供が17歳になるまでに2600万円かかる。 この数字は”2012年に生まれた子供”の時は2300万円だったので、3年で300万円増えている。(1ドル110円程度として) 米農務省が2017年に発表した数字は前年より3%増加し、中間所得者層で約23万ドルが必要と書かれている。 米国では中間層の水準がかなり高く総額5万9200から10万7400ドル、日本円で年収650万円から1200万円になる。 実態とかけ離れている気もするが、年収600万円以下の世帯はアメリカでは貧困者扱いになっている。 年収600万円以下の”低所得者”世帯でも子育て費用はあまり安くならず、17歳までに17万ドル以上(約1900万円)もかかる
これは高校までの費用だが、かなり良い大学に通わせるなら17歳までと同額程度の費用がかかる。 日本では大学まで私立だと総額2600万円、ずっと公立だと1300万円ほどとされるがこれは教育費のみです。 アメリカの計算では住居費、食費、交通費、洋服費、医療費まですべて合計している。
純粋な育児教育費だけだと1割か2割にすぎず、半分以上は住居・食費・洋服でかかっている。 日本も育児教育費の他に子供のための住居や食費、洋服代や医療費などで2倍は支出している筈です。 日本の子育て費用も安くない
するとアメリカでは大学卒業まで5000万円以上、日本はずっと私立だとやはり5000万円、ずっと公立で倹約生活なら3000万円程度でしょう。 日本で有名医学部に通って医師になるには4年間で2000万円程度かかり、どのレベルの教育を受けさせるかで大きく違う。 日本で大学に進学せず高卒で働けば2000万円程度ですみ、18年間で割ると年間110万円前後になります。 アメリカでは子供でもアルバイトでお金を稼ぐのが普通だが、日本は大学でも費用をすべて親に払ってもらう人が多い。
しかもアメリカでは大学費用は奨学金(という名の高利貸し)で自分で支払うが、日本では親が払っている。 このように考えると特に日本では、大学進学に伴う親の負担が大きい。 アメリカで「低所得者」として切り捨てられる年収600万円以下世帯では、大学進学は困難だろうと思われます。
それどころかニューヨークの小学生の1割がホームレスで、充分な食事がなく支援を受けている子供が多い。 ちなみにアメリカでは親戚に預けられたり施設に保護されていてもホームレスで、日本とは基準が違う。 アメリカでは高校まで義務教育で、公立だと授業料が無料で自宅学習でも卒業できる。
従って高校までの進学率は高く大学への進学率も高いのだが、低所得者や貧困層は相当ひどいことになっている。 結局アメリカでは年収600万円以下は貧困者とされ、統計すら取って貰えないのです。 http://www.thutmosev.com/archives/78535267.html ▲△▽▼ ▲△▽▼
アメリカ人の優位性は自国語が国際語になっているという事だけ:
ヨーロッパ連合(EU)では、医師免許をはじめとする諸種の国家資格が共有化されようとしている。そこでは英語が共通言語だ。この国家の壁を乗り越えたヨーロッパの歴史的で壮大な試みを無視してよかろうはずがない。医学生に限らず、わが国の大学生は皆、日本語の教科書だけで学問ができる。その例外性に多くの人は気づいていない。
日本以外の国では、英語(最低、ヨーロッパ系言語)ができなければよい教科書が読めないし、医者にも看護師にも臨床検査技師にもなれない。日本語は漢字のおかげで、外来語を簡単に母国語化するすばらしい能力を有していることを再確認したい。タイ語やスワヒリ語では医学用語の大部分が表現できない。韓国でも、医学生は英語でばかり勉強して、ちっともハングルで勉強してくれないと多くの教員が嘆いている。 EUでは医師免許をはじめとして、いろいろな国家資格が英語で統一されようとしている。最近になってフランス文化やドイツ文化の最先端科学部門における劣勢がはっきりしてきて、ドイツ人もフランス人もその他のヨーロッパ人は最先端科学部門は英語が出来ないと母国語では無理らしい。 同じアルファベットを使い、ラテン語からの派生語や、大きな影響を受けた同じ文化圏の言葉だから、専門用語はいちいち翻訳するよりも英語をそのまま使ったほうが手っ取り早いのでしょう。もはやフランス語やドイツ語はローカル言語であり、英語でないと最先端科学分野の学問は出来なくなっている。だからドイツ人やフランス人のお医者さんは英語が堪能なのは国家資格が英語で行われるからだろう。 アジア、アフリカ、中南米諸国の医学生は英語ができなくては最先端医療が学ぶことが出来ないし、多くの留学生を欧米に送り込んで学ばせている。タイ語やスワヒリ語では専門用語が翻訳できないからだ。2010年9月7日の株式日記ではスウェーデンの化学や文化の事を書きましたが、スウェーデン語と英語の二重言語生活を強いられる結果をもたらしている。他のヨーロッパ諸国も大なり小なり同じだろう。英語を学ばなければ最先端科学について行けない。 中国や韓国が大量の留学生をアメリカに送り込んでいるのも同じ理由によるものだろう。まさに英語帝国主義の大勝利であり、英語がグローバルスタンダード言語となり、非英語国では二重言語生活を余儀なくされている。その反面では英米人は外国語を学ぶ必要が無く、その時間を科学分野の研究に割り当てることが出来る。英語で国家試験が行われるようになると言うことは、それだけ非英語国民は負担を強いられることになる。 スウェーデンにおいても、スウェーデン語で書かれた文章と、英語で書かれた文章を読ませて、理解力を比べてみたら25%も英語で読んだグループは劣っていた。 つまり国際競争力においてもアメリカイギリスといった英語を母国語とする国民が圧倒的に有利になり、スウェーデンなどのヨーロッパの小国は言葉も文化もやがては失われていくのだろう。アイルランドもかつてはアイルランド語を話していましたが、今では英語が国語となりアイルランド語は文化財として残っている程度だ。 IT用語や金融用語や医学用語などは英語が共通語となり、日本も例外ではない。かつては武力が帝国の力の象徴になっていましたが、現代では言語が帝国の象徴となり、非英語国では二重言語生活を余儀なくされて、25%ものハンデを背負っているようなものだ。 http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu232.html アメリカの大学院入学はGREという共通一時みたいなのが、ほとんどの大学入学基準として使われてるが、英語と数学と英作文からなる。
で、アジア人は数学で満点近くを皆とるが、英語試験が恐ろしく難解なボキャブラリーの現地人しかできないしろもので、落ちる外国人が多い。 もし、数学だけだったら、アイビーリーグや名門はほとんどアジア人留学生だけになってしまうだろうね。 で、英語帝国の興隆とともに、経済学はもとより科学の発展も止まってしまったんじゃないか?だいたい発明のような直感は自国語でしか出てこないだろ? アメリカの戦後の発明なんて何がある?ロケットなんてv2そのものだし、ジェット機もコンピューターもヨーロッパ人が発明した。もう、0にちかい。 ようするにアメリカは英語を武器に戦後の科学覇権(社会科学の含む)を維持してきたんだ。 まあ、本当の天才を育てたいんだったら、英語を勉強させたとしても教育は自国語ですべきだ。 http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/471.html しかも、アメリカ人は一部のエリート以外は英語で書かれた文章すら読めないアホばかり:
なぜ外国映画はアメリカで字幕上映されない?
世界中ほとんどの国で、外国映画は吹き替え上映が普通。
日本みたいに字幕上映が多い国が例外。 1 :名無しより愛をこめて [sage]:2009/07/12(日) 13:22:19 ID:J3Qe6wQy
アメリカで公開される外国の映画は殆どが英語吹き替えで上映されたり、 映画の舞台が非英語圏でも堂々と登場人物が英語を喋ったりで、日本で言う 字幕厨なんていう奴は全くいなく、吹替厨だらけ。 なんでアメリカ人は外国映画を英語字幕で見ようとしないんだろ? 3 :名無シネマさん[sage]:2009/07/12(日) 14:18:47 ID:CKJtk7i/
英語は綴りを読まなくちゃならないからな 漢字は一文字の情報量が多いから流し読みしても意味が汲み取りやすい 日本語字幕が全部ひらがなで書かれてる位の読み難さじゃないかな>英語字幕 7 :名無シネマさん[sage]:2009/07/13(月) 14:18:50 ID:Y0rfQyei >>3 何度か、英語字幕付きの日本映画を見たけど登場人物が難しいことを言いだすと、長い単語が画面にズラズラと流れてこれは無理だと思ったよ。
8 :名無シネマさん[sage]:2009/07/19(日) 20:34:54 ID:ShU9guzs
ドイツに半年いたことがあったけど、 映画館は約8割はハリウッド映画を吹き替え上映してたよ。 1日一本週4日、メジャーな映画(天使と悪魔、グラントリノ、ターミネーター等)の英語のオリジナル(字幕なし)上映があってたけど。 >>4が最初のほうでいってるように、 吹き替え上映はアメリカに限らず、けっこういろんな国で多数派なのでは? 10 :名無シネマさん[sage]:2009/07/28(火) 18:02:21 ID:W/Jd8xzS
吹替えって結構徹底してるみたいです。 しかし一度「John Rabe」というドイツ映画を見に行ったことがあるんだけど、 これがドイツ映画でドイツ語が主言語のくせにせりふがすべて吹替え! なぜかというと、この映画はシンドラーのリストドイツ版? 日本軍の南京大虐殺から中国人を救ったドイツ人ビジネスマンの話。 なので、せりふもドイツ語のほか、英語、フランス語、中国語、日本語といくつかある。(IMDbで確認した) 日本人の将校役の俳優さんたちは日本語だな!と期待したらだめだった。 明らかにドイツ語でしゃべってる部分まで調整のため?かふきかえられてんだもん。 まじで徹底した吹替えっぷり。 これはドイツでの一例なので、ほかの国でどうなのかは未体験だが・・・ 外国いって字幕で外国映画を見ようなんて、アメリカに限らずどこの国いっても期待しないほうがいいぞ。 そしてその結果、アメリカ人の知性はこの有様:
「アメリカでは大人の4人に1人が自分の名前程度しか読み書きできない」。新聞や雑誌で、こんな統計に出くわしてハッとする。
ただそれは、ぼくが4人に1人という数に驚くからではなく、 「やっぱりそうか、アメリカの非識字率ってそんなとこだったんだよな・・・・・」 と改めて意識させられ、でもショックは受けず、危機感もイマイチわかず、 「ま、別段新しい数字でもないし・・・・・」 と片付けそうになる、とそこで気がつく。そしてハッとするのだ。慣れっこになってはならない、深刻な問題なのだ。 しかしまったく、ぼくの母国はどこを見ても、危機的な統計がゴロゴロしている。 ――国民健康保険の制度はなく、アメリカ人のおよそ6人に1人が無保険状態で、事実上、医療が受けられない。
――ブッシュ政権が1期目で実施した大型減税は、総額の半分以上が超富裕層のトップの1パーセントの懐に入った。
――米国人は世界人口の5%にも満たないが、世界の石油消費量の4分の1以上を、一国だけで燃やしている。
――マリア様がセックス抜きに、処女のまま妊娠してキリスト様を産んだという「処女懐胎」を、アメリカの成人の8割が信じている。
25%の非識字率と、その他もろもろのトンデモ統計と、当然みんな地続きのものだ。字がうまく読めないと、テレビが主な情報源になってしまい、テレビ報道は、「処女懐胎」と同じくらい現実から掛け離れていることが多々ある。
では、もし一生懸命ABCを勉強し、どうにかディクショナリーと首っぴきで新聞が読めるようになったとして、それで確かな情報にありつけるかというと、そうはメディア屋が卸さない。 例えば、二年前の古新聞を見てみると、『ニューヨーク・タイムズ』を始めアメリカの全国紙も地方紙も、妄想とイリュージョンの記事で埋め尽くされている。「死との隠れん坊・なおくすぶるイラクの核兵器の謎」「細菌博士・世界一の殺傷力を持つ女」―― 2002年の暮れは、イラクが隠し持っているに違いない生物兵器と化学兵器と核兵器と弾道ミサイルの脅威の話題で100%持ち切りだった。 http://www.web-nihongo.com/back_no/column_01b/041221/index1.html _____
日本の成功の秘密は日本語にあるのですが、欧米人にも、そしてなぜか当の日本人にもそれがわからないのですね:
日本語は、マスターをするのが難しい言語かもしれない。しかし一旦マスターすれば、これほど便利な言語はないと考える。これは筆者の偏見かもしれないが、日本語は世界の中で一番進化した言語であり、優れた言語と思っている。
表意文字である漢字は、文字自体に意味を持つので、言葉を速く理解することができるという利点がある。特に漢字はパターンで認識するので、文字とイメージが結びきやすい。「犬」という文字を見ると、犬のイメージが頭に直ぐ浮かぶ。「京都」という言葉に当ると、京都という文字から京都に関するイメージが自然と頭に浮かぶ。 高速道路の標識も、漢字だから速く、しかも正確に認識できる。これがアルファベットなら一瞬のうちに認識することは難しい。例えば長い地名がアルファベットで記されていたなら、車を停車させなければ、書いてある行き先を読むことはできないであろう。これは言語の特徴を考える場合、重要な点である。
日本語の文書は、斜読みによって、ある程度の意味を把握することができる。これも日本語に漢字が使われているからである。速読の達人と呼ばれる人がいるが、もし文章が全て「かな」で書いてあったなら、とても一瞬のうちに読むことはできないであろう。アルファベットだけの英語も速読に向かない言語と思われる。 日本においては、昔から、一般国民の中に文章を読める者は大勢いた。特に明治時代に義務教育が始まり、誰もが日本語を書いたり読んだりするのが当り前になった。少なくとも日本では、中国のように、国語というものが、極少数の超エリートしか操ることができないという代物ではなかった。
戦後、GHQが日本人を色々調査した。当時、米国人から見れば「日本人は人間より猿に近い動物」という認識であった(失礼な話である)。
そのような日本人が、どうして短期間のうちに列強と対等の国力を持つことができたのか、不思議だったのである。しかし調査によって、日本では、どのような地方に行っても、またどれだけ年配の人でも、文字を知り、文章が読めることを発見した。これはGHQにとって驚きであり、これで日本を見直したのである。これも日本の教育制度が優れていたのと、日本語が誰にもマスターできる優れた言語であったからである。 http://www.adpweb.com/eco/eco395.html ▲△▽▼
2016-07-07 弱肉強食の資本主義が最後に生み出すのは階級社会の固定化
富裕層の子供と貧困層の子供は、生活環境が違う。富裕層の子供たちは心地良い環境で暮らすことができて、明日の食事の心配をすることもなく、親の資力を使って「良い学校」に通うことができる。
良い学校とは、子供たちの能力や学力を向上させてくれる思慮深い教師がいて、子供たちをバックアップする環境が教室にあって、安全で、清潔な学校である。 良い学校は、その環境を維持するためのコストがかかるので、それが学費に反映される。 だからこそ富裕層の子供しか通えない私学が存在し、そこで子供たちは生まれ持った能力をより良く向上させていくことができる。 貧困層の子供たちは親の財力からして、こうした「良い環境」の学校には入れない。そのため、近所の学費の安い学校に通うことになる。 こうした学校は多くが公立なのだが、欧米でも途上国でも同じく、公立学校というのは荒廃しやすい状況にある。 その理由は別に難しいことではない。教育にも弱肉強食の資本主義が取り入れられるようになって、教育の場は著しく荒廃していったのだ。 教育の現場に資本主義を取り入れて生まれた結果
アメリカの教育の環境が変わっていったのは1980年代以降であると言われている。 何が起きたのか。 この時代、アメリカの大統領となったロナルド・レーガンは、「新自由主義」の信奉者であり、「小さな政府」をスローガンにして政策を推し進めていた。 「小さな政府(リミテッド・ガバメント)」とは、政府の関与をどんどん小さくして、ほとんどのことは民間に任せるという政策を言う。 これによって民間ではダイナミックな競争が生まれ、その競争によって世の中が進化するのではないか、という思想がその根底にある。 レーガン大統領はこれを「レーガノミクス」と名付けて、すべての分野に当てはめていったのだが、教育もまたこの自由競争の中に放り込まれた。 その結果、公立学校では国からの補助金が削減されていくことになり、教師の賃金も下がり、学校の施設・備品も補充されることもなくなり、学校の環境はどんどん悪化していった。 給料が下がると、優秀な教師から消えていく。公立学校の予算が削減されていくのが既定路線になると、優秀な教師は最初から公立学校の教師にはなろうとしない。 教師の質が落ちると問題児も放置される。また優秀な生徒も問題児の影響を受けて学力が低下していく。そうすると、富裕層の親たちが子供をそこから引き上げて私立の学校に入れるようになる。 こうした流れが延々と続いた結果、1990年に入る頃になるとアメリカの教育の場は、荒れ果てた公立学校と、良い環境と良い教師が揃った私立学校と完全に分離するようになった。 教育の現場に資本主義を取り入れると、富裕層と貧困層の子供たちが分離する結果となったのである。 教育の格差は、子供たちのその後の人生は大きく左右することになる。
貧困層の子供たちは、スタートから出遅れていく
アメリカでは今、ケンブリッジ大学でも、マサチューセッツ工科大学でも、ハーバード大学でも、女子学生に対するレイプが多発していて問題になっている。 しかし、これは「あり得ないことが起きた」という反応ではなく、「いよいよ名門大学でも起きるようになった」という捉え方をされていることに注意すべきだ。 アメリカの最底辺の公立学校では、学校内でドラッグが蔓延し、レイプ事件が起き、時には銃撃事件も発生するほど荒れているのはよく知られている。 こうした底辺の学校の日常が「いよいよ名門大学にもやってきた」という捉え方なのだ。荒れた学校が存在し、暴力が恒常化しているのである。 貧困層の通う学校が荒れ果てて学力低下が止まらなくなるのは、別にアメリカだけの話ではない。イギリスでもフランスでもまったく事情は同じだ。 貧困層の子供たちが学力荒廃の流れに絡み取られてしまうのは、本人の資質を問う前に、劣悪な環境を問わなければならない。 教育に理解のない親兄弟、教育に適していない家屋、教育に適していない共同体、貧困による栄養不足や飢えが一度に子供たちに襲いかかってくる。 その上、教育に必要な書籍や備品も経済的な理由で揃えることができないこともある。飢えていたり、服装が粗末だったりすると、いじめに遭う確率が高まる。 そして、経済問題の悪化が知能を低下させる大きな理由になっていることも知られている。 (「お金がない」ということ自体が、知能を低下させる理由) http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131009T0413150900.html 貧困層の子供というのは、「学ぶ」ということに対して、富裕層の子供よりも思った以上にハンディをかぶっているのだ。資本主義社会では体力ではなく知力が重要視されるので、貧困層の子供たちはスタートから出遅れる。 貧困層の子供というのは、「学ぶ」ということに対して、富裕層の子供よりも思った以上にハンディをかぶっているのだ。資本主義社会では体力ではなく知力が重要視されるので、貧困層の子供たちはスタートから出遅れる。
弱肉強食の資本主義が最後に生み出すのは階級社会
日本では1990年から明確に経済が衰弱していくようになり、じわじわと貧困層が生まれて来た。 それが社会で見えるようになっていくのは2000年に入った頃だが、本来はここで対策を打たなければならなかったのに、当時の小泉政権がしたのは真逆の政策だった。 小泉政権は貧困層を支援するのではなく、むしろ「新自由主義」という弱肉強食の資本主義を取り入れて、貧困層を思いきり見捨ててしまった。 小泉政権時代、経済財政政策を担当していた竹中平蔵という男はロナルド・レーガン大統領が行った「小さな政府(リミテッド・ガバメント)」の政策をそのまま日本に持ち込んで、教育も含めてすべてを民間の競争の渦に放り込んだ。 こうしたことから、日本でも明確に教育の劣化が起きるようになっている。この流れは止まらないと考えられている。 日本でも公立学校は荒れ、高い学費の私立学校が好環境になるという二極化になりつつあり、現職の教師もこうした現状に警鐘を鳴らしている。 やがては日本も貧困層の子供たちは学力が低いまま放置されて、永遠に資本主義の底部に押し込められることになる。 親の財力で子供の将来が決まるというのは、言うまでもなく「貧困の固定化」を生み出す。つまり、貧困層の子供は貧困層に、富裕層の子供は富裕層になる社会の誕生だ。 名門大学の学費は異様なまでに高くなり、すでに金持ちしか通えないのが現実だ。 富裕層の子供は学力がなくてもコネで名門大学に入ることができるようになり、逆に貧困層の秀才は学力があっても経済力がないので名門大学に入れない。 弱肉強食の資本主義が最後に生み出すのは、もがいてもあがいても抜けられない底知れぬ階級社会である。 世界はグローバル経済に覆われ、そのグローバル経済の正体が弱肉強食の資本主義であるのであれば、全世界が階級社会に向かっているということになる。 貧困層の子供は貧困層、セックスワーカーの母親の娘はセックスワーカーという途上国で見られた構図は、今後は先進国も含めて全世界で当たり前になるのかもしれない。 世界はグローバル経済に覆われ、そのグローバル経済の正体が弱肉強食の資本主義であるのであれば、全世界が階級社会に向かっているということになる。弱肉強食の資本主義が最後に生み出すのは、もがいてもあがいても抜けられない底知れぬ階級社会である。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160707T0251420900.html
「教育を与えない」が、体制にとって非常に重要な理由とは
インドではダリット(不可触民)というカーストがある。「人間ではない。それ以下だ」と呼び捨てられ、差別されている人たちだ。
(人間以下(Sub-human)と呼び捨てられて、生きている人たち) http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120731T2334260900.html 彼らは今も安い労働でこき使われている。
女性は売春宿に売り飛ばされたり、排泄物の汲み取りや、動物の死体の処理など、人のやらない仕事を強制されていることが多い。 (人間の排泄物を両手で集めることを強いられた人たちがいる) http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120923T0236040900.html そんな彼らはまさにインドの隠された奴隷である。
ダリットは激しい差別を受けているのだが、その差別のひとつとして「教育を与えない」というものがある。なぜ教育を与えないのか。 教育を受けて、ものを考えられるようになると、自らの立場を「知る」ことになる。そうすると、社会がおかしいことに「気づく」。自然と「反抗心」が芽生え、現状を変えようと「立ち上がる」人間が出てくる。 そうなると奴隷状態に置かれていた人間が次々と「目が覚めて」しまって、奴隷制が維持できなくなる。だから、教育を与えない。支配者は、最終的に奴隷化する人から教育を奪い、無知なまま生きてくれたほうが都合が良い。 だから、教育を絶対に与えないのである。 教育を与えないというのは、体制にとって非常に重要
アフガニスタンやパキスタンでは、女性が教育を受けようとすると命を狙われる。学校が襲われて飲み水に毒を入れられたり、学校に通う女学生が撃たれたりする。 女性に教育を与えない。なぜなら、教育を受けることによって女性が目覚め、自分たちが抑圧されていることに気がつき、現状を変えようと立ち上がる人間が出てくるからだ。 そうすると、イスラムを「おかしい」という女性が出てくる。あるいは男尊女卑に疑問を持つ女性も出てくる。男女平等だと言い出し、女性が家長制度を脅かすかもしれない。 だから、女性には教育を与えず、考えることすらも禁じて現状が当たり前だと思わせておく。 それでも教育を受ける少女が出てきたり、教育の大切さを訴える「邪魔」な少女が出現する。そんなときは、マララ・ユスフザイのように撃たれたりする。 このような事件があると女性は萎縮し、無知であることに甘んじて声を失っていく。 私たちは部外者なので、イスラム国家の女性が奴隷化されていることは分かる。しかし、当のイスラム女性たちは、自分が奴隷化されていることに気がついていないことも多い。 子供の頃からイスラムに従順であることが当たり前になると、それが世界のすべてだから違う世界が分からないのである。部外者は分かるが、当事者は分からない。 だから「教育を与えない」というのは、体制にとって非常に重要であることが分かる。 教育は一部の人間、すなわち体制側の人間や為政者やエリートだけが受けていればいいのであって、一般大衆は「言われたことだけをロボットのように行う人間」であることが望ましい。 いちいち何かを考えて、体制側のシステムに立ち向かって反旗を翻すような人間が増えるのは望んでいない。むしろ、そんな人間が出ないようにしたいと考えている。 国民から教育を奪い取った方が都合が良くなった
イギリスの産業革命以降、先進国社会では国民に教育を与えることによって、他国よりも経済的競争力がついた。だから、為政者は他国よりも有利になるために、国民に対して教育を促進していた。 教育がつけば、より複雑な工業製品が作れるようになり、それが社会に恵みをもたらした。 そして、国が豊かになれば、為政者たちも豊かになる。だから、国民に教育を与えるにはすばらしいメリットを享受する施策であった。その流れはずっと続いて来た。 しかし、もう状況が変わった可能性がある。 グローバル化によってグローバル経済に参加する国では教育の平準化が行われて、どこの国でも労働者は一定の水準が保てるようになっている。 そのため、企業は自国の労働者に頼る必要がなくなった。そもそも先進国の高度な知識を持った人間は高賃金を要求するのでコスト削減には逆行するので使いにくい。 優秀であれば国籍を問わず経営者も雇えるようになったので、国民全員に教育を施すよりも、そういう人材を即戦力で雇った方がコストが安くなっているのだ。 労働者の質は平均化されているので、むしろ高度な教育のない安い賃金で雇える労働者の方が使いやすいと企業は考える。使い捨てできるからである。 国家も財源が不足するようになって、教育を与えるということが負担になっている。そして、国民に必要以上の教育を与えることによって、為政者に刃向かってくるデメリットのほうが大きくなっている。 誰もが高度教育を受けられるようになると、もう教育そのものが陳腐化して、強みにもメリットにもならない。だから、先進国では逆に国民から教育を奪い取った方が為政者にとっては都合が良くなりつつある。 奴隷に見えない。しかし、実は奴隷だった
下手に教育を与えると、国民はいろんなことを考えて「目覚めて」しまう。社会で自分たちの立場が為政者に抑え込まれていることに気付き始めて反抗を始める。 だから教育を与えているように見えて、教育の成果をどんどん奪っていくような社会構造ができあがる。具体的には、以下のような社会になっていく。 ・学校をレジャー化させ、教育させない。 ・テレビ・映画・映像に浸らせて考えさせない。 ・スポーツ観戦に夢中にさせて考えさせない。 ・セックス・ポルノに夢中にさせて考えさせない。 ・ゲームに夢中にさせて考えさせない。 ・ギャンブルを与えて夢中にさせて考えさせない。 ・本を読ませず、深く考えさせない。 これによって教育を受けているように見えて実は教育をすべて打ち消し、結果的には国民は完全なる無教育の状態に戻されてしまうのである。 「考えさせない」環境をどんどん作り出して知能を劣化させ、結果的に無教育にしていく。これを「衆愚化政策」という。「パンとサーカス」を与えて関心をそちらに寄せておき、政治を転覆させないようにする手法だ。 この愚民化の風潮は止めることができるものだが、社会的にはまったく止められる兆候もなく、むしろ加速させられている。学校が衆愚政策によって学力低下を強化されている。 自然にそうなったのではない。学力低下、愚民の方向に誘導されているのである。 かつて「奴隷」と呼ばれる人間が存在していたことは誰でも知っている。途上国では、女性や貧しい人々が意図的に教育を奪われていることを私たちは知っている。 しかし、先進国に暮らす私たちも実は教育を奪われている可能性があるということには気付かない。外部から見るとその人は奴隷的な境遇だと分かるのだが、自分が当事者であると自分が奴隷だとは気付かないのだ。 「一見自由を与えられているように見える。奴隷に見えない。しかし、実は奴隷だった」 私たちは気がつかないうちに、衆愚政策で奴隷にされているのかもしれない。まさかと思うかも知れないが、嘘ではない。場合によっては、私たちはもう手遅れかもしれない。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160401T0037520900.html ▲△▽▼ 「真面目に働くことによって明るい未来が拓く」という今までの資本主義の基幹を為していた牧歌的な時代は、グローバル化が進めば進むほど過去のものになりつつある。 現代の資本主義は、全世界を巻き込んだ凄まじい競争を強いる弱肉強食の資本主義である。企業は競争に打ち勝つために、素早く巨大化し、素早く時代に対応し、利益を極大化させることが望まれている。
利益を極大化させるためには、余計なコストがかかる雇用を必要最小限にするのが手っ取り早い。人間を雇うというのは、企業から見ると凄まじいコストなのである。 年500万円の人間を20年雇用したら、その1人だけで1億円のコストがかかる。実際にはこれに福利厚生から事務所代から雑費等含めて、かなりの出費がある。 単純に言えば、人は雇わなければ雇わないほどコストは削減される。そのために企業は、ありとあらゆる方法で雇用を削減する方法を考え出す。 それが派遣雇用の拡充であったり、アウトソーシングであったり、途上国の工場移転であったり、IT化であったり、ロボット化であったり、人工知能であったりする。 現在はそうした「雇用を排除する動き」が同時並行で行われ、加速している時代である。 これがさらに進んでいくのが2016年以降の動きだ。「働いても働いても豊かになれない」というワーキングプア層が社会の大半を占めるほどの苛烈な社会になっていくのだ。 今起きているこの大きな動きに私たちはひとり残らず飲み込まれていることに注意しなければならない。2016年以降、この流れが変わるというのはあり得ない。 「会社に雇われて働く」というのは、ワーキングプアになるというのと同義語になる。 まだ多くの人は半信半疑かもしれないが、よほどのエリートでない限り、「会社に勤める」というのは貧困に落ちる危険な行為になりつつあるのだ。 http://www.bllackz.com/?m=c&c=20160101T1601100900 ▲△▽▼
英語化は植民地政策だ 施光恒 9月 28th, 2015 by 月刊日本編集部.
英語化は植民地化政策だ
―― 施さんは『英語化は愚民化』(集英社新書)を上梓し、英語化に警鐘を鳴らしています。 施 結論からいうと、英語化は植民地政策の一環です。安倍政権は様々な面で対米従属を深めています。経済面ではTPP、軍事面では日米ガイドラインと安保法案、そして文化面でも英語化という形で対米従属が進行しているのです。
しかし言語の問題は政治や経済とは訳が違います。国語は国家、民族、歴史、伝統、文化の根源だからです。 フランスの作家アルフォンス・ドーデの小説『最後の授業』では、普仏戦争後にフランスからドイツに割譲されることになったアルザス・ロレーヌ地方の小学校でのフランス語の最後の授業が描かれます。そこで教師は児童にこう語りかけます。「フランス語は世界中でいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばんしっかりした言葉である。だから君たちはこれを守りつづけ、決して忘れてはならない。なぜなら民族が奴隷になったとき、国語さえしっかり守っていれば、自分たちの牢獄の鍵を握っているようなものなのだから」と。 現在の英語化は「英語公用語化」といっても過言ではないほどです。このまま英語が日本語を駆逐していけば、私たちは「牢獄の鍵」をうしない、対米自立の道が断たれます。日本的なるものは滅びるか、滅びないまでも再起不能になり、そのあと日本列島に残るのはアメリカの植民地ということになってしまうのです。 ―― それでは英語化の現状から伺えますか。
施 現在、日本社会全体で英語化が進んでいます。企業では今年7月、ホンダが楽天やユニクロに続いて社内で英語を公用語とすることを決定しました。
教育分野でも同様です。政府は早ければ2018年以降小学校5年生から英語を正式科目とする方針です。さいたま市や岐阜市のように小学校一年生から英語の正式教科化を進めている地方自治体もあります。英語のみで英語の授業を行う「オールイングリッシュ方式」はすでに高校では導入されていますが、今後は中学でも採用されます。 大学教育については下村文科相が一昨年、一流とされる大学は、今後、10年のうちに5割以上の授業を英語で行うようにすべきだと述べています。また、文科省も「スーパーグローバル大学」構想なるものを打ち出すなどして、授業の英語化を進めるよう各大学の尻を叩いています。 その結果、京大は一般教養科目の2分の1の英語化を目指していますし、東大理学部化学科に至っては昨年秋からすでに全授業を英語に切りかえています。各学会でも、最近は「研究発表は日本語ではなく英語でやるべきだ」という風潮が強まっています。 行政も例外ではなく、近い将来、国家公務員から地方公務員まで英語化が進む恐れがあります。今年度からはキャリア官僚になるための国家公務員総合職試験ではTOEFLの活用が始まりました。またTPPには「政府調達(公共事業の入札)」という項目があり、TPPに加盟すれば国家レベルの公共事業だけではなく、地方自治体レベルの小規模な公共事業も国際入札で行われるようになり、行政文書も英語化されていくでしょう。 さらにクールジャパンムーブメント推進会議という政府の有識者会議は、公用語を英語とする「英語特区」を企画し、「公共の場での会話は英語のみに限定する」「販売される書籍・新聞は英語媒体とする」と提案しています。いわば「日本語禁止特区」です。自ら「アメリカの租界」を作っているようなものです。 英語化で日本の国力は地に落ちる
―― しかしグローバル化の時代を生き抜くには、英語力を高める必要があるという声が大きい。 施 いや、逆に英語化は日本の国力を落とすでしょうね。まず日本人の学力が格段に落ちる。ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏は、中国や韓国の研究者から「どうしてアジアで日本だけが次々と受賞者を輩出できるのか」と尋ねられ、「日本人は母国語で専門書を読むことができるからだ」と思い当ったと話しています。
本来、人間の可能性は母語の中でこそ最大化します。どんなに上手でも日本人にとって英語は外国語です。外国語である以上、英語で日本語より深い思考をすることはできない。スーパーグローバル大学は「世界レベルの教育研究」を行うために「英語で授業を行う」と謳っていますが、英語化は日本の知的レベルを下げる一方でしょう。 また政府は「グローバル人材」を育てて経済力を上げたいようですが、GDPの上位五カ国はアメリカ、中国、日本、ドイツ、フランスです。一方、英語を公用語として使っているアジア・アフリカ諸国のGDPは低い。 そもそも英語力と学術や経済の力とを結びつける発想が間違っています。…… http://gekkan-nippon.com/?p=7080 ▲△▽▼ いずれわが国は、どんな言語を話せるかで階級が決まる社会になるのではないか。 2019/06/24 https://kenjisato1966.com/%e3%81%84%e3%81%9a%e3%82%8c%e3%82%8f%e3%81%8c%e5%9b%bd%e3%81%af%e3%80%81%e8%a8%80%e8%aa%9e%e9%9a%8e%e7%b4%9a%e7%a4%be%e4%bc%9a%e3%81%a8%e3%81%a7%e3%82%82%e3%81%84%e3%81%86%e3%82%82%e3%81%ae%e3%81%ab/
わが国では目下、
いかに移民が流入しようと 移民だと認めさえしなければ 移民が増えたことにはならない という爽快な発想のもと、 移民、もとへ外国人労働者の受け入れが進んでいます。 一時はあれこれ反対した保守派と呼ばれる人々も
いかに問題が深刻化しようと 問題だと認めさえしなければ 問題が深刻化したことにはならない という爽快な発想のもと、 移民よりも憲法改正だの、 週刊誌の皇室報道批判だのに熱中している様子。 けれども現実の事態は、容赦なく進行してゆきます。
どうぞ。 外国人の日本語教育は国と地方の責務 推進法成立
(NHKニュース、21日配信) 外国人の日本語教育を充実させるための「日本語教育推進法」が
21日の参議院本会議で全会一致で可決され、成立しました。 「日本語教育推進法」は外国人の日本語教育を充実させる施策の実施を
国と地方自治体の責務と位置づけ、 国はその基本方針を定めなければならないとしています。 そのうえで、教育水準を向上させるため
外国人の子どもを指導する教員の配置や養成に必要な施策の実施や、 働く外国人への日本語研修などを支援することを国に求めています。 また、関係省庁が参加する「日本語教育推進会議」を設け、
日本語教育の推進に向けた関係機関との調整を図るよう国に義務づけています。 もとの記事こちら。 この法律を取りまとめたのは
およそ30名の超党派衆参議員によって構成される 日本語教育推進議員連盟。 中心となっているのは
河村建夫(衆議院・自民党・元文科大臣。連盟会長) 中川正春(衆議院・自民党・元文科大臣。連盟会長代行) 馳浩(衆議院・自民党・元文科大臣。連盟事務局長) 里見隆治(参議院・公明党。連盟事務局次長) 石橋通宏(参議院・立憲民主党。連盟事務局次長) の5名とのこと。 しかるにですな。
2018年8月、 日本語教育推進法(当時はまだ法案)との関連で 議員連盟の活動を紹介した AATJ(AMERICAN ASSOCIATION OF TEACHERS OF JAPANESE, 全米日本語教育学会)の記事には しっかりこう書いてあります。 移民を少子化問 題の解決策と考える国会議員、
中央省庁官僚、ビジネスリーダーは少なからずおり、 日本としての移民政策を議論すべきという意見を時折出 している(。) (日本語教育推進法案も)名目上は、
国内の日本語教育に関する法案だが、 日本の移民問題を議論する突破口としても考えられている。 元の記事こちら。 「あら、あっさり語るに落ちたわね」(※)お姉さまのお言葉です。
馳浩事務局長も
一般社団法人「全国日本語学校連合会」によるインタビュー (「留学生通信」114号、2019年4月13日付)で このように語っています。 韓国や台湾(は)、外国人材の獲得におい て、
より専門性のある職種も、 第一次産業もそうですが、 様々な実業の現場で、働く外国人 を獲得するために手を打っています。 今や世界は、獲得競争に入っている時代です。
にも関 わらず、我が国は遅れているのが実情です。 従って、外国人は母語を大切にしながらも、 と くに子供さんの場合には、母語を大切にしながらも、 わが国で働き、生活していく上で必要 な コミュニケーションツールとしての日本語を習得してもらう、 支えることが必要です。 (明らかな誤字を一字修正) 元の記事こちら。 要するに
移民と認めない形で移民の数を増やしておいて 「日本語を(満足に)話せない人が増えちゃ困るだろ?」と 外国人にたいする日本語教育の必要性を説くことにより それらの人々がわが国に定住する存在、 つまり移民であることを受け入れさせようという話でしょう。 (※)記事の内容と直接の関係はありません。
日本語教育推進法案が 日本の移民問題を議論する突破口としても考えられている と喝破した、AATJのナガノ・トモノリさんの見識は その点であっぱれと言わねばなりません。 ただし、ここで思い出すべきは
わが国は英語化の推進にも力を入れているということ。 議員連盟には文科大臣経験者が3名もおりますが 当の文科省は 「今後の英語教育の改善・充実方策について」という文書で こう述べているのです。 社会の急速なグローバル化の進展の中で、
英語力の一層の充実は我が国にとって極めて重要な問題。 これからは、国民一人一人にとって、 異文化理解や異文化コミュニケーションはますます重要になる。 その際に、国際共通語である英語力の向上は日本の将来にとって不可欠であり、 アジアの中でトップクラスの英語力を目指すべきである。 東京オリンピック・パラリンピックを迎える2020(平成32)年はもとより、
現在、学校で学ぶ児童生徒が卒業後に社会で活躍するであろう2050(平成62)年頃には、 我が国は、多文化・多言語・多民族の人たちが、 協調と競争する国際的な環境の中にあることが予想され、 そうした中で、国民一人一人が、様々な社会的・職業的な場面において、 外国語を用いたコミュニケーションを行う機会が格段に増えることが想定される。 元の文書こちら。 実際、4月22日の記事
「国のあり方に筋を通さなければ、国語力も英語力も向上しないという話。」 で紹介したとおり、 今や政府は中高生の英語力について 数値目標まで設定して尻を叩いているのです。 達成できてはいませんがね。 だとしても
グローバル化の名のもと 外国人にたいする日本語教育の重要性を説きながら 日本人にたいしては グローバル化の名のもと英語教育の重要性を説くとは どういう話だ、一体?! ♬認知す〜る〜な〜ら、チョイと不協和音頭、ヨイヨイ
・・・お分かりですね。 つまり日本語教育推進の対象となっている人は 英語がしゃべれると見なされていないのです。 ずばり言ってしまえば、
途上国を中心とした非英語圏からの単純労働者が 想定されているに違いない。 これについても馳浩議員が
しっかり語るに落ちて下さっています。 先に引用した箇所で
(韓国や台湾は)より専門性のある職種も、 第一次産業もそうですが、 様々な実業の現場で、働く外国人 を獲得するために手を打っています。 というフレーズが出てきたのにご注目。 つまりこれは
(韓国や台湾は)専門性のある職種に限らず、 第一次産業を含めた単純労働についても 移民を積極的に受け入れている という意味なのです。 さらにインタビューには、こんな発言まで出てくる。
この法案が必要だと考えた一番のきっかけは、
リーマンショックの後に、 ずいぶん外国人労働者が解雇されたが、 十分な対応がなされていない。 日系人の場合、家族 で来ておりました。 とくに日系ブラジル人の場合、子供の教育が中断される。 本国に帰るの か、転職するのか、 正直言いまして外国人集住都市においては、ずいぶんと混乱が起きました。 (※)ブラジルの公用語はポルトガル語です。 となれば法案作成の意図はこうなる。
これからの時代、英語ができない単純労働者の移民が
家族を連れてどんどん定住するだろう。 それらの人々が日本語までできなかったら、どうにもならない。 だから外国人の日本語教育に力を入れるべきだ! 当然、裏にはこういう含みがある。
専門的な技術や知識を持つ移民、
いわゆる高度人材様については むしろこちらが英語で対応できるようにならねばならない。 だから日本人の英語教育に力を入れるべきだ! グローバル化の名のもと
外国人への日本語教育強化と 日本人への英語教育強化が同時に叫ばれるという なかなかにパラドキシカルな事態も こう考えれば、すっきり筋が通るのであります。 けれどもこれは
日本に以下の4種類の人間が暮らすようになることを意味する。 1)英語ができる日本人(上級国民)。 (※)英語は話せないが、フランス語、ドイツ語、ロシア語など、 他の主要国の言語を話せる日本人もこれに準ずる。 2)英語ができて、専門知識や技能のある移民(高度人材)。 (※)英語は話せないが、他の主要国の言語を話せる移民もこれに準ずる。 3)日本語しかできない日本人(一般国民)。 4)英語も日本語も不自由な移民(単純労働者)。 (※)英語を話せこそするものの、学歴や職歴に見るべきものがなく、 専門知識や技能がない移民もこれに準ずる。 カッコ内の語句が示すとおり
これは単なる言語上の区分ではありません。 社会的・経済的な階層、すなわち階級であります。 たぶん2020年代には
「英語」に「中国語」が追加されたうえ、 一般国民の貧困層が「下級国民」として 移民の単純労働者と一緒くたにされるでありましょう。 これらの人々の日本語力も貧弱でしょうからね。 すなわちわが国は
どんな言語を話せるか(あるいは話せないか)で階級が決まる 言語階級社会とでも呼ぶべきものになってゆくのです。 こうして一つの国に二つの言葉が根づき、
戦乱の種子が撒かれたのだ。 ──『ジュビリー』(デレク・ジャーマン監督、1978年) 「ね、令和ニッポンって爽快でしょう♥」(※)お姉さまのお言葉です。
うなずいたアナタはこちらをクリック!
アニメから sayaさんの熱唱まで、豪華絢爛たるプロモーション動画はこちら! ちなみに1月7日の記事
「今年から移民受入が本格化するが、外国籍の子どものうち2割は就学状況が不明である。」 でも述べたとおり わが国ではすでに 1万6000人もの外国籍の子どもが 学校に通っているかどうか確認できません。 その中には所在不明の子や
住民票を残したまま転居した子もいると見られます。 とはいえ子どもには親がいるでしょうから、 これは足取りのつかめない外国人の親が、1万人単位で存在する恐れが強いということ。 国や自治体の義務とか言っているけど、
そんな人々にどうやって日本語を教えるの? 令和の時代は、こうして日に日に収拾がつかなく・・・
もとへ、爽快になってゆくのでありました。 https://kenjisato1966.com/%e3%81%84%e3%81%9a%e3%82%8c%e3%82%8f%e3%81%8c%e5%9b%bd%e3%81%af%e3%80%81%e8%a8%80%e8%aa%9e%e9%9a%8e%e7%b4%9a%e7%a4%be%e4%bc%9a%e3%81%a8%e3%81%a7%e3%82%82%e3%81%84%e3%81%86%e3%82%82%e3%81%ae%e3%81%ab/ ▲△▽▼ 2016-02-06 難民・移民が流入して大混乱しても、それが止まらない理由 移民問題・難民問題は、今やユーロ圏を揺るがす火薬庫と化してしまった。
排斥デモ、異民族敵視、憎悪、相互対立は、多民族国家を目指した国のほとんどが経験している。多民族共生というのは、口で言うほど簡単なものではない。 共生どころか、むしろ衝突となり暴力の応酬となってしまう。当然だ。ひとつの地域に、文化がまったく違って、考え方も根本からして異なる人たちが押し込まれる。 民族によっては、マナーも違えば、常識も違えば、言葉も違えば、人種も違う。 何もかも違った人間がどんどん増えていくと、受け入れる側からすると、自分たちの文化が侵略されていると捉えるのは、避けられない。こういった対立は、これから世界中で吹き荒れることになる しかし、だからと言って、移民・難民の流入や、多民族国家の動きが頓挫するとは、絶対に考えない方がいい。
どんな問題が起きても、どんな激しい国民の抵抗が起きても、グローバル社会に参加した国家では、それが強引に行われていくことになる。 なぜなら、グローバル化していく社会の中で、国家という枠組みが邪魔になっており、今は「国家」という枠組みを取り壊そうとする動きが加速しているからである。 「自国文化を守ろう、自国の歴史を大切にしよう」という動きは、「保守」とは呼ばれず、「極右」とグローバル・メディアによってレッテル貼りをされている。 世界中のメディアは、保守を必ず「極右」として扱い、レイシストと断定する。それはグローバル化を後退させる動きなので、「絶対に許されない思想」と認定して、封印されていく。 グローバル化を阻止する動きは、絶対に許されない。 多国籍企業、金融市場、巨大メディアは、グローバル化する社会の中で支配権を拡大していく過程にある。 世界を動かしているのは国民ではなく、多国籍企業、金融市場、巨大メディアである。そして、これらの企業の各ステークホルダー(関係者)たちである。 全員が揃って陰謀に荷担しているという見方もあるが、実際のところは、陰謀論によって動いているというよりも、グローバル化した方が「より儲かる」というシンプルな原則によって突き動かされていると言った方がいい。 儲かるのなら、儲かる方向に向かって資本が殺到していく。それがあたかも何らかの指示があるように一方方向に動いているように見える。 事業家や金融資本は何者かに命令されて動いているわけではない。儲かる方向に向かって動いていたら、それはグローバル化の方向だったのである。 ロンドンの光景。もうすでにロンドンでは44%近くが非白人となっていると言われている。移民・難民の流入や、多民族国家の動きは止まらない。
儲かるから、グローバル化が推し進められるのだ
グローバル化したら、世界のすべてが多国籍企業にとって市場になる。そうなれば、単純に儲かる。だから、多国籍企業はぶれることなくグローバル化を推し進める。 グローバル化したら、賃金の安い国で物を製造することができるようになる。そうなれば、コスト削減できる。そして、競争力が付いて儲かる。 グローバル化したら、移民が大量に入ってきて、やはり低賃金で人が雇えるようになる。そうなれば、またもやコスト削減ができる。だから、移民政策や、多文化主義は推進されるのだ。シンプルだ。 貿易を行うに当たって、国をまたぐたびに関税を取られたら損をする。だから、国がなくなればいいと考えるのが多国籍企業でもある。儲けのためには、関税を取る国家という存在が邪魔なのだ。 販売を行うに当たって、各国の違いに合わせて商品をローカライズするのは無駄なコストである。言語が英語か何かで統一できれば、ローカライズする手間がなくなる。だから、国がなくなればいいと考えるのが多国籍企業である。コストのためには国家という存在が邪魔なのだ。 販売を行うに当たって、文化が違っているとやはりその国に合わせなければならないが、それも無駄なコストである。だから、移民を入れて、混ぜて、独自文化を薄めさせれば、文化に合わせる手間もなくなる。 だから、文化がなくなればいいと考えるのが多国籍企業でもある。移民・難民を大量に入れて「多文化共生」にするのは、その国の独自の文化を消すのに最良の方法だ。 パリの光景。41%が非白人の人口となっている。グローバル化したら、移民が大量に入ってきて、低賃金で人が雇えるようになる。そうなればコスト削減ができる。だから、移民政策や、多文化主義は推進される。
世の中は多極化しているのではない。逆だ
ありとあらゆるものが、国家の消滅、国家の役割縮小、国家の無力化を目指している。上記以外にも、そんな動きは次々と動いている。 通貨が違っていれば、為替の変動というものに注意を払わなければならず、それは多国籍企業にとっては手間である。国家をブロック化するか、もしくは国家を消滅させれば為替も統一するので便利だ。だから多国籍企業は、通貨の統一を邪魔する国家という概念を消し去りたい。 巨大メディアも、言語・文化がどんどん統一されていけば、情報収集も、情報提供も、世論誘導もやりやすい。だから、グローバル化に乗るのは「得する」動きだ。そのために、言語・文化の守り手である国家を消滅させたい。 インターネットもまた、「情報」という分野で世界を統一しようとする動きである。インターネット企業は、世界がグローバル化すればするほど儲かる仕組みになっている。だから、国家間の情報遮断は許しがたいことであり、やはり国家という概念を消し去りたいと思っている。 グローバル化は、それを突き詰めると、世界が「ひとつ」になるということだ。世界が「ひとつ」というのは、要するに国家も、文化も、言語も、通貨も、すべてが「ひとつ」になるという意味である。 現在、そのような社会に向かっている。世界は多極化しているのではない。完全にその逆だ。 グローバル化の動きは、「ひとつ」になる動きだ。国家のブロック化は、「ひとつ」になる動きだ。多文化主義の動きは、「ひとつ」になる動きだ。金融市場の国際化は、「ひとつ」になる動きだ。移民促進の動きは、「ひとつ」になる動きだ。 グローバル化によって、世界は統一化されようと動いている。多極化しているというのは、単に政治の力学の話であって、世の中全体の動きではない。 多極化していると見せかけて、世の中はグローバル化によって「ひとつ」になろうとしているのである。 絶対に移民政策が止まらないのは、世界が「ひとつ」になるためだ。本当に、単純な話だ。そうすれば多国籍企業、金融市場、巨大メディアは儲かるのである。そして今や、すべての国がグローバル化に向かって暴走している。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160206T0136500900.html ▲△▽▼
日本も含め、全世界は最後に同じ文化になってしまうのか?
中国やインド、そして東南アジアの各諸国が台頭してきたのは、グローバル化が加速したからだ。
グローバル化が加速するとなぜこれらの諸国が台頭することになるのかというと、簡単に言えば「人的コストが安いから」である。 では、なぜ世界はグローバル化していくのかというと、企業間の競争があって、そこでは結果的にコスト削減を徹底的に行い、利益を上げたものが勝利を手にするからである。 コストを削減するには人件費を削減するのが一番早い。
あるいは、安い労働力を使うのが良い。 当然、どこの企業もこの2つに目をつけて、この2つは同時に行われた。具体的に言うと、以下のことが、同時に行われた。 (1)賃金の高い先進国の労働者の削減 (2)賃金の安い新興国の労働者の確保 賃金の安い国はどこだったのか。それは中国であり、インドであり、東南アジア諸国であった。 残った正社員は、リストラするか賃金削減するか
先進国の失業問題は、グローバル化によって必然的に起きたことだ。 日本人の労働者がそれに巻き込まれるのは、時間の問題だったのだ。 だから、小泉政権時代からそれは加速していったが、日本はもっと早く賃金削減が起きてもおかしくなかった。 本来であれば、バブルが崩壊して企業がコスト削減に走らなければならなかった1990年代に賃金削減が起きてもおかしくなかった。 そうならなかったのは日本には終身雇用という文化があったからで、企業が無理していたという言い方もできる。日本企業にも良心があったということだ。 結局、無理に無理が重なってどうにもならなくなったので、企業側はどんどん工場を新興国に移し、本社側の人員は派遣に切り替えた。 そして、残った正社員は、リストラするか賃金削減するかの二者択一になった。 2000年代に入ってから、この両方が平行して行われたのである。 ・日本の賃金はまだ高いから、正社員はもっと削られる。 ・賃金はもっと削減される。 サラリーマンをやっている人間は、もはや一部分の人間しか生き残れないことになる。グローバル化の本質を考えると、どうしてもそのような動きになってしまうからだ。
すべては賃金の安い国へと仕事が流れていく。 それが中国であり、インドであり、東南アジアだったのだ。 大量のコマーシャルを流して、その文化の中に浸透
この中で、中国とインドはよく特別化されることが多いが、それは理由がある。 最も大きな理由は「人口」だ。これらの国は安い労働力を使えると同時に、支払った賃金で潤うと、人口の多さがそのまま販売の市場につながっていく。 中国とインドはこの2国だけで人口は26億くらいで地球上の人口の40%ほどを占めているから、市場としての魅力は抜群である。 そのためには、この国に巣食う貧しい人達がもう一段階豊かになる必要もある。 それで労働コストが上がったのであれば、今度はバングラやアフリカが「世界の工場」になって、そこで作ったものを中国やインドに売るという流れになる。 多国籍企業は新興国に大量のコマーシャルを流して、どんどんその文化の中に浸透している。 まさにその動きこそがグローバル化の動きであって、これがアジアを強制的に変化させている原因だ。 アジアの文化に浸ってのんびりしたいと思っていたら、アジアの姿がどんどん変わって取り残されてしまう。 その背景には、多国籍企業の顔がちらつく。
古き良きアジアは、もはや幻想の中にしか存在しない。 ______
なぜ「日本文化はいずれ死ぬ」と断言することができるのか
私たちは自国を愛しており、自国の文化、自国の言語、自国の歴史を愛している。これは誰でも心に持っている気持ちであり、国を大切にする気持ちは決して消えることはない。 しかし、「自分の国を大切に思う」という気持ちは、これから次々と踏みにじられることになる。これは現代社会の大きな方向性として、知っておくべきだ。 「自分の国を大切に思う」というのは、グローバリズムに反するものだからだ。グローバリズムは、国を消失させる動きであることは、もう誰もが気付いている。 グローバル化は文化を破壊し、最終的に国を破壊する。 そうなる理由は簡単だ。文化がそれぞれの地域で違っていると、ローカライズするのにコストがかかるからだ。 文化が違っていると、文化に合わせなければならない。「合わせる」というのが多国籍企業にとってコストであり、不確定要素になる。 国家がなくなり、文化が均質化すれば、全世界で同じ物を売ることができて、全世界に支配権を得ることができる。 独自文化は破壊される方向性にあることを認識せよ
グローバル化にとって、独自文化は邪魔だ。理解できないし、ローカライズには手間がかかるし、無視すれば市場をとりこぼすことになるからだ。 だから、私たちは気が付かなければならない。 グローバル化がこれからも進むのだから、「独自文化は破壊される方向性にある」ことを。もっとはっきり言うと、こういうことになる。 「日本文化は必ず破壊される」 「日本人は日本のものではなくなる」 日本だけではなく、すべての国がそうなる。欧米ではすでに多文化主義が執拗に推進されている。 移民が続々と入り込み、人種が地域文化に馴染まないで混乱し、国内で大きな混乱が起きているにもかかわらず、それは粛々と推進されている。 ドイツでも、イギリスでも、フランスでも、オランダでも、ノルウェーでも、すべての国でまったくブレることなく多文化主義が推し進められている。 もちろん、こういった多文化主義に反対し、「独自文化を守れ」という動きは市民の間から大きな声となって湧き上がっているのは言うまでもない。 世界各国で、次々と保守政党が立ち上がって支持されている。 しかし、こういった移民排斥の運動は、世界中で「差別主義者」のレッテルを貼られる。そして、その政党は「極右団体」と称され、グローバル・メディアによって徹底的に糾弾されて、叩き潰されていく。 http://www.bllackz.com/2013/10/blog-post_20.html?utm_source=BP_recent ▲△▽▼ 2015-09-05 ユーロの大量難民受け入れを促進するグローバリストの裏側 http://www.bllackz.com/?m=c&c=20150905T1620500900 ユーロの為政者たちは「多文化主義」を強力に推進しており、移民を大量に自国に入れ、難民を大量に受け入れている。
ユーロという枠組みで国境をなくし、人の出入りを容易にして人種を混合して「世界はひとつ」を実現しようとしている。 この動きを「グローバリズム」という。 グローバリズムが推進され、それに反対する保守的な政党はすべて「極右」というレッテルを貼られてメディアで叩かれるのは、現在の支配階級(エスタブリッシュメント)がグローバル化によって莫大な利益を得るからである。 なぜ、現在の支配階級はグローバル化によって利益が得られるのか。 それは支配階級の資金源のほぼすべてが「多国籍企業」から来ているからだ。 彼らのほとんどは多国籍企業の所有者なのである。だから多国籍企業が求めるものが、彼らの基本政策となる。 その多国籍企業こそがグローバル化を求めているので、現在の強大な影響力を持った支配階級は、迷うことなくグローバル化に向かって突き進む。 100%の確率で「巨大多国籍企業」の所有者
フォーブスの億万長者ランキングをひとつひとつ見れば、そのすべてが「多国籍企業」の所有者であることが分かるはずだ。 (1)ビル・ゲイツ(マイクロソフト社) (2)カルロス・スリム(テレフォノス・デ・メヒコ) (3)ウォーレン・バフェット(バークシャー・ハサウェイ) (4)アマンシオ・オルテガ(ザラ) (5)ラリー・エリソン(オラクル) (6)チャールズ・コーク(コーク・インダストリーズ) (7)デイヴィッド・コーク(コーク・インダストリーズ) (8)クリスティ・ウォルトン(ウォルマート) (9)ジム・ウォルトン(ウォルマート) (10)リリアンヌ・ベッタンクール(ロレアル) 上位10位の億万長者を見ても、100%の確率で「巨大多国籍企業」の所有者である。それに続く億万長者もまた然り。 ロスチャイルド一族、ロックフェラー一族、デュポン一族、ヴァンダービルト一族、メロン一族等は、こうした億万長者のリストに入っていない。 しかし、こうした旧財閥一族がもう億万長者ではないのかというとそうではない。 彼らはそれぞれ自分たちの財団を所有しているが、その財団が多国籍企業の株式を大量に所有している。旧財閥一族は今でも財団を通して巨万の富を得ているのだが、ただリストに載らないように振る舞っているだけである。 つまり、すべての支配層は多国籍企業に通じている。 そのため、多国籍企業にとって素晴らしいことは、支配階級にとっても無条件に素晴らしいことでもある。 その多国籍企業がグローバル化を求めているのであれば、すべての支配階級がグローバル化を一心不乱に推進するのは当然のことである。 なぜ多国籍企業にグローバル化は重要なのか?
では、なぜ多国籍企業にグローバル化は重要なのか。もちろん、「市場」が全世界に広がれば広がるほど成長と利益が手に入るからだ。 そして、全世界の人間が「共通の文化」を持っていればいるほど、同一製品を大量生産することができて低コストで利潤を追求できるからだ。 さらに、全世界に進出できるようになると、賃金の安いところで工場を作り、賃金の高いところで商品を売るという芸当も可能になる。 多国籍企業にとってグローバル化は自分たちが「より儲ける」ために必要不可欠のものなのである。だからこそ、多国籍企業の所有者である支配階級は、全力でグローバル化を推し進めることに余念がない。 その国の文化や伝統など、そんなものはグローバリストにとっては邪魔な存在でしかない。 文化や伝統のような独自のものが強く残っていると、その文化や伝統に商品をローカライズしなければならないのでよけいなコストがかかる。 コストを消すためにはグローバル化を推進して、価値感も文化も「同じ」にするのが一番だ。 国家の力が強大であると、国が地場産業を守るために関税をかけたり保護貿易を進めたり多国籍企業に寄生をかけたりするので、国家も邪魔になる。 多国籍企業にとって、すでに「国家」という概念は自分たちの邪魔なものになっている。だから国家を弱体化させ、ブロック化させ、最終的に国家を単に地域の役場レベルにまで弱体化した方が良いとグローバリストは考える。 こうした多国籍企業の圧倒的な影響力を背景に選ばれたのが先進国の政治家たちである。 先進国の政治家たちが揃いも揃ってグローバリズムを推し進め、それに対して何の疑問も抱かないのは、そういう人間だけを支配階級が「選択」しているからである。 難民受け入れに反発する国民をどう押さえるか?
そういった目で、現在のヨーロッパで起きている移民や難民の大量流入を見ると、こうした難民を受け入れるというのはグローバリストにとっては「素晴らしいこと」であることであると気付くはずだ。 大量の「安い賃金で働く人間」がなだれ込み、大量の「消費者」が生まれる。 しかも難民が増えれば増えるほど、ヨーロッパが持っていた伝統や文化というものは破壊され、難民たちが持っていた文化もヨーロッパの文化に触れて薄められていく。つまり、両方が同時に画一的な文化に染まっていく。 これは、多国籍企業にとって都合が良い展開だ。 もちろん、30万人も難民が一気になだれ込んで来るのだから、ただでは済まない。 現在のヨーロッパは大混乱に見舞われており、難民が増えるに比して難民排除の動きもまた活発化してヨーロッパ圏は「難民崩壊」する可能性がある。 それでもヨーロッパの政治家たちが大量難民を受け入れるのは、そうすることによって国が混乱しても「多国籍企業は儲かる」からである。 しかし、大量の難民が押し寄せてしわ寄せを受け、難民の受け入れに反発する国民をどのように押さえるか……。 最近、グローバル・メディアは、トルコ海岸で死んだシリア難民の三歳児の死をクローズアップして、「難民を受け入れないと悲劇が繰り返される」「難民を助けなければならない」という洗脳工作を一挙に繰り広げている。 そして、難民の流入に反対する人間は「かわいそうな三歳児を見なかったのか。人間としての感情がないのか」と吊し上げて非難する世論形成を作り上げている。 かくしてユーロ圏には大量の難民が押し寄せても、それに反対することはできなくなっていく。そして、多国籍企業はモノを売る人間が数十万人も増えて歓喜に湧く。 世の中は多国籍企業が儲かる方向で動いている。資本主義社会の支配者は、多国籍企業だからである。 今後、難民の受け入れに反対する人間は、この写真を突きつけられ「かわいそうな三歳児を見なかったのか。人間としての感情がないのか」と吊し上げられることになる。 ▲△▽▼ サッカーとか、ワールドカップの様子を見ていると、「日本戦見てない奴は非国民」みたいな攻撃的な同調圧力が異常に高まっていましたね。全員が同じものに、同じように熱狂することを強制する。この同調圧力がこの20年くらいどんどん高まっている。 均質化圧と同調化圧。それはやはり学校教育のせいなんだと思います。
学校はどこかで子どもの成熟を支援するという本務を忘れて、子どもたちを能力別に格付けして、キャリアパスを振り分けるためのセレクション装置機関になってしまった。 子どもたちを格付けするためには、他の条件を全部同じにして、計測可能な差異だけを見る必要がある。 問題は「差異を見る」ことじゃなくて、「他の条件を全部同じにする」ことなんです。みんな叩いて曲げて同じかたちにはめ込んでしまう。そうしないと考量可能にならないから。同じ価値観を持ち、同じようなふるまい方をして、同じようなしゃべり方をする子どもをまず作り上げておいて、その上で考量可能な数値で比較する。 見落とされているのは、この均質化圧が財界からの強い要請で進められているということです。 彼らからすれば労働者も消費者もできるだけ定型的であって欲しい。
労働者は互換可能であればあるほど雇用条件を引き下げることができるからです。 「君の替えなんか他にいくらでもいるんだ」と言えれば、いくらでも賃金を下げ、労働条件を過酷なものにできる。 消費者もできるだけ欲望は均質的である方がいい。
全員が同じ欲望に駆り立てられて、同じ商品に殺到すれば、製造コストは最小化でき、収益は最大化するからです。 ですから、労働者として消費者として、子どもたちにはできるだけ均質的であって欲しいというのは市場からのストレートな要請なんです。 政治家や文科省の役人たちはその市場の意向を体して学校に向かって「子どもたちを均質化しろ」と命令してくる。 ―均質化と同調圧力を押し返し、本来の「知のありよう」を取り戻すのには、やはり教育がキーワードになっているのでしょうか?
教育だとは思いますよ。でも、今の学校教育は閉ざされた集団内部での相対的な優劣を競わせているだけですから、そんなことをいくらやっても子どもは成熟しないし、集団として支え合って生きて行く共生の知恵も身につかない。 保護者も子どもたちも、どうすれば一番費用対効果の良い方法で単位や学位を手に入れるかを考える。最少の学習努力で最大のリターンを得ることが最も「クレバーな」生き方だと思い込んでいる。 でも、学校教育を受けることの目的が自己利益の増大だと考えている限り、知性も感性も育つはずがない。人間が能力を開花させるのは自己利益のためではなくて、まわりの人たちと手を携えて、集団として活動するときなんですから。 でも、今の学校教育では、自分とは異質の能力や個性を持つ子どもたちと協働して、集団的なパフォーマンスを高めるための技術というものを教えていない。 共生の作法を教えていない。それが生きてゆく上で一番たいせつなことなのに。 僕は人間の達成を集団単位でとらえています。ですから、「集団的叡智」というものがあると信じている。長期にわたって、広範囲に見てゆけば、人間たちの集団的な叡智は必ず機能している。エゴイズムや暴力や社会的不公正は長くは続かず、必ずそれを補正されるような力が働く。
ですから、長期的には適切な判断を下すことのできるこの集団的叡智をどうやって維持し、どうやって最大化するのか、それが学校でも最優先に配慮すべき教育的課題であるはずなのに、そういうふうな言葉づかいで学校教育を語る人って、今の日本に一人もいないでしょう。学校教育を通じて日本人全体としての叡智をどう高めていくのか、そんな問いかけ誰もしない。 今の学校教育が育成しようとしているのは「稼ぐ力」ですよ。 金融について教育しろとか、グローバル人材育成だとか、「英語が使える日本人」とか、言っていることはみんな同じです。 グローバル企業の収益が上がるような、低賃金・高能力の労働者を大量に作り出せということです。 文科省はもうずいぶん前から「金の話」しかしなくなりました。
経済のグローバル化に最適化した人材育成が最優先の教育課題だと堂々と言い放っている。 子どもたちの市民的成熟をどうやって支援するのかという学校教育の最大の課題については一言も語っていない。子どもたちの市民的成熟に教育行政の当局が何の関心も持っていない。ほんとうに末期的だと思います。 ―モノや資源のレベルでも、教育のレベルでも、色んな意味での持続可能性というのは、一人一人がそういった知のマップを作ることだと思います。このマッピングをどうやって可能にして、共生の知恵をもった社会に作ることができると思われますか。 今の日本の制度劣化は危険水域にまで進行しています。いずれ崩壊するでしょう。ですから、目端の利いた連中はもうどんどん海外に逃げ出している。シンガポールや香港に租税回避して、子どもを中等教育から海外に留学させて、ビジネスネットワークも海外に形成して、日本列島が住めなくなっても困らないように手配している。彼らは自分たちが現にそこから受益している日本のシステムが「先がない」ということがわかっているんです。でも、「先がない」からどうやって再建するかじゃなくて、「火事場」から持ち出せるだけのものを持ち出して逃げる算段をしている。 僕は日本でしか暮らせない人間をデフォルトにして国民国家のシステムは制度設計されなければならないと思っています。
でも、日本語しか話せない、日本食しか食えない、日本の伝統文化や生活習慣の中にいないと「生きた心地がしない」という人間はグローバル化した社会では社会の最下層に格付けされます。 最高位には、英語ができて、海外に家があり、海外に知人友人がおり、海外にビジネスネットワークがあり、日本列島に住めなくなっても、日本語がなくなっても、日本文化が消えても「オレは別に困らない」人たちが格付けされている。 こういう人たちが日本人全体の集団としてのパフォーマンスを高めるためにどうしたらいいのかというようなことを考えるはずがない。どうやって日本人から収奪しようかしか考えてないんですから。 http://blog.tatsuru.com/2014/09/05_1112.php イスラム女性が酒を飲み、ダンスをし、ランジェリーを着る 2014-01-25
女性がアルコールを飲んで酔っ払う。そして、男たちの前でダンスする。女性がフィットネスに精を出す。女性がビリヤードをする。女性がベランダに出てタバコを吸う。女性がセクシーなランジェリーを買う。
何か問題があるだろうか? もちろん、先進国で女性がアルコールを飲んでダンスしたところで、それが問題になるわけではない。しかし、それがイランだったら? もちろん、イランでも表立ってこのような行為をしたら、公開処刑にされる可能性がある。しかし、時代は変わりつつある。 厳しい戒律の中、黒いベールに包まれているイラン女性も、ホメイニ師が仕掛けた1979年2月のイスラム革命以前は、実は自由はファッションが許されていたイスラム戒律の緩い国でもあった。ミニスカートをはいていた女性すらもいたのだ。 そんな時代が、イランの底辺で少しずつ戻りつつあるという。もちろん大ぴらではない。ゆっくりと、である。 世界標準に相容れない価値観は消すという流れ
インターネットによる結びつきは、全人類に共通の価値観を定着させようとしつつある。 先進国も、後進国も、今では人々の着ているものは、ほぼ同じものになりつつあり、食べ物の嗜好も統合されてきた。 もちろん、国による違いや地域差も、依然として残っている。犬食が悪いとか、鯨が悪いとか、イルカ漁が残酷だとか、激しい議論がある。 実は、そういった議論は「異質を失くす方向」で統一される可能性が高い。「世界標準に相容れない価値観は消してやる」というのが現在の社会の動きなのである。 かつては、それぞれの国にはそれぞれの衣装があった。 日本でもアメリカでもイギリスでもアフリカでも中国でも、それぞれその国特有の「衣装」があった。 現在は、そういった衣装は「民族衣装」と特定カテゴリー化されて、気がつけば「普段着るものではない」ということにされている。 そして、どこの国でもプライベートはTシャツ、ビジネスではスーツというものに統一されていく。そして、世界はどこも代わり映えしない世界となった。 どのようにして、そうなるのか。 それはグローバル企業の莫大な「広告」によって為される。広告によって人々の意識は変えられて、いつしかTシャツやジーンズ等が良いという嗜好になっていくのである。 そして、それと平行して、色も質も豊富なTシャツやジーンズ等が大量に入って来る。それらは先進国の若者も着ているので、後進国の人々も嬉々としてそれを着る。 グローバル化の本質は、画一化なのである
インドの女性たちはその美しいサリーを捨て、Tシャツにジーンズを履くようになっている。 男たちはとっくの前に民族衣装など捨てていて、背広とワイシャツとネクタイに変身している。 カンボジアも10年ほど前まで誰もがクロマーと呼ばれる手ぬぐいを帽子の代わりに頭に巻いていたが、今どきそんなカンボジア人がいたら、ただの田舎者だと思われるだけだ。 カンボジア人は今や工業製品で作られた安物の帽子をかぶるか、帽子をかぶらないでヘアスタイルの方に凝るようになった。 彼らにしてみればそれは新しいものを追い求めているのかもしれない。しかし、先進国の人々が見れば、「カンボジア人がグローバル化された」ということなのである。 グローバル化の本質は、画一化だ。 グローバル化によって画一化されることで、企業は「同じ製品」をどこの国でも大量に売りつけることができる。 国ごとに好みが違っていたら、その国に合わせてローカライズしないとならない。企業にしてみれば手間がかかる。インド女性がサリーを着ていたら、多国籍企業のジーンズ会社は困るのだ。 サリーは大量生産できないし、インドにしか売れない。しかし、インド人を画一化させて全員にTシャツとジーンズを履かせることに成功すれば、グローバル化された企業はインドで大儲けすることができる。 インド人にTシャツとジーンズを履かせること、それが「画一化」させるということである。 グローバル化の中で画一化されるように洗脳された
グローバル経済は見かけだけではない。考え方も、技術も、欲しがるものも、すべて画一化する。 たとえば、インターネットを使うための技術は世界中どこでも同じものである。そして、インターネットに接続されるOSや機器も数社ほどの製品に統一されている。 パソコンならマイクロソフト、スマートフォンならアップルやグーグルが頭脳を独占している。その世界で人々は画一化されたブラウザを使い、画一化されたSNSで友達を見つける。 車を見ても、バッグを見てもそうだ。先進国の男も後進国の男も欲しがる車はメルセデス・ベンツであり、女の欲しがるバッグはルイ・ヴィトンである。 すべての国の人たちが判で押したかのようにベンツやルイ・ヴィトンを欲しがる。画一化されたのだ。グローバル化の中で画一化されるように洗脳されてしまった。 しかし、本人だけは、なぜか自分が「画一化」されたとはまったく気がついていない。気がついていないが、しっかり「画一化」されてしまっている。 味覚もそうだ。その国にどんな飲み物があったとしても、グローバル化された社会で人々はコカコーラを飲み、ペプシを飲む。ラオスで飲むコカコーラも、タヒチで飲むコカコーラも味は同じだ。画一化されてしまっている。 中国は今でもポーレイ茶を飲んでいる。中国や香港やチャイナタウンを歩くと、あの独特の香りを街中で嗅ぐことができる。 しかし、若者はコカコーラを飲み歩き、マクドナルドのハンバーガーを食べる。 こういったグローバル化はイスラムの世界をも浸食しているのである。いずれ、イスラム世界も長い時間をかけてグローバル化されて、画一化されて来るだろう。 イランの女性たちの動きは、そういった時代の最先端となっている可能性がある。 アルコールを飲んで、ダンスをして、楽しむイラン女性。ホメイニ師が見たら激怒して処刑してしまうだろう。
おしゃれを楽しむイラン女性。もともとイラン女性はとても美しいことで知られている。
ベランダで顔も髪も隠さないで喫煙するイラン女性。タバコは別に珍しくない。髪も顔も隠さないというところが珍しい。 ランジェリーに凝るイラン女性。黒いベールの下は、とてもエロチックであると言われている。 ビリヤードをするイラン女性。こうやって女性が少しずつ街に出て人生を楽しむことが、時代を変える第一歩になるが、皮肉にもそれはグローバル化の中に取り込まれる第一歩にもなる。 http://www.bllackz.net/blackasia/content/20140125T0348290900.html そういえば、つい数年前までインドでは髪や身体を洗う時には泥を使っていたが、今では安く変える石鹸やシャンプーが浸透していっている。 これらの石鹸やシャンプーは貧しい人たちでも買えるように小分けで売られている。
メーカーはユニリーバ。イギリス企業(正確にはイギリスとオランダに経営機能を持つ多国籍企業)である。 インドに浸透していく多国籍企業ユニリーバ。男は「ユニリーバ」と聞いても知らない人も多いかも知れないが、女性はみんなこの企業を知っている。
侵略されても、それが文化侵略などとは思わない
ユニリーバはインドで確固たるブランドを築いている。これらの人たちが生活レベルを上げるたびに、ユニリーバの高級商品が彼らの手に渡っていくことになる。 グローバル化は、安い労働力と巨大な市場を求めて世界中のどこにでも浸透していくから、地元産業は衰退し、残った企業は淘汰されていく。 日本では昔、よろず屋という形態の店があったが、今ではそんな店を捜しても見つからないかもしれない。なぜならすべて淘汰されてコンビニがそれに取って変わったからだ。 フィリピンに、サリサリ・ストアという「よろず屋」「雑貨屋」形態の個人ショップが多く見かけるが、もしフィリピンの経済状況が上がっていくなら、これらのサリサリ・ストアは淘汰されて消えていくことになる。 国がグローバル化に組み込まれると、このような個人店舗から吹き飛んでいくのは定石の動きだから誰でも分かる。 すでに1985年前後からグローバル化に飲み込まれたタイでも、コンビニエンス・ストアが幅を利かすようになって個人ストアを駆逐してしまった。 コンビニで売られるものは、自国の大企業のものと、海外の多国籍企業のものに二分される。 日本でも、コカコーラやエビアンなどは普通に売っているが、これらが多国籍企業であるのは言うまでもない。 スーパーもデパートもショッピングモールも、地元のものがスケールで敗退して、莫大な資本を投下できる多国籍企業がゆっくりと確実にその地に浸透していく。 テスコ、カルフール、ウォールマートという巨大ショッピングモール店はそれぞれイギリス、フランス、アメリカの資本だが、買い物をする人間がそんなことはいちいち考えていない。 趣味が良い空間で、大量のものがあって、安く買えるのであれば、どこの国の資本でも歓迎するし、それが文化侵略などとは思わないのである。 フィリピンのサリサリ・ストア。この国もグローバル化に飲まれると、やがてこういった個人商店の店は、大資本によるコンビニやショッピングモールに駆逐されて消えていくことになる。
すべてが画一化されたようなモノクロの世界
外国資本のショッピング・モールに入っているテナントは、マクドナルドだったり、ケンタッキー・フライド・チキンだったり、あるいはスターバックスだったりする。 しかし、それらに目くじらを立てる人間もいない。これらは新興国にとって、先進国の香りがする「素晴らしい企業」であり、文化侵略どころか「憧れ」だ。 かくして、これらの多国籍企業はゆっくり、着実に、アジアに浸透していき、やがてどこの国に行っても代わり映えのしない多国籍企業の看板に埋め尽くされる。 グローバル化はアジアを激変させている。そして、文化を画一化させていく。 多様化を失っていく文化は、人間の増加によって次々と野生動物が絶滅していく姿にだぶる。 グローバル化に対応できない国は絶滅していく。グローバル化に対応した国は均質化・画一化していく。グローバル化がとことん浸透すると、賃金もやがては画一化していく。 多国籍企業は経済的な論理で激しいグローバル化を追い求めているが、その結果についてはほとんど無視されているように思える。 グローバル化の行き着く先は、すべてが画一化されたようなモノクロの世界だ。世界中、どこに行っても同じ光景、同じ商品、同じ価値観で固定化される。 多国籍企業は、その商品が全世界を覆い尽くすまで止まらないのは間違いない。この動きに歯止めはかからない。資本主義が終わるまで続く。 すでに私たちは、日本にいても、タイにいても、シンガポールにいても、コカコーラを飲み、マクドナルドを食べ、スターバックスでくつろぐことができる。 幸せだろうか? これがどこの国か分かるだろうか。タイだ http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131110T2225020900.html
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