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□野球少年丸谷君の「飛び降り自殺」は、警察捜査の怠慢か [PJニュース]
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2388895/detail?rd
野球少年丸谷君の「飛び降り自殺」は、警察捜査の怠慢か
【PJニュース 08月31日】− 昨今、事件における警察の初動ミスや警察捜査の怠慢が問題視されている。今から約7年前の1999年12月28日、和歌山市内の中学に通う15歳の野球少年、丸谷康政君は、自宅近くのビルから転落し、病院に運ばれた後、死亡した。管轄の警察は、丸谷君の死を「ビルからの飛び降り自殺」と断定した。しかし、丸谷君のご両親は、息子は「自殺なんかじゃない」と、事件から7年経過した今も、訴え続けている。
丸谷君の死を巡って、警察の初動ミスや面倒だから捜査をしたくないという警察の怠慢などはなかったのだろうか。記者は昨年8月、丸谷君のご両親に、息子さんが死亡した直後の思い、息子さんが死亡された後に遺族として起こした行動などについて取材した。今回は、丸谷君が死亡した直後の警察の初動捜査の実態について、ご両親に当時の状況を聞いてみた。
−事件当日、誰から息子さんの死を「自殺」だと聞かされたのですか。
「息子が救急車で病院に運ばれ、ICUで医師が治療にあたってくださっているときに、警察手帳を持たない6人の警察官たちから、『自殺』を認める書類に署名捺印を要求されました」
−そのときは、息子さん、医師にICUで治療してもらっているときですよね。
「そうです。まだ、息子は生きているときに、『自殺』としての調書をとられたのです」
−拒否はしなかったのですか。
「拒否をすると、息子の着衣を貸してほしいと言われました。なぜ、自殺と言う書類が出来あがっているのに着衣が今頃必要なのですか。着衣を見るならこの場で見てくださいといい、警察官たちは、私の要求を一旦、了解してはくれたのですが、結局、息子の着衣の入った袋を持って、車で走り去ってしまいました」
−警察官たちが持ち去った息子さんの着衣は、その後、遺族のもとに、返還されたのですか
「はい、返してもらいました」
−息子さんの治療にあたった医師からは、何か説明を受けましたか。
「医師に『先生、殴られたキズと そうでないキズと見分けられませんか?』と訪ねると『警察がビルの3階から転落したと言っていますから』と、私の質問には、まともな答えがかえってきませんでした」
−息子さんは12月28日にビルから転落し、治療の甲斐なく死亡されたのはいつですか。
「息子は翌日の29日、息を引き取りました。死因は『病死』となっています」
−死因が病死とは、死体検案書の死因の項に病死にチェックが入っているということですか。
「死体検案書の文字を二重線で消し、死亡診断書となっていました。死因の種類は@病死及び自然死に丸印が入っていました。死因の原因は脳挫傷、頭部打撲です」
−司法解剖はしなかったのですか。
「司法解剖はされませんでした。警察の説明によると、司法解剖しなかったのは、『警察は24時間しか司法解剖する権利がない、息子さんは2時間オーバーして生きたから』と言われました」
−通常、警察は死体検案時に、死体の写真を撮りますが、その写真を警察から見せてもらうことはできましたか。
「警察は、死亡した息子をみていないし、写真を一枚も撮っていませんでした。私たち遺族が撮った息子の腫れた青アザや、血のついた顔写真を見せると、警察は『写真を撮っていないので、1枚くれませんか?』といわれました」
−ご両親は、警察に息子さんの写真をあげたのですか。
「いいえ。生きてる息子に死亡を認めさす警察を信用できませんでしたからあげませんでした」
−治療にあたった医師には、その後、詳しい話を聞く機会はあったのですか。
「3年半経ったころ、医師と話しをする機会がありました。もっとも、何度も面談をお願いして、一カ月かかって、やっと話しを聞くことができました」
−医師と話をして、何か、新たな事実は分かりましたか。
「3年半たって出てきた息子のレントゲンの名前は『A』となっていました。事件直後、レントゲンを見ながら『先生、この首の後ろから脊髄に向かって突き刺さった針はなんですか?』と質問したレントゲンがなかったので、『あのレントゲンはどこにあるのですか』と聞くと「そんな物は初めからありません、異議があるのなら正式な手続きをしてから来てください」との事でした」
−事件直後の息子さんのレントゲンを再度、見せてもらえなかったのですか。
「見せてもらえませんでした。でも、その時、医師は、今まで見せてくれなかったレントゲンを、たくさん出してきました。月日が過ぎても医師があのレントゲンを隠さなければならない理由を考えると、警察への度重なる不信が確実になって行くばかりで、体が固まって動けなくなってしまいました」
−事件から7年経過した今、警察や医師に対する思いは、どのようなものでしょうか。
「現場に立つ人の気持ち次第で、どんなに医学や捜査科学が進歩しても私達の所にまで届かず、真実が捻じ曲げられてしまうことがあるのだということも、わかりました」
「息子は、歯型が残るほど くちびるを噛み締めていました。くちびるの状態から、息子がどんな恐怖や痛みに遭ったのかと思うと悲しみが募るばかりです。ですが、ただ、単に悲しいだけでは済まないことを、息子の死を通して出会った私たち遺族と同じ体験をした被害者から、学ばせていただきました。遺族の主張は、いつまでも訴え続ける必要があると思っています」【了】
■関連情報
『生きる』15歳で逝った息子のメッセージ
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1366690/detail
『生きる』ホームページ
http://www4.ocn.ne.jp/~marutani/
※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJニュースはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。
パブリック・ジャーナリスト 渡辺 直子【兵庫県】
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2006年08月31日12時55分
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□『生きる』15歳で逝った息子のメッセージ [PJニュース]
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1366690/detail
『生きる』15歳で逝った息子のメッセージ
【PJニュース 08月29日】− 1999年12月、和歌山市内の中学に通う15歳の野球少年丸谷康政くんは、ビルから転落し(病院に運ばれた後死亡)、警察に「ビルからの飛び降り自殺」と断定された。しかし、康政くんのご両親は、息子は「自殺なんかじゃない」と訴え続けておられる。記者は康政くんのご両親に、息子さんが死亡した直後の思い、息子さんが死亡された後に遺族として起こした行動、そして、現在の心境について取材した。
事件概要
今から6年前の1999年12月28日、和歌山市内の中学に通う15歳の野球少年丸谷康政くんが、自宅近くのビルから転落した。丸谷くんは、頭蓋骨骨折・脳挫傷という重傷を負い、救急車で近くの病院に搬送されたが、翌29日早朝、救命の甲斐なく、死亡した。管轄の警察は、丸谷くんの死を、「ビルからの飛び降り自殺」と断定した。
ご両親は、「自殺の動機がない」と主張
丸谷くんのご両親は、康政くんに「自殺の動機がない」ことから、警察が「ビルからの飛び降り自殺」と断定したことに納得がいかず、2000年6月29日、警察に対して、「再捜査を求める要望書」を出した。2005年夏、警察は、丸谷くんご両親の再捜査の要望を、いまだに、受け入れてもらっていない状況だという。
−息子さんは、どのような状況下で、ビルから転落されたのですか。
「1999年12月28日の未明のことでした。ふと、私が目を覚ましますと隣の部屋で寝ているはずの息子がいないことに気付きました。トイレを見に行ってもいなかったので、私は急いで自転車に乗って、息子を探しに出ました。家のすぐ近くの曲がり角を右に振り向くと、パトカーの赤いランプが点滅していたので飛んでいきました」
「目の前のビルの持ち主夫婦らの他に、6〜7名の群集と、警察官2人がビルの横の駐車場で人だかりをつくっていました。人だかりを見て私は『ここで何かあったんですか?』と尋ねましたが、その質問に誰も答えてはくれませんでした。私は仕方なく、息子を探しに町内を一周しましたが、どうしても、ビルの横の駐車場の人だかりが、気になったので、もう一度、パトカーのところへ戻りました。私は、『息子がいないんです。ここで何があったんですか』とひとりの警察官に尋ねたところ、『ここで男の人が倒れていたんです。今、病院に運ばれました。おたくの息子さんかどうか、わかりませんが、見に行きますか?靴は家にありましたか?』と尋ねられました。靴の質問に対して、私は、『さあ・・・』と答えました」
−息子さんは、その夜、靴を履かずに、家から外に出て行かれたのですか。
「靴は、履いて出ています。しかし、息子は裸足の状態でビルの横の駐車場で発見された為、警察官は、私に靴の確認をされたのでしょう」
−息子さんが病院での手当ての甲斐なく、死亡された時のお気持ちはどのようなものでしたか。
「死亡したという悲しみよりも、警察に、息子の死を『ビルからの飛び降り自殺』と速断されてしまったことに対する憤りのほうが、強かったです」
−息子さんは自殺ではないというご両親の主張を、その後、どのような方法で、多くの人たちに知ってもらう努力をされたのですか。
「知人の進言でマスコミへ取材依頼したり、県会議員を同行願った上での管轄の警察署への聞き取り、県警本部への要望書提出、生命のメッセージ展での紹介活動などです」
−息子さんが亡くなられて6年の歳月が過ぎようとしていますが、現在のご両親の心境は、どのようなものですか。
「康政を亡くして5年8ヶ月。この間、私たち夫婦は、さ迷うように犯罪被害者の人達が参加する集会に出かけました。康政の死があまりにも、悔しく、不憫だと思う気持ちを、犯罪被害者の方々に聞いてほしいとも思いました。集会では、いろいろな犯罪の被害に遭われた方から、いろいろな話を聞くことができました。集会に参加し続けているうちに、康政の死の真実を追究する目的は、犯人に対する刑量を極めるだけのことではなく、被害者遺族が悲しみから立ち上がる為には、今後、私共のような苦しみを持つ被害者が増えないためには、どのような行動を被害者遺族が起こせばいいのかを考えるようになりました。生命のメッセージ展に参加させていただき、康政からのメッセージを、多くの人たちに伝えることもいたしました。康政の伝えたかったことは、言うまでもなく、『生きたかった』というメッセージです」
−最後に、康政くんとの思い出をお聞かせください。
「康政は、小さいころから、スポーツが大好きでした。小学5年生から野球に興味を持ちはじめ、6年生のときには、甲子園に高校野球の観戦に連れて行ったことを、つい、昨日のことのように思い出すことがあります。息子は、夢を多く持つ少年でした。絶対に自殺などするはずはないのです。この世に生を授かっておりながら、15歳という若さで、不慮の死を遂げることになった康政のことを想うと不憫でなりません」【了】
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パブリック・ジャーナリスト 渡辺 直子【兵庫県】
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2005年08月29日06時25分