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□畠山被告内面の闇…連続児童殺人、真相解明は法廷に [読売新聞]
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060810-00000201-yom-soci
畠山被告内面の闇…連続児童殺人、真相解明は法廷に
子育てのストレス、世間への恨みやねたみ、自己中心的な性格――。
秋田県藤里町の連続児童殺人事件で、近所の小学1年米山豪憲(ごうけん)君(当時7歳)に続き、長女彩香さん(同9歳)に対する殺人罪で9日、追起訴された無職畠山鈴香被告(33)。一連の捜査を終えた能代署捜査本部は、二つの事件の背景として、畠山被告の特異な内面を指摘する。
しかも「イライラしたから」という理由だけで自分の娘を橋から突き落とすなど、犯行はいずれも衝動的。なお不可解な点も多く、真相解明の舞台は法廷に移る。
畠山被告が彩香さんを殺害したとされる4月9日。2人は午後、コンビニエンスストアに買い物に行き、畠山被告は彩香さんに大好きなおもちゃを買った。
(読売新聞) - 8月10日5時57分更新
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ピヨピヨ頭の最終兵器 [どん底あるいは青い鳥。]
http://www.asyura2.com/0601/nihon20/msg/112.html
投稿者 white 日時 2006 年 6 月 20 日 23:08:52: QYBiAyr6jr5Ac
(...)
容疑者の人となりについても、真犯人でない場合には焦点がぼやけて一つの像を結べない。そこで持ち出されるのが「心の闇」と「二面性」である。「心の闇」はもはや常套句のようなものだが「二面性」が使われる場合にはより注意が必要である。
日本の誤報合戦には「イラクに大量破壊兵器」や「ジェシカ・リンチ救出作戦」のようなプロットの仕掛け人は存在しない。「あいつを陥れてやろう」といった意図を持つ中枢などは存在せず、それぞれの人がそれぞれの立場で「いつもどおりに」動いており、それがそのまま冤罪製造マシンとなっている。
ところがこの「意図の欠如」のおかげで容疑者に有利な話もダラダラ流れてくる。「彩香といっしょに食べにきて彩香はそっちのけで携帯を見ていた」などと目撃した人に憎々しげに語らせる。ところがそれは同時に、鈴香が彩香を連れて食べさせていた、つまりネグレクトとは程遠いことの証左ともなる。
そのうち「二人はいい親子だった、鈴香は彩香のことをかわいがっていた」などという証言も出る。だが容疑者は子どもをネグレクトしていたという証言もある。ここで「二面性」が持ち出される。「二面性」という接着剤で矛盾する話を無理やり貼り合わせるのだ。良い面があることもまた「二面性」の名のもとに凶悪である証拠となる。
少年Aの場合にも、警察からは猫殺しやホラービデオマニアといった情報が次々とリークされてくる。ところが近隣の住民は誰もAが猫を虐待するのを見てはいないし、むしろ「明るい子だった」と言う。当時界隈をうろついたルポライターで、Aによる猫虐待の事実を掴んだ者は一人もいない。
Aは犬や亀もかわいがっていた。ならば猫虐待の話は、何より人の首を切ったという犯行の事実はどうなるのか。この矛盾を説明するために持ち出されたのもやはり「二面性」だった。
二面性だの多重人格だのは、世間的には非常に魅力的な何かであるらしい。「二面性だ」と言われれば何となく納得してしまう。だが「真の多重人格」か「矛盾を接着させるための偽・多面性」なのかを見極めるためには「多面性そのもの」の目撃証言の有無に注目すべきである。
少年Aの場合も畠山容疑者の場合も、接した人は誰一人「急に人格が変わるので驚いた」などとは語っていない。ある人は「少年は明るい性格だ」「畠山親子は仲がよかった」とポジティブな証言をし、別の人は「少年は猫を虐待していた」「鈴香は彩香をネグレクトしていた」と専らネガティブな証言をする。
付き合いの深い人にはネガティブな面を見せ、浅い人にはポジティブな面を見せるというのでもない。こうした場合、ネガ・ポジのどちらかが偽りである可能性を忘れてはならない。ところがネガティブな証言を嘘だとすると、犯行に至るリンクが欠損する。刷り込みの効いたピヨピヨ頭にはそれは耐えられない。
それで「二面性」を持ち出す。「二面性」「多面性」はあらゆる矛盾を隠す魔法のマントである。刷り込み内容を死守したいピヨピヨ頭にとってはなくてはならない武器なのだ。
「二面性」が持ち出される場合、条件反射的に冤罪や誤認逮捕の可能性を頭の隅に置くほうがいいように思う。私も最初は豪憲くん殺害は鈴香の犯行だろうと思っていた。だが「自白まで16時間」や「供述の変遷」それに「二面性」までが揃った今となっては、果たして本当に彼女の犯行なのかと疑わないではいられない。
もちろん真実は知っている人にしかわからない。それでも容疑者のシロ性を窺わせる現象は確かに目の前にある。人々の頭がピヨピヨではなく、脳のどこかに少しでも「もしかしたら」という思いがあるならば、今のような乱痴気報道にはならないだろうとも思うのである。