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□冤罪製造軍団ザ・紅林組 [どん底あるいは青い鳥。]
http://donzokoblue.blog55.fc2.com/blog-entry-112.html
2006/07/27
冤罪製造軍団ザ・紅林組
島田事件について読んでいて「紅林人脈」という言葉に行き当たった。何でも静岡県には紅林警部(補)という必殺冤罪製造請負人がいたそうで、昭和三十年代にはずいぶん問題になったらしい。
【参照】紅林警部補 必勝の方程式!?@くびったけじゃないもん!(キャッシュ)
(島田事件で)直接の捜査指揮を取った警部補は、のちに、冤罪事件捏造の元凶と言われる紅林麻雄警部の部下で「紅林人脈」の1人であり、5月に入ると紅林本人も応援に駆けつけてきた。(引用元)
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/muzai.htm
アムネスティのレポートには拷問について語る赤堀氏の言葉が引用されている。
..."the interrogators hit me on the head, almost strangled me with their hands and kicked me… I decided to agree with all their questions because I could not put up with the torture."
http://web.amnesty.org/library/Index/ENGASA220062006?open&of=ENG-2AS
幸浦事件は、一家四人が失踪するという大事件である。別件で捕まえた若い人を拷問にかけて自白を引き出したのが紅林麻雄警部補だった。
4人の自白は過酷な拷問のためだった。近藤らは焼火箸で手や耳に押し付けられ自白を強要された。(引用元)
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage181.htm
この事件では「近藤の自供にもとづき4人が絞殺され埋められていた遺体を発見した」とのことで、それだけ聞けば秘密の暴露だと思うところだ。その種明かしは以下のようなものだった。
事実は自白の一週間前に警察犬や鉄棒で付近の海岸を捜索し遺棄場所を察知していた。その場所を近藤らに誘導し自白させたものだった。(引用元)
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage181.htm
別の記述によれば事情は少し異なる。
翌日、近藤勝太郎さんが「自白」、14日に再び死体探しが行われた。近藤勝太郎さんが最初に指し示した場所からは発見されず、一旦引き上げた後に再開された捜査により萩原さん一家4人の遺体が発見された。…「遺体発見場所」には、事前に目印の棒が挿されていた事が、公判においても証言されている…。(引用元)
http://www.bekkoame.ne.jp/~m_m_m_/e_satiur.html
「すでに発見されているものを、いかにものように見つけさせる」のは警察の常套手段であるらしい。
私が最高検刑事部長のとき、甲府地検の管内で、警察官が死体を埋めたと思われる場所をスコップで掘っているのを付近の婦人が見ていて、その警察官が人骨を発見した後、また元どおり埋めているのを見て驚いたという記事が新聞に掲載されたことがあります。その新聞には「こういうことは捜査ではよくあることです」との県警捜査一課長の談話が掲載されており、それを読んで愕然としました。(引用元)
http://www.ne.jp/asahi/kojima/law/trail/trial_book_7_3.htm#b7-4
「供述どおりに見つかった」も鵜呑みにはできないということだろう。
紅林組がそんないいかげんな捜査をしているうちに、同じ静岡県内で再び一家4人が殺害された。二俣事件である。この事件にもやはり紅林警部補が登場し、またしても無実の人を捕まえる。
取調べで須藤に殴る蹴るは当たり前の拷問と自白の強要・誘導を徹底的に行った。たまりかねた二俣町署の山崎兵八刑事が新聞、法廷で拷問の事実を告発した。
ところが、山崎刑事は一審判決の当日、偽証罪で逮捕され「精神疾患」のレッテルを貼られて免職させられた。更に自宅を不審火で焼失する被害にあっている。
拷問もあまり酷いと同僚から告発されるということか。しかし善意の人がなぜそんな不幸な目に遭わねばならないのか、警察とは不気味はところである。
犯行時刻は午後11時過ぎ、現場にある時計がその時刻で止まっていた。
須藤には犯行時間の1月6日の午後11時には明白なアリバイがあるのに「実際の犯行は午後8時30分から9時であり、推理小説をまねて現場の時計の針を指で回しアリバイ工作をした」という自白を強要した。
ところが、須藤の着衣からは返り血が検出されないこと、須藤の足のサイズが24センチであること(現場に残っていた足跡は27センチ)…など、秘密の暴露は全てデッチ上げと最高裁で指摘された。(引用元)
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage190.htm
この事件については以下のような記述も見つかった。もはや何でもありである。
証拠偽造の典型は、捜査官が犯行現場に凶器を埋めておいて、それを被疑者が埋めたものだと主張した「二俣事件」のような場合ということになろう。(引用元)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/96-2/mathumiy.htm
こうした捏造癖のある警察は結局「犯罪者天国」を作ってしまう。現に4人を殺害した犯人が二組も(同一犯であれば8人も殺害した者が)野放しになっているのである。
小島事件は死刑求刑例ではないものの、やはり紅林警部の活躍した事件である。二俣事件からわずか4ヶ月後に、主婦が斧で殺されたものだ。
昭和33年6月最高裁は「自白に任意性が無い」として原審を棄却、東京高裁に差し戻した。昭和34年12月12日東京高裁で永松に無罪が確定した。
わずか2年間で無罪の2人に極刑と1人の無期懲役をつくりだした紅林警部補は昭和38年9月、脳出血で急死した(55歳)。(引用元)
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage196.htm
紅林警部補が死んだらそこで終わりではなかった。紅林チルドレンが島田事件、袴田事件と次々に冤罪を作ってゆくのである。袴田事件は今や国際的に日本の恥を晒すケースであるが、未だに再審請求中であり、逆転無罪となったわけではない。
一審公判中の昭和42年8月31日に味噌工場の醸造用味噌タンク内から、ズボン他5点の衣類が発見されたとし、袴田の実家へ出向いた捜査官が、袴田のズボンと生地及び切断面が一致する布を発見したと発表する。
この段階で捜査本部は、当初言っていた「犯行時はパジャマを着ていた」が一転して「ズボンを着ていた」ということにすりかえてしまった。しかも、この5点の衣類は全て袴田のサイズではなく、着用できない事実が後日判明する。(引用元)
「はけないズボン」の衝撃写真がこちらにある。以下にコピーしておく。
http://blog55.fc2.com/d/donzokoblue/file/hakenai.jpg
笑ってはいけない。裁判所がこれでも証拠物としてOKを出しているのだ。しかも袴田氏を逮捕したそもそも理由は「パジャマに微量の血痕と放火に使用された油がついていたから」なのに、そのパジャマはどこに行ったのか。冤罪を作るのはやはり最終的には愚かな裁判官だという一例である。
袴田氏への拷問の様子はアムネスティのレポートにも掲載されている。また下の引用は袴田氏の獄中書簡による。
...he was denied food and water, not allowed to use a toilet and kicked and punched. He also states that he was subjected to sleep deprivation.(引用元)
http://web.amnesty.org/library/Index/ENGASA220062006?open&of=ENG-2AS
殺しても病気で死んだと報告すればそれまでだ、といっておどし罵声をあびせ棍棒で殴った。そして、連日2人1組になり3人1組のときもあった。午前、午後、晩から11時、引続いて午前2時まで交替で蹴ったり殴った。それが取調べであった。(引用元)
http://www.h3.dion.ne.jp/~hakamada/jiken.html
警察も裁判所も腐り切っている。死刑囚の面倒を見る刑務官が「この人は無実、冤罪だろう」と感じるケースも多々あるらしい。
東京拘置所には、死刑が確定してから五年以上も経過しているのに、いまだに処刑されない、平沢、竹内という二人の死刑囚がいます。
当局も、誤判の危惧を持っており、今もって、二人を処刑することができないのです。私の知っている幸浦事件の死刑囚は、十一年目に無罪となり釈放されました。私達看守の間でも、判決以前から、無罪だといっておりました。…
現に私もいくつかの誤判を疑わせる資料を持っています。死刑を言い渡された被告二人、無期一人に無罪の可能性があります。それくらい日本の裁判は信頼できないものなのです。威信欠如なのです。
もしこのまま二人が死刑になり、後で間違いと分かったも、取り返しはつきません。それなのに、死刑制度が問題にならないのが、私には不思議に思えます。大きな不満でもあります。
(「第十三章 死刑制度の犠牲者たち@帝銀事件 平沢は無実だ!」より引用)
http://www3.ocn.ne.jp/~izaki/hirasawa14.html
幸浦事件、二俣事件、小島事件では、いずれも最高裁が原審を破棄した。島田事件など4件の再審無罪事件も今は昔、袴田事件や名張事件などもとうに無罪となるべきなのに、立ち止まり、引き返すことが今の日本の司法にはできない。「当局も誤判の危惧を持っており処刑することができない」とはどういうことか。
冤罪で死刑にされるのは酷いと素直に感じ、ではその酷い状況を忍ばねばならないほど死刑に効用があるのか? と考える。答えは「ない」。まともな判断力を備えた者なら、その時点で誰だって死刑制度に否という答えを出すはずだ。多くの国の賢明な人々はみなそうしている。まともな裁判のできないこの国だけが、いつまでも死刑にしがみついている。
▽関連記事
□幸浦事件(紅林警部補・捏造事件−1)
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage181.htm
幸浦事件(紅林警部補・捏造事件−1)
−経緯−
昭和23年11月29日、静岡県磐田郡幸浦村(現、浅羽村)の海岸沿いにあるアメ製造業一家4人(夫・34歳、妻・28歳、長男・5歳、次男・1歳)が失踪した。失踪当日まで変わった様子がないこと、妻の眼鏡が自宅にあることなどから事件に巻き込まれた可能性があるとみて国警・静岡県本部は10日間で延べ2000人を動員し捜索した。海岸に向かう途中で赤ん坊のオムツが発見されたが手掛かりは掴めず捜査は行き詰まった。
翌年の2月12日、近藤勝太郎(当時23歳)、小島敏雄(当時19歳)が別件で逮捕された。が、捜査本部は近藤らに一家4人殺害の犯人として取り調べを行う。14日、近藤は一家4人の殺害を自供した。同日、共犯の近藤糸平(当時45歳)と盗品を買い受けたとして吉野信尾(当時38歳)も逮捕された。
−公判(死刑から無罪へ)−
警察は、近藤の自供にもとづき4人が絞殺され埋められていた遺体を発見した。
その後、近藤ら4人は無実を訴えたが昭和25年4月、静岡地裁は近藤勝太郎、小島、近藤糸平に「3人が共謀して強盗殺人をした」として死刑、吉野に懲役1年を言い渡した。昭和26年5月東京高裁は4人の控訴を棄却。
昭和32年2月、最高裁は「重大な事実誤認の疑いがある」として原審を破棄、高裁へ差し戻した。
昭和38年7月、最高裁は検察側の上告を棄却し近藤ら4人に無罪が確定した。だが、主犯とされた近藤勝太郎は昭和34年8月に持病の癲癇がもとで無実を手にすることなく34歳で獄死した。
−警察のデッチ上げ/紅林警部補−
4人の自白は過酷な拷問のためだった。近藤らは焼火箸で手や耳に押し付けられ自白を強要された。取り調べも犯人しか知りえない「秘密の暴露」では近藤らの自白で死体を埋めた場所が判ったという検察側の主張は、事実は自白の一週間前に警察犬や鉄棒で付近の海岸を捜索し遺棄場所を察知していた。その場所を近藤らに誘導し自白させたものだった。
この捜査主任は国警静岡県本部刑事課の警部補「紅林麻雄」だった。この県下一の゛名刑事゛はその後《二俣事件》、《小島事件》など次々と冤罪事件を生み出していった。紅林は別名「拷問王」と呼ばれ、無実の人でも極刑の殺人犯に仕立て上げる゛腕゛を持っていた。紅林捜査方式は肉体的拷問・徹底した妖計・上司と部下の連携(アメとムチ)という図式でデッチ上げを繰り返していた。
これで、351回の表彰を受けているというから呆れるばかりである。
□二俣事件(紅林警部補・捏造事件−2)
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage190.htm
二俣事件(紅林警部補・捏造事件−2)
−経緯−
昭和25年1月6日深夜、静岡県磐田郡二俣町(現、天竜市)で一家4人(夫・46歳、妻・33歳、長女・2歳、次女0歳)が殺害された。両親は頸部を匕首(あいくち)で刺殺、長女は絞殺、次女は母の下で圧死していた。川の字で寝ていた男児3人は無事だった。
7日朝、長男の連絡で二俣署の捜査班が現場に急行し捜査を開始した。現場の六畳間は押し入れが荒らされ柱時計は11時2分で止まっていた。家の外には27センチの足跡が残っており、手製の匕首と血染めの手袋も発見された。
警察は、素行不良の者を調べていくが、その中で奇術師一家の長男・須藤満雄(当時18歳)のアリバイが明確でないとして2月23日別件で逮捕した。
須藤は無実を主張したが、その後犯行を自供したため3月17日、殺人罪で起訴した。が、起訴後に自白は拷問により強要されたとして無実を訴える。昭和25年12月27日、静岡地裁は死刑判決。昭和26年9月、東京高裁は須藤の控訴を棄却した。
昭和28年11月、最高裁は「自白の事実性に疑いがある」として原審破棄、東京高裁へ差し戻した。昭和37年10月26日、東京高裁で検察の控訴を棄却し須藤に無罪が確定した。
−またしても紅林警部補の拷問、捏造−
この事件も《幸浦事件》、《小島事件》同様、国警静岡県本部・紅林警部補のデッチ上げだった。取調べで須藤に殴る蹴るは当たり前の拷問と自白の強要・誘導を徹底的に行った。たまりかねた二俣町署の山崎兵八刑事が新聞、法廷で拷問の事実を告発した。
ところが、山崎刑事は一審判決の当日、偽証罪で逮捕され゛精神疾患゛のレッテルを貼られて免職させられた。更に自宅を不審火で焼失する被害にあっている。
紅林警部補の取り調べも実にいい加減で、須藤には犯行時間の1月6日の午後11時には明白なアリバイがあるのに、「実際の犯行は午後8時30分から9時であり、推理小説をまねて現場の時計の針を指で回しアリバイ工作をした」という自白を強要した。
ところが、須藤の着衣からは返り血が検出されないこと、須藤の足のサイズが24センチであること、匕首の入手方法が不明であること、須藤が柱時計の蓋にガラスが無かったことを知らなかったことなど、秘密の暴露は全てデッチ上げと最高裁で指摘された。
まさに紅林警部補の正体が自白のもとに晒された瞬間であった。
□小島事件(紅林警部補・捏造事件−3)
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage196.htm
小島事件(紅林警部補・捏造事件−3)
−経緯−
昭和25年5月10日深夜、静岡県庵原郡小島村で主婦が自宅で殺され2500円を奪われた。発見時、薪割りのオノが主婦の頭に突き刺ったままで現場は戦慄が走った。現場の時計は11時37分で止まっていた。
25世帯しかない村落の人々は互いに疑心暗鬼に陥った。6月19日、村民の名指しで永松敏夫(当時25歳)が別件逮捕された。
この事件も゛名刑事゛紅林警部補が捜査主任だった。
永松は事件当日、酒宴から午後11時少し前に帰宅。麦の被害調査書を書いてから妻と就寝したアリバイがあった。が、永松はその主張をしていない。それほど、紅林警部補の拷問は凄まじく、犯行の自供と「死刑を覚悟で犯行した」という内容の供述書を書かされた。
昭和27年2月静岡地裁、昭和31年9月東京高裁はともに無期懲役を言い渡した。オノで一回峰打ちした犯行様態の秘密の暴露を紅林警部補の巧妙な誘導尋問と妖計によってデッチ上げられた自白調書が証拠として採用されたためであった。
−紅林警部補のデッチ上げ−
昭和33年6月最高裁は「自白に任意性が無い」として原審を棄却、東京高裁に差し戻した。昭和34年12月12日東京高裁で永松に無罪が確定した。《幸浦事件》、《二俣事件》に続いて三度の最高裁による棄却破棄。世論は表彰351回を豪語する紅林警部補に非難が集中した。わずか2年間で無罪の2人に極刑と1人の無期懲役をつくりだした紅林警部補は昭和38年9月、脳出血で急死した(55歳)。
□[幸浦事件]
http://www.bekkoame.ne.jp/~m_m_m_/e_satiur.html
[幸浦事件]
近藤勝太郎さん
小島敏雄さん
近藤糸平さん
吉野信尾さん
====事件の概要====
1948年11月29日、静岡県磐田郡幸浦村で、海岸近くの一軒家に住むHさん一家4 人{夫(34歳)、妻(28歳)、長男(5歳)、次男(1歳)}が突然姿を消した。 当日夕方まで特に変わった様子もなかった事や妻の眼鏡が家に残っていた事などか ら、自発的な失踪の可能性は否定され、犯罪事件であるとの判断で捜査が開始され た。
海岸に向かう道に赤ん坊のおむつが落ちていた為、海岸に死体が埋まっているか もしれないとの推測で広範囲の死体探しが行なわれたが成果は出ず、捜査は年を越 した。
年明けの2月12日に、近藤勝太郎(当時23歳)および小島敏雄さん(当時19歳) が別件の窃盗容疑逮捕され、本件についての追及を受けた。翌日、近藤勝太郎さん が「自白」、14日に再び死体探しが行われた。近藤勝太郎さんが最初に指し示した 場所からは発見されず、一旦引き上げた後に再開された捜査により萩原さん一家4 人の遺体が発見された。
同夜、強盗殺人の「共犯」とされた近藤糸平さん(当時45歳)も緊急逮捕され、 盗品を買いうけた罪(贓物故買罪)の容疑によりその後に逮捕された吉野信尾さん (当時38歳)も含め、近藤勝太郎さん・小島さん・近藤糸平さん・吉野さんの4人 が、この事件に関して起訴され、公判となった。
公判廷において4人は犯行を全面的に否認、「焼火箸を手や耳に押しつけれた」 等、拷問により虚偽の自白をさせられた事を訴えた。
第一審の静岡地裁は、4人の”無実の訴え”を認めず、近藤勝太郎さん・小島さ ん・近藤糸平さんに関しては「3人が共謀して強盗殺人を犯した」と認定し、「死 刑」を判決。吉野さんに関しては「強奪した物品だと知りながら買い受けた」とし て「懲役1年および罰金千円」を判決した。
その後、東京高裁が控訴を棄却した為、4人は、最高裁へ上告した。
最高裁は、「重大な事実誤認の疑い」が有るとして、高裁へ差し戻した。
差戻審の東京高裁は、死体発掘の端緒等の多くの原審認定証拠に疑問を呈し、本 件につき全員の無罪を宣言した。
その後、検察側の上告により再度最高裁で審理が行われたが、棄却となった。
尚、近藤勝太郎さんは、最高裁における最終判決(第2次上告審判決)を聞く 事なく、1959年8月に、持病を原因として倒れ死去した。
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#####視点#####
作られた「秘密の暴露」 - - - 海岸での遺体発見
裁判における争点の一つに「秘密の暴露」と言われているものがある。これは、 犯人しか知り得ない様な事柄を容疑者が供述した様な場合で、裁判官が「有罪」と 判断する大きな決め手となる事が多い。
しかし、その「秘密の暴露」が、もし意図的に”作られた”ものだったのなら、 ”誤判”を引き出す可能性は限りなく高い。
第一審および控訴審において「有罪の証拠」とされたのが、海岸における遺体発 見の「過程」であった。それらの判決においては、「近藤勝太郎の自白により被害 者4人の遺体が発見された」と認定されたのであるが、実際の状況は、全く異なっ ていた。「遺体発見場所」には、事前に目印の棒が挿されていた事が、公判におい ても証言されているのである。警察犬の使用および海岸の砂地に鉄の棒を突き刺す 形での物体の存在確認が事前になされていた事が窺われる。
近藤勝太郎さんらを犯人に間違いないと断定した事からくる、”証拠確保”だっ たのであろうが、3人が危うく「死刑」にされかかった事を鑑みれば、なんとも恐 ろしい”証拠捏造”ではある。
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((( 略歴 )))
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1948.11.29---Hさん一家4人行方不明となる
1949. 2.12---近藤勝太郎さん・小島敏雄さん別件で逮捕される
2.14---Hさん一家4人全員の遺体発見
(同日夜)近藤糸平さん緊急逮捕される
2.20---吉野信尾さん贓物故買容疑で逮捕される
3.24---強盗殺人罪等で起訴
1950. 4.27---第一審判決(静岡地裁)・・・ 3名死刑(詳細下記)
1951. 5. 8---控訴審判決(東京高裁)・・・ 控訴棄却
1957. 2.14---上告審判決(最高裁) ・・・ 高裁へ差し戻し
1959. 2.28---差戻審判決(東京高裁) ・・・ 本件につき全員無罪
8. 8---近藤勝太郎さん死去
1963. 7. 9---第2次上告審判決(最高裁)・・・ 検察側の上告を棄却
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<<< 個人別判決詳細 >>>
第一審 控訴審 差戻審
近藤勝太郎さん 死刑 控訴棄却 無罪
小島敏雄さん 死刑 控訴棄却 本件につき無罪
近藤糸平さん 死刑 控訴棄却 無罪
吉野信尾さん 懲役1年+罰金千円 控訴棄却 無罪
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