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□男児殺害 事件報道は「社会的制裁」足りうるか [PJニュース]
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2211688/detail
男児殺害 事件報道は「社会的制裁」足りうるか
【PJニュース 07月18日】− 以前、秋田の男児殺害事件を巡る被疑者側弁護士の会見に関して、「男児殺害 弁護士会見で危ぶまれる人権」(6月12日) 、「再論、弁護士会見を巡る人権上の問題」(6月15日) という2本の論考をこの欄に掲載した。そこでは、主に、被疑者が殺人容疑で逮捕されておらず、殺人の嫌疑の内容もはっきりしないうちに、被害者側弁護士が殺人の犯行の詳細を一方的にマスコミに語ることの問題点を指摘した。
しかし、弁護士の会見はその後も複数回にわたって開かれ、その都度、マスコミは弁護士が語る「被疑者の供述内容もしくは心境」を記事にしてきた。特に民放各社のワイドショー系の番組においては、この事件に多くの時間を割く傾向が顕著で、弁護士会見は格好の素材となった印象が強い。そして、被疑者が弁護士に話したとされる内容から、「事件の1か月前に被疑者の娘が川で死亡し、事件当日、被害者の男児を見ているうちに、娘がいない寂しさがこみ上げて…」といった哀れな母親の心情が、男児殺害事件の動機の核心部分として伝えられてきた。
事件は、「男児殺害事件の1か月前、被疑者が自分の長女を橋の上から落としてしまったと供述」という今月14日の毎日新聞のスクープで一転、新たな展開を見せている。各種報道機関もこのスクープに追随。男児殺害事件の発端となったとされる「被疑者の長女の死」は、事故から事件へと発展の様相を見せている。どうしてもここで引っかかるのは、この情報が弁護士会見からはこれまで一切出ていないことである。
この供述が事実だとすれば、これまで弁護士を通じて男児殺害の動機として語られてきた犯行の心理構造を根本から覆すものであり、ある意味で、マスコミを「ミスリード」してしまった弁護士会見の意義が再度、問われる事態と言わなければならない。一般市民にとって、一連の弁護士会見は、弁護士にさえ真実を語らない被疑者の性分ばかりを強く印象づける結果となり、今のところ、被疑者サイドからの真相解明にも、被疑者をはじめとする関係者の人権擁護にも積極的な機能を果たしているように見えないのである。
さて、話は変わるが、刑事裁判の判決理由では、しばしば「事件が大きく報道されるなど、被告は社会的制裁も受けており…」というスタイルの、情状酌量の言い回しを目にする。被告やその親族の立場を思えば、マスコミ報道はまさに「社会的」な「制裁」にも似た打撃となることがあろう。マスコミ報道のために、もともと暮らしていた生活圏で社会更生することが困難になるケースも想像に難くない。しかし、マスコミの報道当事者に、自分のしていることが被疑者に対する「制裁」であるという自覚はあるだろうか。おそらく99%、答えは「NO」である。
世界中の司法制度を見てみても、報道機関に社会的制裁の権利を付与したものは無い。また、報道機関が司法組織の中に組み入れられた例も無い。事件や事故の発生を国の機関に秘匿させず、情報を広く市民に知らしめるのは、民主主義社会の当然の要請であり、マスコミはその要請に応えるべく報道しているだけである。それは「社会的制裁」行為ではない。
当然ながら、大きな事件ほど大きく報道され、小さな事件は小さく報道される。もしも、マスコミ報道が「社会的制裁」なのだとすれば、判決言い渡しまでに、大きな事件ほどより多くの「制裁」を受けたことになるのか。司法がマスコミ報道を「社会的制裁」としてとらえること自体が問題で、「制裁」の法的根拠や責任の所在は不明瞭だ。まして、被告の量刑判定で「報道」を情状酌量の要素として積極的に斟酌することは、むしろ判決の公正さをゆがめはしまいか。
本来、マスコミによる刑事裁判での被告側のプライバシー侵害などの問題は、「行き過ぎた報道」として、本件とは別次元で厳正に処断されるべきであるし、加害者側・被害者側を問わず、報道被害に対する救済制度の確立が急務となっていることも事実である。しかし、そうした問題意識が浮上している時代だからこそ、報道と量刑判断は切り離して考えられるべきではないだろうか。
秋田の男児殺害事件を巡る被疑者側弁護士の饒舌なまでの記者会見を目にするたびに、この報道もまた「社会的制裁」としてカウントされるのだろうかと割り切れない思いがするのである。【了】
※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJニュースはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。
パブリック・ジャーナリスト 成越秀峰【神奈川県】
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2006年07月18日09時56分
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□男児殺害 弁護士会見で危ぶまれる人権 [PJニュース]
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2071799/detail?rd
男児殺害 弁護士会見で危ぶまれる人権
【PJニュース 06月12日】− 秋田県藤里町で小学1年生の男の子(7)が殺害された事件で、逮捕された女(33)の弁護士2人が9日、記者会見を開き、殺害当時の状況や被疑者の心境などを明らかにした。会見の詳細は、当日のテレビ・新聞などのマスメディアで一斉に報じられた。
子どもが被害者となったこの事件は、発生当初から全国的な注目を集め、一般市民をも巻き込んで「犯人捜し」が行われた。この間、地元ではマスコミの「過熱報道」も問題となった。そして、被疑者が逮捕され、殺害を認める供述をしているとされる今、市民の関心は「なぜ、男の子が殺されなければならなかったのか」、「どうして事件を防ぎ得なかったのか」に移って来ている。今回の弁護士の記者会見は、そうした社会的ニーズに応じたものと意味づけることができよう。
しかし、会見を報じた映像・音声・活字のメディアを見聞する限り、今回、2人の弁護士は、かなり饒舌に事件の詳細に踏み込んだ発言をした印象を受ける。具体的には、▽男の子を自宅に招き入れたときの被疑者と男の子の会話、▽男の子の帽子を見て殺意が芽生えた様子、▽長さ150センチの腰ひもを後ろから首に回したこと、▽そのとき、男の子がきょとんとした表情でふりむいたことなど、従来なら刑事裁判の初公判で検察側の冒頭陳述を聴くまでわからないような生々しい内容であった。ここに、いくつかの人権上の危険性が潜む。
まず、被害者側の人権である。弁護士は会見の冒頭で、男の子の家族に対する「被疑者の謝罪のコメント」を読み上げた。しかし、この段階で、すでに2人の弁護士は被害者家族にこの「謝罪」を伝えていたのか、また、「被疑者側の弁護士」が男の子の殺害直前の表情までマスコミに伝えることについて被害者家族の了解を得ていたのかは、不明である。もし、事前に被害者家族に接触していなかったとしたら言語道断であるし、仮に接触していたとしても、会見の席でどこまでデリケートあるいはプライベートな情報を公開するのか、被害者側と綿密な打ち合わせがなされるべきである。
もう一つは、被疑者の人権である。弁護士を信頼して話したプライベートな情報が、すぐに記者会見を通じて公表されることが恒常化したら、被疑者は安心して弁護士に真実を語れるだろうか。今回、被疑者はどこまでの情報の発表を弁護士に認めたのか。
また、「被疑者側の弁護士」が警察発表よりも先に事件の動機や犯行の手口の詳細を明らかにすることは、一体、誰の利益に資するのかも問題である。来るべき裁判員制度の下では、マスコミ報道が、裁判員となる市民が法廷外で事前に心証形成する大きな要素となることは否定できない。われわれ市民は、被疑者側の一方的な会見に無批判に耳を傾けることの危うさを認識しなければなるまい。【了】
※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJニュースはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。
パブリック・ジャーナリスト 成越秀峰【神奈川県】
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パブリック・ジャーナリスト募集
2006年06月12日06時37分
□再論、弁護士会見を巡る人権上の問題 [PJニュース]
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2084379/detail
再論、弁護士会見を巡る人権上の問題
【PJニュース 06月15日】− 今月12日に掲載された記事「男児殺害 弁護士会見で危ぶまれる人権」 に対し、トラックバックなどを通じて、複数の方から賛否両論のご意見を頂いた。ご意見の中には勉強になる点が非常に多く、誠に勝手ながら、ご意見・ご感想を寄せてくださった皆さんに、この場を借りて御礼申し上げることをお許し頂きたい。「PJオピニオン」という記事の字数の制約上、言葉が至らない点があったことを反省しつつ、きょうは若干の補足をさせて頂きたい。
前回掲載の記事では、「被疑者側の弁護士」が事件の詳細を語ることについて、問題点と思われる3つの要素を指摘した。第一は、被害者側の人権の問題である。これについて、被疑者側の弁護士が法的には「会見の前に被害者に面会する必要はなく」「被害者側と会見内容を綿密に打ち合わせる必要もない」ことは、何人かのご指摘の通りである。しかし、それは法律論であって、日常的に職業法律家に接触したことのない一般市民が期待する弁護士像からは乖離(かいり)していることを、まずもって理解してほしい。
刑事事件は、民事事件とは異なり、被害者側が原告として法廷で加害者の責任を直接、追及することはできない。その役割は司直の手に委ねられる。他方、被害者にとっては、たとえ加害者側の弁護士であったとしても、弁護士は「人権について思慮深く、高い教養と良識を持った法律家」なのである。被疑者が謝罪の言葉を述べたのだとしたら、それは被害者に向けられたものであるべきで、マスコミに向けたものではないはずだ。
その謝罪が弁護士から礼節をもって自分たちに届けられることを、被害者は期待する。被疑者の弁護士にとって、いつ、どこで被疑者の「謝罪コメント」を読み上げるのかなど些細な問題なのかもしれないが、被害者の傷や感情をも考慮し、裁判終結後の最終的な法的安定性や可能な限り多数の当事者の満足を希求することこそ、リーガルマインドというものではないのか。「自分も知らされていない、我が子が殺される直前の表情」を無断で発表されたら、「プライバシーが侵害された」と感じるのが多くの一般市民の素直な感情だと考える。
第二に、今回の会見を巡る被疑者の人権については、被疑者と代理人たる弁護士の当事者間の問題であるから、当事者間の話し合いがきちんと為されていて、弁護士がその領域を守っているのなら良かろう。ただし、弁護士の守秘義務の観点からは会見内容に限度があるはずで、その点の注意を喚起したい。いずれにせよ、民事・刑事を問わず、市民が弁護士を信頼し、真実をつまびらかにできる環境が揺らぐことのないよう願うものである。
さて、問題は、最後の「裁判員制度」との関連である。12日の記事では、「被疑者側の弁護士」が警察発表よりも先に事件の動機や犯行の手口の詳細を明らかにすることは、一体、誰の利益に資するのかも問題である、と書いた。司法当局の発表が絶対で、信用できるなどと主張する考えは毛頭ない。本来、警察権力はウソの発表をするかもしれないと疑ってかかるのが、ジャーナリズムの権力監視としての役割である。
しかし、同時に、被疑者も必ずしも真実を語らないかもしれないという冷静な視点も合わせ持つことが肝要だ。真実は「公開の法廷」で明らかにされ、審理されるべきもので、マスコミというフィルターを通した事前情報が巷間に氾濫することを憂慮する。特に、本事件の場合、弁護士会見の段階で被疑者は死体遺棄容疑で逮捕されてはいたが、殺人容疑では逮捕されていないことに注意してほしい。
あまりに詳細に立ち入った「被疑者側弁護士」の会見は、ワイドショー的好奇心に応えることにはなっても、市民の「知る権利」や「被疑者の人権擁護」という利益に本当にかなうものなのか、熟慮を要するところではないだろうか。今回の会見が一体、誰の利益に資するのか、あらためて一考すべき問題であると思うしだいである。【了】
※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJニュースはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。
パブリック・ジャーナリスト 成越秀峰【神奈川県】
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2006年06月15日09時20分