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□報道先行型冤罪―言葉は希望ではなく罪である [どん底あるいは青い鳥。]
http://donzokoblue.blog55.fc2.com/blog-entry-99.html
2006/06/26
報道先行型冤罪―言葉は希望ではなく罪である
秋田の小1殺害での報道ショーを警戒するあまり、奈良の放火事件のほうでも「父親の言い分も聞いてやれよ〜」とついツッコミを入れてしまう。
そもそも医師で部長である父親に「毎日つききりで息子の勉強を見る」暇などあったのだろうか。カメラの前で整い過ぎたストーリーを滔々と語る同級生も不気味である。偏差値の高い子らのこと、相手(マスコミ)の望むままに脚色などしていなければいいがと思う。
放火の直接理由は成績のことで父親についた嘘がバレるのがイヤだったからだという。親子揃って?成績しか判断基準がネエのかという不思議さもあるが、もしかして新聞記者にも成績表ってあるんかいな…と思わせられたのがアサヒ・コムの以下の記事である。
「衝動的犯行」見方強まる、豪憲君殺害容疑の畠山容疑者
http://www.asahi.com/national/update/0625/TKY200606250309.html
なぜ米山豪憲君を殺害したのか。感情の高ぶりによる衝動的な犯行だという内容の供述を畠山鈴香容疑者は続けている…。
容疑者が殺人容疑で再逮捕された6月25日の記事である。この記事には「捜査本部」「捜査幹部」という言葉がやたらと出てくる。
県警捜査本部には「衝動的に人を殺害する際に、軍手をはめる冷静さがあるだろうか」と疑問視する声があった。
現時点では「慎重に詰める必要はあるが、衝動的犯行という線は大きくは変わらないだろう」(捜査幹部)との見方が定まりつつある。
「人を殺害する時はだれであれ動揺する。その瞬間の思いが脳裏に一気によみがえると、きちんと説明ができなくなることはよくある」とある捜査幹部は説明する。
畠山容疑者が「ふびんだ」「かわいがっていた」と話す供述に矛盾を感じる捜査員が多かった。
他人からは奇異に見えても、畠山容疑者の中では矛盾していないという見方が捜査本部に定着しつつある。
注目すべきは、二番目の「捜査幹部」と三番目の「ある捜査幹部」である。これが同一人物なのか、それとも異なる二人の人物から取材したのかがわからない。
記事の中には同一人物だと判断させるような文言はない。しかし二人が別人であれば、三番目のネタ元は「別の捜査幹部」と記しそうなものだ。複数の幹部が新聞に向かってベラベラ喋るとも思えないから、一人の幹部の話を二つに分けて記述している可能性が高い。
一人よりも二人から話を聞けたほうが、記者の取材力は大きいとなる。これは「住民」の談話でも同じことで、少数の人物から聞き出したことを「近所の住民は…」「近所の主婦は…」と少しずつ属性を変えて書くだけで、何人もが口を揃えているかに見え、記事に説得力が出る。
つまり「捜査幹部」「ある捜査幹部」と書くことで、何人もの幹部への取材に成功したかのように見せかけているのではないのかと、そんな疑問を抱くのだ。記者にも成績というか、自分(ちの記事)を水増しさせて見せたいといった御子様根性があるのかなあと思うのである。
取材対象の水増しをしている場合、それは嘘ではないが、真実でもない。読者が事実と異なる受け止め方をするであろうことは容易に想像がつく。情報源を明らかにしているようでいて、情報源に関する事実は(自分たちに有利なように?)歪曲するのだ。
この「水増しぽさ」が目立つのは、見たところ朝日の記事だけである。神戸事件の報道でも朝日だけが同じことをやっている。「友人」「知人」「同級生」といった言葉で、A少年の凶悪さを目撃した人物が何人もいるかのように読者をミスリードした。
また上の記事を見るのに、新聞や記者独自の見解などはまるで持たず、警察の話をそのまま垂れ流していることにも改めて驚かされる。「捜査関係者」といった主語を持たない、
自分の作り話と現実がごちゃまぜになるのは、殺人事件の容疑者にはよくあることだという。
といった記述もやはり警察の話をそのまま載せているのだろう。
だが過去の冤罪事件の経緯を二つ三つ調べるだけで、今回の畠山容疑者を巡る成り行きとの共通点は容易に見つかるはずだ。であれば「矛盾だらけの供述を引き出したのは警察自身ではないのか」と、誰もが思いつくようなことをなぜ問い質さないのか。それができないのなら「言葉は希望」は寝言である。
母親が4日午前6時頃から延べ17時間に及ぶ“任意”での事情聴取を受けた後に逮捕という点についても、浅野教授は「報道には17時間もの『任意』の聴取というのはありうるのかという批判的視点も懐疑的な姿勢も全くない」と指摘する。
また、浅野教授は、新聞報道についてもテレビ同様に「今回の事件報道を見ていると、NHK、共同通信も含め、当局に捕まった瞬間から、被疑者を犯人と断定している。その後は、DNAが一致した、タイヤ痕がどうしたとか、殺害をほのめかし始めたなど捜査当局がリークした情報を裏取りもせずに垂れ流している。こうした情報源、情報の入手ルートが全く明示されず『一致した』『分かった』などと書いて、根拠もなく捜査を神聖視する姿勢は全く(いただけ?)ない」と改めて批判し……(引用元)
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2057917/detail?select_id=8
「報道先行型冤罪」という言葉もあるらしい。
三浦氏の子どもをつきとばして、怒ってとびだした三浦氏の顔を写真にとって載せたとかいっぱいひどい例がでとる。ヤクザ以下やがな。こんなやつでも殴ったら、あっというまに「報道陣に暴力」とか書かれるんやで。(引用元)
http://www.zorro-me.com/miyazaki4/tanaka_kodama/houdousenkou.html
何とまあ、カメラを叩いて回る畠山容疑者の場合とそっくりではないか。あれを見て「鈴香って怖い!」などと素直に思うようでは視聴者としては失格だ。「あんなにベッタリ張りつかれたらブチ切れるのがあたりまえだ」というのが現代の正しい視聴者の反応である。
いまや、警察情報垂れ流し型のアホ報道のおかげで、逮捕され、裁判されるまえに社会的に「有罪」にされてまう。…キミらではまず「報道先行型冤罪」には勝てない。これをようおぼえとき。(引用元)
http://www.zorro-me.com/miyazaki4/tanaka_kodama/houdousenkou.html
鈴香さんも負けてしまった。というより勝ち目は最初からなかった。長い冤罪の戦いがはじまる…のかもしれない。
▽関連記事
□「衝動的犯行」見方強まる、豪憲君殺害容疑の畠山容疑者 [朝日新聞]
http://www.asahi.com/national/update/0625/TKY200606250309.html
「衝動的犯行」見方強まる、豪憲君殺害容疑の畠山容疑者
2006年06月25日21時02分 なぜ米山豪憲君を殺害したのか。感情の高ぶりによる衝動的な犯行だという内容の供述を畠山鈴香容疑者は続けている。当初、県警捜査本部には「衝動的に人を殺害する際に、軍手をはめる冷静さがあるだろうか」と疑問視する声があった。だが、そうした供述を覆したり、犯行の計画性を明確に示したりする材料は出てきておらず、現時点では「慎重に詰める必要はあるが、衝動的犯行という線は大きくは変わらないだろう」(捜査幹部)との見方が定まりつつある。
畠山容疑者は豪憲君を殺害した場所を「長女の部屋の入り口」から「玄関」に変えた。「人を殺害する時はだれであれ動揺する。その瞬間の思いが脳裏に一気によみがえると、きちんと説明ができなくなることはよくある」とある捜査幹部は説明する。
とりわけ畠山容疑者は死体遺棄容疑をまず認めた時点で「帰宅したら遺体があった」などと供述した。物証を突きつけられ、つじつま合わせのために苦し紛れのうそをついたとみられる。
自分の作り話と現実がごちゃまぜになるのは、殺人事件の容疑者にはよくあることだという。
畠山容疑者の弁護士は23日に行った会見で「理解しにくいが、(畠山容疑者は行方不明になった豪憲君を)実際に一生懸命捜したという話をしている。自分が殺害したことを忘れたかったというか、信じたくなかったというか、そういう感情があったと言っている」と明らかにした。
水死した長女についても、畠山容疑者が食事としてインスタントラーメンを与えることが多かったことから、畠山容疑者が「ふびんだ」「かわいがっていた」と話す供述に矛盾を感じる捜査員が多かった。
しかし、現在は「インスタントラーメンは長女の好物。好物をあげて、かわいがっていた」というような独特の考え方が畠山容疑者にはあり、他人からは奇異に見えても、畠山容疑者の中では矛盾していないという見方が捜査本部に定着しつつある。
長女の水死を「事件」として再捜査してもらうため、豪憲君を殺害したという見方を弁護士は否定している。そのうえで23日の会見では「再捜査を望む気持ちは少なくともあった。それが殺害の動機とどの程度つながっているのか、思い出してほしいと畠山容疑者に頼んでいる」と話した。
□過熱した事件報道、消えた「推定無罪の法理」 [PJニュース]
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2057917/detail?select_id=8
過熱した事件報道、消えた「推定無罪の法理」
【PJニュース 06月08日】− 秋田県藤里町の小学1年生(7)が殺害された事件で、秋田県警捜査本部は4日深夜に、今年4月に水死体で発見された小学4年生児童(9)の母親(33)を、死体遺棄容疑で逮捕したと発表。母親の逮捕を受けて翌日の新聞各紙は大々的に報道した。(一部地方紙は締め切りの関係上「逮捕状を請求」「任意で事情聴取」と報道)テレビも朝から情報番組で容疑者逮捕のニュースを流した。
だが、この事件は週刊誌が先行して過熱報道を繰り広げ「週刊新潮」6月1日号は「『犯人』はわかっている!」「新聞が書けない『秋田の児童殺人』」の見出しで6ページの特集を組み、「週刊現代」や「週刊文春」などが加わり、母親のプライバシーなどを書いた。「週刊朝日」「週刊ポスト」などが母親の「犯人ではない」との主張を掲載したが、逆に母親が怪しいという印象を与えてしまった。あまりの過熱ぶりに5日付読売新聞は「一部週刊誌は過熱取材 新聞・TVも自浄作用必要」との記事を掲載し、同じく6日付読売新聞は「過熱取材防止 課題残る」や、6日付朝日新聞「報道被害、どう防ぐ」は、過熱した取材現場、報道のあり方を取り上げた。
元共同通信記者で同志社大学社会学部メディア学科教授の浅野健一氏は、一連のテレビでの事件報道について「テレビ報道には、当局に捕まった市民に対し、裁判で有罪が確定するまでは無罪を推定されるという無罪推定の法理を尊重する姿勢が全くない」と批判する。また、母親が4日午前6時頃から延べ17時間に及ぶ“任意”での事情聴取を受けた後に逮捕という点についても、浅野教授は「報道には17時間もの『任意』の聴取というのはありうるのかという批判的視点も懐疑的な姿勢も全くない」と指摘する。6日付常陽新聞では「捜査本部によると、容疑者が前夜の調べを終え、休んだのは5日未明。体調が優れない様子だが、調べに支障はない程度という」と報道されているように、捜査に行きすぎがないか危惧される。
当初から、秋田県警は「被害者支援の一環でマスコミ対策」の名目に、警察車両を24時間待機させ、「過熱取材からの被害者保護を口実に、容疑者としてマークしている人物の行動監視をしていた感が否めない」「取材攻勢から身を守ってくれるはずの警察が、実は身柄の拘束を狙っていたことになり、被害者保護を捜査機関である警察に任せる危うさが浮き彫りになったと言える」(5日付読売新聞より)と、被害者支援の取り組みを都合よく利用していた実態がうかがえる。
容疑者の母親と秋田県警の間では、水死体で発見された小学4年生の子供の死因をめぐって、「事故死」で片付けようとする県警側と、再捜査を求める母親が対立し、母親はテレビ朝日の「テレビのチカラ」に登場し、子供の水死の再捜査を訴えていた。
しかし、警察に逮捕されたことで状況が一変し、「FLASH」6月20日号では「鬼母逮捕!」の見出しが付けられ、あたかも自分の子供と小学1年生児童を殺したかのような印象を与える記事が掲載された。また、テレビ各局は自宅前に陣取る報道陣に向かって「撤収してください」と叫び、カメラを叩くシーンを繰り返し放送したうえ、コメンテーターによる発言で「いかにも怪しい人物」の印象を与える番組構成を行った。
新聞各紙も「これで○○君(記事では実名)も浮かばれると思う。小さな町でいろんなうわさが飛び交い、皆が疑心暗鬼になっていた。容疑者逮捕で少し安心した」(6日付茨城新聞より)と、いうコメントを掲載し、容疑者を加害者と断定した記事を掲載している。
浅野教授は「今回の事件でも集団的取材による個人と地域に対する名誉・プライバシー侵害が問題になった」と集団的取材による人権侵害(メディア・フレンジング、media frenzying)を問題視し、週刊誌の報道についても「週刊誌への情報提供者は新聞、通信社の記者であろう。記者たちが県警幹部や捜査員から得た情報がほとんどだ」と週刊誌記事の手の内を明かした。
また、浅野教授は、新聞報道についてもテレビ同様に「今回の事件報道を見ていると、NHK、共同通信も含め、当局に捕まった瞬間から、被疑者を犯人と断定している。その後は、DNAが一致した、タイヤ痕がどうしたとか、殺害をほのめかし始めたなど捜査当局がリークした情報を裏取りもせずに垂れ流している。こうした情報源、情報の入手ルートが全く明示されず、『一致した』『分かった』などと書いて、根拠もなく捜査を神聖視する姿勢は全くない」と改めて批判し、「過去の松本サリン事件などの冤罪事件の経験が全く生かされていないように思えるが、逮捕をクライマックスにする犯罪報道のあり方を根本的に、裁判報道に変えていくなどの改革が必要だ」と、犯罪報道の改革を提唱した。
2009年(平成21年度)から裁判員制度が導入されるが、「推定無罪の法理」を無視し、マスコミ報道による予断と偏見を持った裁判員に裁かれるのでは、刑事裁判の信頼性が問われる。ましてやインターネットが普及している現在、インターネット掲示板の書きこみに影響された裁判員ならば、なおさら予断と偏見に基づいた公判が行われる恐れさえある。「警察が逮捕=犯罪者=有罪認定」というまるで江戸時代並みの単純な考えがまかり通るならば、1967年に茨城県利根町で起きた布川事件の再来は避けられない。「推定無罪の法理」という法律の世界の常識を口にしただけで、「人殺しの味方」とレッテルを貼るのは問題がある。日本は仮にも法治国家である。また、法によらない「2ちゃんねるリンチ」は、誰の為にもならない自己満足の愚行でしかないことを認識しなければならない。【了】
※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJニュースはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。
パブリック・ジャーナリスト 崎山 勝功【茨城県】
この記事に関するお問い合わせ
2006年06月08日14時06分