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□ピヨピヨ頭の最終兵器 [どん底あるいは青い鳥。]
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2006/06/20
ピヨピヨ頭の最終兵器
秋田小1殺害の畠山容疑者は、神戸事件の少年Aに似ていると思う。いずれも朝早くから任意同行となり、半日以上も否認を続けた挙句、夜になってから自白によって逮捕された。自白がなければ逮捕できなかったこと、すぐに観念しなかったことから、いずれの場合も彼らが犯行に関与したという確かな証拠はなかったものと思われる。
少年Aが「やりました」と言ったのは「挑戦状の筆跡がオマエのものと一致した」と取調官が嘘をついたからである。一度も行ったことのない犯行現場に指紋があったと言われてあらぬ罪を一度は自白した少年がいるが、それと同じように圧倒的な事実(実は嘘)の前に自分を曲げてしまうのだ。
畠山容疑者が自白に至った経緯は不明だが、殺害自体を認めた際には家族のことをやけに気遣っているから、その辺りのことで脅されたりした可能性もあるかと思う。狭山事件の被告は「オマエでなければ犯人はオマエの兄だ」と言われて偽りの自白に陥っている。
もちろん畠山容疑者の場合には、この先彼女の犯行だという決定的な証拠が出てこないとは限らない。しかし自供内容の変遷からするのに、その可能性は低いように思う。彼女は「自分がやった」と誰しもを納得させられるだけの事実を出しえていない。真犯人ではないからではないのか。
供述の詳細がなぜか外部に洩れてしまい、それによって犯行の実態が明らかになるどころか却って謎が増えただけというのも神戸事件と同じである。Aは自白で「凶器は糸ノコギリだ」と言いながら、池の捜索で金ノコギリが見つかったあとでは「金ノコギリの間違いでした」と訂正している。畠山容疑者が「実は殺したのは玄関でした」というのと同じである。
そうした「おかしな供述」を前にしても、世間が頑として彼らが犯人だという考えを捨てないところも二つの事件はよく似ている。「もしかしたら犯人ではないのでは」という頭はどこにもない。マスコミも「犯人に決まっている」と安心し切って煽りと誤報を繰り返す。ある意味無防備に見えなくもない。
少年Aの場合にも「バッグの血痕のDNAが被害者のものと一致した」という誤報があった。実際には血痕どころかAの部屋から被害者の痕跡は一切発見されていない。だがその誤報は訂正されるはずもなく、今でも多くの人が「DNA一致」を信じたままでいるだろう。
疑われる人には疑われるだけの理由がある。秋田の場合、誰だって最初は娘の死の件で警察に絡んでいた畠山容疑者を疑うだろう。神戸事件の場合は「Aがやったようだ」という同級生からのタレコミがあった。彼らが疑われ調べられ、あるいは犯人視されるのは当然である。
ところがこの国には(この世には?)ピヨピヨ頭がものすごく多い。いったん畠山容疑者なりAなりが犯人だと刷り込まれたが最後、その刷り込みは二度とは訂正されず、それどころかあらゆる事実をその刷り込みに合わせて解釈しはじめてしまうのだ。
彼らが真犯人であれば事実に矛盾は生じない。だが真犯人でない場合にはそうはゆかない。まず証拠がない。だがピヨピヨ頭はこれを無視する。Aの場合には「少年審判は非公開なので自分たちの知らない決定的な証拠がきっとあるのだ」などと本気で信じている。
容疑者の人となりについても、真犯人でない場合には焦点がぼやけて一つの像を結べない。そこで持ち出されるのが「心の闇」と「二面性」である。「心の闇」はもはや常套句のようなものだが「二面性」が使われる場合にはより注意が必要である。
日本の誤報合戦には「イラクに大量破壊兵器」や「ジェシカ・リンチ救出作戦」のようなプロットの仕掛け人は存在しない。「あいつを陥れてやろう」といった意図を持つ中枢などは存在せず、それぞれの人がそれぞれの立場で「いつもどおりに」動いており、それがそのまま冤罪製造マシンとなっている。
ところがこの「意図の欠如」のおかげで容疑者に有利な話もダラダラ流れてくる。「彩香といっしょに食べにきて彩香はそっちのけで携帯を見ていた」などと目撃した人に憎々しげに語らせる。ところがそれは同時に、鈴香が彩香を連れて食べさせていた、つまりネグレクトとは程遠いことの証左ともなる。
そのうち「二人はいい親子だった、鈴香は彩香のことをかわいがっていた」などという証言も出る。だが容疑者は子どもをネグレクトしていたという証言もある。ここで「二面性」が持ち出される。「二面性」という接着剤で矛盾する話を無理やり貼り合わせるのだ。良い面があることもまた「二面性」の名のもとに凶悪である証拠となる。
少年Aの場合にも、警察からは猫殺しやホラービデオマニアといった情報が次々とリークされてくる。ところが近隣の住民は誰もAが猫を虐待するのを見てはいないし、むしろ「明るい子だった」と言う。当時界隈をうろついたルポライターで、Aによる猫虐待の事実を掴んだ者は一人もいない。
Aは犬や亀もかわいがっていた。ならば猫虐待の話は、何より人の首を切ったという犯行の事実はどうなるのか。この矛盾を説明するために持ち出されたのもやはり「二面性」だった。
二面性だの多重人格だのは、世間的には非常に魅力的な何かであるらしい。「二面性だ」と言われれば何となく納得してしまう。だが「真の多重人格」か「矛盾を接着させるための偽・多面性」なのかを見極めるためには「多面性そのもの」の目撃証言の有無に注目すべきである。
少年Aの場合も畠山容疑者の場合も、接した人は誰一人「急に人格が変わるので驚いた」などとは語っていない。ある人は「少年は明るい性格だ」「畠山親子は仲がよかった」とポジティブな証言をし、別の人は「少年は猫を虐待していた」「鈴香は彩香をネグレクトしていた」と専らネガティブな証言をする。
付き合いの深い人にはネガティブな面を見せ、浅い人にはポジティブな面を見せるというのでもない。こうした場合、ネガ・ポジのどちらかが偽りである可能性を忘れてはならない。ところがネガティブな証言を嘘だとすると、犯行に至るリンクが欠損する。刷り込みの効いたピヨピヨ頭にはそれは耐えられない。
それで「二面性」を持ち出す。「二面性」「多面性」はあらゆる矛盾を隠す魔法のマントである。刷り込み内容を死守したいピヨピヨ頭にとってはなくてはならない武器なのだ。
「二面性」が持ち出される場合、条件反射的に冤罪や誤認逮捕の可能性を頭の隅に置くほうがいいように思う。私も最初は豪憲くん殺害は鈴香の犯行だろうと思っていた。だが「自白まで16時間」や「供述の変遷」それに「二面性」までが揃った今となっては、果たして本当に彼女の犯行なのかと疑わないではいられない。
もちろん真実は知っている人にしかわからない。それでも容疑者のシロ性を窺わせる現象は確かに目の前にある。人々の頭がピヨピヨではなく、脳のどこかに少しでも「もしかしたら」という思いがあるならば、今のような乱痴気報道にはならないだろうとも思うのである。
▽この記事に対するコメント
はじめまして、興味深く読まさせていただきました。
私しも供述の変遷には違和感にを感じてました。
それ以上に、興味深いのが、鈴香容疑者がトランクの開け閉めをしていたという証言の変遷です。
任意同行時は3時30分開け閉め=殺害現場外の可能性大→鈴香容疑者の車は軽であり遺体を隠すのに不向き→トランク開け閉め証言4時に修正→鈴香容疑者自宅に呼び込み部屋で殺害→脱いだ靴を履かせるのは不自然→玄関にて殺害 現在はこうなっているようです。
「脱いでる靴を履かせたのが不自然」メディアの指摘に、過剰反応を示し、殺害現場の供述変更をさせた。
能代署側の根拠は、靴下にはウサギの毛が無かったとのことですが、鈴香容疑者何ヶ月も全く掃除をしなかったとしても、鈴香容疑者自身が何度も往復することで、廊下のウサギの毛は鈴香容疑者の足の裏で拭取られている可能性が高い。
よって、豪憲君の靴下の裏にウサギの毛が無くても、それが玄関での犯行を導き出す証拠にはなりえない。
では、豪憲君は何時に殺されて、4時に車に積み込まれるまで何処に居たのか?
玄関で殺されたのであれば、最後に目撃された3時25分から長くて10分間ほどの間での犯行でなければおかしい。
では、玄関にて殺害された豪憲の遺体は、4時の車への積み込みまでの30分間ほど何処に置いていたのか?
現在の報道では、尿とか血の反応が有った玄関に置かれていたことになっている。
宅急便・新聞の勧誘・セールスマンが訪ねる危険性の高い玄関。
そして、豪憲君の親が捜しに来るかもしれない玄関に、殺人という犯行後30分間近くも放置していたことになる。
遺体をいったん室内に隠した?玄関の尿・血反応などという捏造証拠を作ってしまった今となっては手遅れ。
私が思うに、室内に招きいれ殺害、豪憲君の靴の処分に困り、遺体に履かせた上で遺棄の方がシナリオとしては妥当性が有ったと思う。
それ以前に3時30分証言を4時に変更し、遺体遺棄現場での目撃証言を造ったのが最大のミスではないのだろうか。
真実はわからない、だが、報道されている事実の中には真実は一切無いと思う。
posted by シマケン | 2006/06/20 | URL