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□ネグレクトは実在したのか― [どん底あるいは青い鳥。]
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2006/06/12 ネグレクトは実在したのか―
秋田小1殺害秋田の男児殺害事件では、みのもんた氏の暴走に顰蹙する人をよく見かける。みの氏はよくも悪くも大衆の代弁者だから、彼の悪ノリは茶の間の悪リである。ということで12日の「朝ズバ」を視聴。二点ほど気になるところがあった。
一つは「弁護士がなぜあそこまで彼女の供述内容を詳細に公表したのか」という点である。現役弁護士のコメンテーターも「弁護士には守秘義務があるのに…」と批判的な口調だった。
男児殺害 弁護士会見で危ぶまれる人権
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2071799/detail?rd
もう一つは、被疑者の人権である。弁護士を信頼して話したプライベートな情報が、すぐに記者会見を通じて公表されることが恒常化したら、被疑者は安心して弁護士に真実を語れるだろうか。今回、被疑者はどこまでの情報の発表を弁護士に認めたのか。
こういうふうに発表すると、のちに自白を翻したとしても「弁護士の前でさえ犯行を認めたのだから」として自白に任意性ありとされてしまう怖れもあるという。
しかし弁護士にも認めたかどうかの認定は、公表の如何に関係あるのだろうか。仙台筋弛緩剤事件の守被告などは、自供内容の公表なしでも「最初の接見で弁護士相手にも認めたではないか」として裁判所は自白の任意性を認めている。
法的?な有利不利は知らないけれど、私自身は供述内容の公表は結構グッジョブだったんでないの、と思ったりする。というのも、供述の不自然さをメディアが指摘するとき、誰もがそれは「ふてえ容疑者の嘘」を暴いているのだと思っているが、その実採点されているのは他ならぬ当局の作文だからだ。
たとえば「動転して靴を履かせた」などというおかしな話は「室内で殺害したのにどうして遺体は靴を履いているんだ?」という問いかけがあってはじめて為されるものだ。つまり公表された供述は捜査当局の誘導によるものである。ふだんならそうした矛盾だらけのストーリーはそのまま法廷に出て、何も考えない裁判官によってそのままつるんと認定される。
ところが今回はその作文供述が発表されてしまったために、その矛盾が逐一指摘されることとなってしまった。矛盾を指摘された警察関係者が「容疑者は嘘をついている!」などと罵ることなく「確かにおかしい、慎重に捜査を」などと妙に大人しいのも楽しいところだ。論われているのは実は自分たちの作文だという茶番である。
真実の自白は守秘義務として隠すべきである。だが偽りの自白なら早々に公開してしまうに限る、そんな戦略もありかもしれない。先のコメンテーターなどは元検事でもあり、作文の内情にも通じているからこそ「この段階でバラされたら作文したヤツの面目丸潰れやんけ」という意味でバラした弁護士を批判するのでは…などとも想像してみるのである。
もう一点は、ネグレクトの問題である。何でも容疑者の娘・彩香ちゃんの失踪した当日の昼食、すなわち人生で最後の食事が165円のカップ焼きそばだったとかで、そのことが涙を誘うと同時に育児放棄をしていた鬼母容疑者への更なる怒りを煽る…という構図だったようだ。
しかしこの焼きそばの話も少々奇妙である。「彩香ちゃんがカップ焼きそばを買うのが目撃されている」「隣の人に『お湯をください』と頼みにきた」というのであるが、そうなると目撃者は「カップ焼きそばを買うところ」と「お湯をねだるところ」という離れた二点において彩香ちゃんを見たことになる。ストーキングでもしていたのか。
「お湯の無心」も容疑者の家にはガスが通っていないという辺りから誰もが素直に信じるのだろうが、容疑者は「カセットコンロがあるからガスは不要」という考えの人である。お湯だけなら電気ポットでも沸かせるだろうし、仮に隣家でもらったとしても、そこに悲惨さを見出すのはどうも早計に過ぎるような気がする。
第一、みなが言うように「非常に憐れな状況」でカップ焼きそばを食した彩香ちゃんは、何とその日の午後には母である容疑者とルンルン手を繋いでコンビニに出かけ、おもちゃまで買ってもらうのだ。「彩香ちゃんがあの日他人にカップ麺の湯をねだった、だからネグレクトだ」と果たして言えるのだろうか。
最後の食事がカップ麺であったことは容疑者自身が認めている。仮に子どもにカップ麺を与えることがネグレクトの範疇に属するとしても(私にはそうは思えないが)、容疑者の娘に対する態度は決してネグレクトなどではない。むしろ経済的・体力的・性格的な理由等により、単に細かいところまで手が回らないだけといった状態であったように思われる。
容疑者が母親として完璧でなかったことは事実であろうが「他の人と同じようにできなければそれはネグレクトだ!」と決め付けるのはどうなのか。他人と同じにできなくても、それだけで「愛していない」となるわけではない。「できない」人を助けようという発想はなく「できないから悪人だ」として徹底的に叩く。実に不気味な現象である。
また、彼女の言動を見る限り、先日のエントリーにお寄せいただいたコメント氏の言うような「人格障害」などであるとも思われない。卒業して多少派手になったり結婚したり離婚したり職を変えたりは、ごくありふれた人の人生である。金銭にルーズで自己破産する人も山ほどいるが、誰もが殺人をするほどの人格障害でもないだろう。
マスコミは彼女が自分たちに食ってかかった映像を何度も何度も「こんなに凶悪!」とでも言いたげに流す。だが彼女がキレたのは「マスゴミの存在が近所の迷惑になるから」なのだ。また失礼なカメラを叩きながらも「自分がされてイヤなことは他人にもするな」という意味の発言をしている。これらは社会性を備えた人の考え方であって、人格障害者のそれではない。
弁護士を通じた供述内容の公表も、家族への取材を自粛することが交換条件だった。彼女にとって親や家族は大切な存在なのである。これのどこが人格障害なのか。たとえば宅間守の親は犯罪を繰り返す彼の頭をブロックで潰して殺そうとしたことがある。宅間自身も親への思いやりなどは一度も口にしていない。どちらが人格障害者の親子関係であるかは一目瞭然だろう。
人格障害といえば、私はむしろ容疑者を陥れるような証言を撒き散らしている「近所の住民」のほうに強くそれを感じる。8年もの間、自分のテリトリーに入ってきた若い?女を注視し続け、ゴミの中身まで観察する。「オバサン連中」にとっては普通のことかもしれないが、その視線とその奥にある脳味噌はやはり異常というよりない。
「住民子」「オバサン連中」が一人でないのであれば、それは地域におけるイジメである。町営住宅の住民はよそ者だという差別意識もあるのだろうが、自分たちの舞い上がった言動がどこかの誰かの人生を理不尽に破壊してしまう可能性まで考えて喋っているのだろうか。マスコミにはぜひ、この「住民子」の話の真実性をこそ詮索してほしいものである。