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‥‥
…人間は部分ではなく、完成した宇宙(以上の至高)である。
人間は‥‥宇宙以上に、とうてい知り尽くしえない、神秘の闇である。
人間が常日頃から問題にし、既に支配志向者が飽きているのは、ごく表層の人間性、という深度に過ぎないだろう。
そうした人間の「意味」は、深層を極端に心理実験しても、虐待しても汲み尽くせず、
その「意味」は、また人間の存在性にこそ深く関係するはずなのである。
神が居ようと居まいと、外界に関わらず、もしくは外界との関わりで、
あるいは外界に(超越的にでも)関われるようにして、
人間には、その背後にこそ、知られざる肥沃な世界が埋め込まれていることだろう。
人間は、さらに、その持てる可能性を規格に圧迫されており、
その結果、規格はまた、人間を粗末に定め、専ら内から滲み出させられる虚無に浴し、
卑下しもして、希望をさえも外部である宇宙や他者の愛に期待し、夢想するという状態(…悪循環)だったはずなのである。
(依頼心の生成、多様性の深化の余地の去勢)
苟も「知」を主導する彼等が、「それ」を部分として扱い、未熟な者と侮り、
そのように彼女等は、切迫してあらん限り叫ぶ者の待遇を「差別」してきただろう。先ずは…これが“第一の倒錯”であった。
その上で、その上位に、成熟した者という位を彼等は設けたはずである。次いで…謂わば、これが“第二の倒錯”であった。
人間に、強いて区別があるとすれば恐らくは、そのことに気付くかどうかの差である。
しかし、これとて本質的なものではないかもしれないのである。
そもそも本来的に人間には2種類しか居まい、有りえまい。
この分類は、例えば罪を為す者(罪人階級)と、為さない者(無辜階級)と呼ぶべき種のものだろう。
階級は、己がしたことで決まるだけであり、それを拭い去るために成長するという話は有りえないと思われる。
成長は罪で測ればよく、“人付き合いの好ましさ”で量るような、個別の好悪に依存する曖昧なものではなかろう。
そうであろうからには、成長は罪の階級に関係せず、また罪においては加害者の成長度合いは直接に関係がなく、
さらに人間そのものの存在の問題としては、成長など最早どうでもよいはずなのである。
人間として、宇宙に関するトータルの見識や、国際世界への認識がどうであれ、
そういった全体的宗教観や政経意識から人を殺めたり、嘘をつくのでは、
如何に修行を積もうとも、その成長は到底是認には値しないと思うのだ。
端的に、成長したかどうかが、罪を犯さない(…犯していない)か否かで決まるというなら話は分かるだろう。
しかし罪を犯さなくなれば成長は終わり、それ以上成長することは形而上学的な空想の域に入るという話ではないか。
おそらく成長とはそういう意味であり、ならば、成長は外的に判断され、そうであるならば、罪で量られる成長は、
成長という言葉で表現する必要もないだろう。単に罪を犯さなくなった、というのでいい。
しかも、実際には成長という言葉には付加価値が付けられ、
「夾雑物でまるまると肥え太った、骨格の分からないような概念」になっていよう。(…ここで問うて曰く、成長とは何か、何に対してか)
何が成長か分からなければ、“これこそが成長だ”という形で、
恣意的な方向に人を誘導し、うまく「全体」の利益にもっていくこともできるだろう。
つまり成長というのは、存在とは直接に関係の無い、個人の趣味的な、意識内容の話だと思われる。
人間にとって成長が、必要の根幹であり、理想への義務的要件であるというのは、
幻想にほかなるまい。学べというのは規格に填まれとの「国策」と寸分たがわないかもしれない。
それよりも、人間そのものの存在にとって問題になるのは、特に他者が存在を消し去る殺人と、
他者が当該の自己存在を多様に危ぶめうるような「嘘」というものではないか。
「存在」という意味レベルでは、自己の成長は自己の問題に尽きているといえるかもしれない。
自己の成長や、自他の成長でさえも、それが共通相互の認識であってすら、それは個個の認識の集合なのだと思われる。
例えば罪を犯していない子供は、成長しなくても「完全無欠」であり、
いかに成長しても嘘をつけば、その者は子供よりも格下になるはずである。
これは「家族‐国家の制度力学を脅かす」点で権力機構としては容認できない転倒となるはずであり、
また「支配の体裁ということからすると」、そこに見られるような“正しさの世界”は、およそ実現不能になるはずなのだ。
そこで、ここに「知」というものをもちこむことによって、成長は知識や世俗経験の積み上げと関わらせしめられ、
単に罪を犯していないだけでは量ってもらえなくなるということで、
子供の本来的高位が抑制されるということにもなるのだと思える。
これは裏返せば、罪のある者が、とりもなおさず、その罪を曖昧にし、別の尺度で罪を帳消しにするのには、
成長というのが甚だ便利な概念かと映る。しかし、そもそも善行を積んでさえ、個別に犯した罪が消えるわけではないだろう。
罪を問われ、罪を感じる人間にとって、宇宙や、世界や、全体というのが非常に
都合のいい創造物であるということがわかるはずである。
それならばいっそ、寓意的には、ストレートに罪の程度に応じて階級を決めるべきであろうし、
胸中のどこかでは、そう望んでいるのだろうが、知を織り交ぜると、人はわけがわからなくなるものらしい。
しかし知として成長したことが、罪を犯された者にとって何になろう。
「勝手に」成長しようが成長しまいが、被害者が蒙った損失を埋めてこそ、そして埋めてのみ、被害者は報われるはずなのだ。
成長とは償いそのものであろうか。
成長をもって被害との交換を成すことはできまい。
「成長」するしないは処世論、加えて技術論の問題で且つ、いかに愚かであっても
“無辜階級”であれば完成した人間といえるはずなのだ。
したがって、無辜階級の命に軽重は無いと思われる。
にもかかわらず、知というものは、おこがましくも人間の出来不出来を区分けし、
頭の質云々を区別する道を選び、複雑な苦悩と迷いを持ち込んでしまったようだ。
とくに「成長」とか「全体」とかいう虚妄概念を振りかざす人間こそが、世界を、過剰な混乱と不安と怨嗟に満ちた暗黒に
引きずり込む、謂うなれば神の側の云うところの“悪魔の手先”だった…ということだろう。左様にして、
事実でない趣旨を強弁する人間は、悉くにして“罪人階級”であるといえよう。
そうしたわけで、“些かならず怪しげな概念”(精神の)「成長」というのもさることながら、
さらに彼女等の用いる宇宙「全体」というのも、“摩訶不思議”な気がしてならないのである。
そもそも「全体」というのは何か。
それは口実かもしれないわけである。人格(人間)という「唯一絶対の単位」を脅かし、
あらゆる嘘と殺戮を正当化するのに、これほど便利な概念が果たして外にあろうか…。
悪魔というものは「全体」のため、やれ「成長」のためと旗を振るらしい。
しかし、当の完全無欠の人間を犠牲にして、「全体」という抽象物や、
(全体という概念を頭に植え込んで、)頭がより複雑と
いうだけの「成長」が誰の何になるというのか。
これも犠牲交換の一種だと思う。自分は犠牲にならず、
全体(終局的には犠牲を要求する側)のために誰かが死んだり、
成長のために自己抑圧を強いられるらしい。
成長したければ、自分でやればいいだろう。
自分が「成長」して上位にきているからと、
他を下位に並ばせるのでは話になるまい。
そして「抑圧する側、犠牲を強いる側こそが死ねばいい」という
意味からすると、本末転倒といえるかもしれないのである。
「口実」であるように言うのは‥‥嘘をついてきた者としては、嘘も見ようによっては
「全体の利益」にそぐうという理由で、首尾よく「浮かばれる」から‥‥という趣旨のつもりである。
また人を殺した者であっても、宇宙まで持ち出せば、人間のスケールなど小さいと言えてしまい‥‥
尤もそれは宇宙でなくとも、大東亜でも、世界の同胞でもいいのだろうが‥‥
一種の遠近法みたいなレトリックには成るはずなのである。
しかしもちろん、それでは血も涙も無いから‥‥と次は愛を出してくるという、まるで槍で突かれないよう、
“体全体”を甲冑で固めたような姿を想う。
ところで「成長」というのは、安定した世の理念であろう。「全体」というのは、どちらかというと戦時の概念だろう。
世俗という“プレッシャーの集合体”は、「平時の悪法」として、人間支配に寄与していようが、
戦時には歯止めになってしまうはずなのだ。
その伝でいけば「全体」というのは、労働的内面的犠牲から、
露骨な身体的犠牲に切り替える概念なのかもしれない。
(多くが知るであろうように)「全体」という概念は、「一」を意味しもするようだ。
「一」とは、それだけ取ればシンプルの極みに思えるかもしれない。
しかし、全体を統一したものがシンプルなのではなく、
全体というものそのものを省くような、
そうした透徹した率直な力が、よりシンプルな世界を現出させるだろう。
多数の人間を一つにまとめる、高次の「一」が無ければ、人間像は
より単純に直截的になることだろう。要するに、
一よりも一少ない世界といえるかもしれないのだ。
この世界は完全無欠の個が、その個性の数だけ、濃密に関係したり、
淡白に、希薄に、余り関係しなかったり、動物たちのように三々五々、
押し付けられた秩序に縛られることなく、原始的に自由に群れているのであろうし、
ピラミッドに強制参画させられる謂われなど無いはずなのである。
ところが「常に最高とされる全体を優先する」との考えをもちこみ、
その“空虚なイコン”のもと、全体のために、全体の成長のために、
または、成長の全体のために人を殺してもいい、人に嘘をついてもいいという話が出てくるのであろう。
全体が優先される‥‥そのとき必ず、部分を破壊するはずである。
しかし、人間は部分ではなく、それ自体で宇宙以上のものであって、
人間にとって人間には意味はあっても、宇宙そのものに特別な意味があるのではないと思うものである。
人間は、その通り、少なくとも自身にとって絶対的に特別な意味をもっていても、
宇宙という「外の物体」の意味については…これは人それぞれに増減することだろう。
また宇宙が素材であれば、それは無くてはならないだろうが、宇宙が完成品であるわけではないということだろう。
そして、その宇宙とは、素材のそれらがひしめきあい、関係しあう素材の全部であろう。
それ自体にも秩序はあるにせよ、その秩序とは、川それ自体の秩序、海それ自体の秩序といったていのものであろうし、
個々の人間の(…その内に広がるような或る種の秩序の)尊さ、かけがえの無さと比べるべくもないと思われる。
そうした秩序が、何か人間以上を物語っているというのであれば、それは知の肥大を想わせるであろう。
また、それは空想の産物に、空想ではない色(権威)づけを施したものに相違あるまい。
人間がまず問題にすべきであろう存在とは、意思を有して判断する、
そのような「完成品」としての人間でなくてはならないかもしれないわけである。
全体を優先すれば、否、そうはせずとも部分は‥‥部分と呼ばれた部分は、部分として押し潰されることになろう。
しかし繰り返すが人間は全体の部分などではなく、人間が足せも引けもしない単位であるはずなのだ。
世界は数を集めた集積でしかなく、ことさらに意思疎通や、親密度の紐帯を加味した概念が世界と呼ばれるものであろうと思われる。
そう言えるのだとすれば、現状、偶々並んだコンテナ(コンテナヤード)が世界というのではなく、そこに込められた「大事な中身」が問題となるからだろう。
また宇宙が、「人間が何処に分布するかも定かでないような壮大な物の世界を加味したもの」であるとすれば、
人間界や霊といったものを度外視するような漠然、茫洋たる、宇宙の物質的法則というのが何を教えてくれようか。
善も悪も呑み込むような物的身体的自由というものは、
生命に着眼して人間を絶対的に制限できる(…といっても物理的には「必要」無いだろう)究極の規範とは異質の系統と思える。
善悪の規範は、生命の問題を問題にするのみであろうに、(間違ってでも、)物質世界を混入させるべきだと言えるのだろうか。
魅力的であるかどうかは別にして、それが絶対の規範の姿であろうし、観念的世界像としては、それこそが真実に思われる。
(むろん物を強調して天文学的区分けとしての「地球」が有ろうが、これにしても、いずれにせよ、便宜的に思われるのである…)
物も人も同じ、魅力も正しさも同じであるというなら世界は萎縮して一つの点になってしまうだろう。
たとえ、多様さというのが一つの世界の多様な側面でもあるとしても、この世界は多様であり、
多様な一つとして生きていることには違いがないと思える。
もし、その多様性が幻想で、完全に一つだというなら、いまその瞬間他者が思ったことを
言い当てられるか…というのである。他者は分からない‥‥たとえ分かる方法があるとしても、
いかに修行をつもうとも(…そして仮に何人かが獲得できたとしても)、
それは自然的に備わったというより、(もともとは)死ぬまで他者(…別人)というのが分からないのが、
本来の自然的な人間というものだと思っている。…内面を共有できない
他者こそがまさしく神秘なら、軽軽に判った気になって他者(自他)を“一緒くた”にすべきでは
ないだろう。規範としても、「何か分からない神秘であるもの」を
破壊する(してよいという)少なくとも論拠は得られないはずである。
しかも自他が同一なら死をも乗り越えているのだろうが、だからといって、
おいそれと宇宙の部分として、全体に帰すかに死ねるものかどうか。苦痛は、まさに断末魔の激痛や、軽微な不定愁訴にしても、
宇宙や法則の流れの総体といったものとは独立し、局所的に他と異なるものとして感じられる気がする。
そうだとして、全体的に何ともない宇宙とは、少なくとも、感得されるエネルギーの
スケールにおいてからして、素朴にも同一ではないように思えるのである。
(超越的な呼応関係が生活に及ばないような日常の物的レベル、
そして全面的とはいえないような超常の話、それに具体的精神内容とを、いまここで混合する必要は無いであろうが)
あるとき、物質が無言で変化せず、ある他者が幸福の絶頂に在るのにも関わらずして、また或る者は八つ裂きの目に遭う、というのであれば、
何ら連関、連動も共鳴も超越的因果も見られはしないはずなのだ。
それは、あるいは物質的には濃くつながっていたとしても、人間レベルの情緒や価値認識の世界の話に即、噛み合ってくるものといえるだろうか。
このように、ごく単純に冷静に見積もっても、
実体や意味や価値の同一または合一は、一元管理したい欲望の生み出した幻想ではないかと思えてくるだろう。
もともと国家という全体を乗り越えるために世界という全体を目指したのなら、必然的に
ついには宇宙までいくだろうが、そこには何も無いかもしれない。
答えは完全無欠の個に在り、そこで、いったんは完結し、「その別に」関係を持つのであろうから、
その大切な始点終点を兼ねた人間(人格)を見失えば、
あるいは、そこからの旅では空しい迷子となるから…なのであろう。
国家がだめなら世界という発想は、これは弁証云々という方法論だと思われる。
過去の罪を清算せず、ひたすら「現在」を上に上に(糊塗するように)上乗せして、
一方向にのみ、歴史なるものをつくっていくらしい。こういうシステムを弁証云々と呼んできたはずなのだ。
国家という全体がだめなら、そこで個に還元すればいいだけのはずだが、還元という概念を、
(例えば貴族の風体の吸血紳士を灰に変える鏡であるかに)頑なに忌避し、拒み、
あくまでも、より高次の全体に目を向けなくてはならない強迫を呈してきたであろう。
そういう思考そのものが、全体の巨大化なら巨大化一辺倒に、
全体の流れに対して右へ倣えするというように、これこそが全体化の全体観とでもいうものではないか。
そんなふうに「後戻りできない」猪突猛進の弁証云々の規則に
がんじがらめになってきているように思う。
そして、このようにして世界そのものが成長するという発想自体が、
むしろ閉塞を生み出していくのだろう。
その意味で、成長も縮減も後退も、そもそも自然的世界は何も変わっていないと思われる。
完全無欠の人間「一般」が(総計の「視点」の眼前において)個性の数を増やしたり、いわれのない理由で減らされただけで、
世界はその往復や、逓増、微減をするだけの、そういう(…世界の実相とは)集合なのであろう。
おそらく人間の「存在性にとっては」、世界の経済や文化文明制度、科学など、積もうが膨らもうが、その点では無なのかもしれない。
変わっていないと気付くことで、膨らみすぎた世界像は、たぶん、もとに戻せるのである。
「変わっていない」と気付くことで、ようやく「小さくなる」はずである。そうやって小さくすることはできようし、
“小さくすべきである、と気付けばいい”のであろう。
(それが実相なのであれば文句は有るまい)
この「自然的世界」に或る種の世界観をもつとすれば、それが「社会的世界」である必要は無いのかもしれない。
これは世界が無い世界観‥‥場の認識ということではないか。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
短い私の人生は、「全体」「成長」「歴史」といった、数限りない「彩りを添えるだけのような」/(〜)
「危険な誘惑の」概念の、悉くの滅却を主たる目的として有るのかもしれない…。
(※個個‥‥アナグラムでいえば、私の英字フルネームには、並べてkoとなる記号が2組分“刻印”されているのである)
‥‥