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‥‥
あなたは日頃から“愛とか、宇宙とか”言っている人間を信用できるであろうか。
まして宇宙の真理が愛というのはどうだろう。
かつて荒唐無稽なSFアニメが一世を風靡したと思うが、そのとき
愛で宇宙を救うといった“宇宙戦艦ヤマト病”に感染した人間が多いと思われる。
どうも、その世代に愛と宇宙を決定的に回線として結びつけてしまった人が多いのではないか。
サブカルメディアの悪影響も馬鹿に出来ない、いった印象である。
飢えた僧侶の前で、兎が自分から丸焼けになって、僧侶の腹を満たしたというのは、
明らかな洗脳プロパガンダであろう。なぜなら、これは僧侶に対しては、こう礼を尽くせという
範をたれる逸話であろうし、潜在意識に別の具体的イメージを植え込めば、いざという
ときに、それがふと頭を過ぎり、自分でサブリミナル効果を生成すると思われるからだ…。
要するに、この“巧妙な童話”は、在家や縁無き衆生に“汝、兎に成れ”と説いているはずなのだ。
しかも、この話は、他の動物が「供出」したのに、自分だけは何もできないからという、
「趨勢に対する疎外感」を描き、右へ倣えの抑圧を示していると思われる。
動物の種類には特に拘る必要も無いだろうが‥‥「熊や狐といった動物」が、
世俗世間を示していて、それに乗り遅れまいという姿を、ここでまた胸に刻ませていると思われるのである。
愛というのが自己犠牲のかたちで表現されるとき、ときとして、
それは世間の拒絶反応を受けることもあるだろうが、政治の側から
環境条件を整えている場合には、喝采をもって容れられるとの想像は難くない。
‥‥そう、つらつら考えてみるに、自己犠牲というのは、
単に犠牲者を交換しているに過ぎないのではないか。
どのみち、犠牲数は変わらないはずなのだ。
そして犠牲に回る側は、僧侶に対して兎とか、たいてい弱い側、そして価値(趨勢価値、主観価値)を
置いてもらっていない側に多いらしいところに注意を要すると思う。これは動物実験にも一脈通じるだろう。
もとより“人の愛”、すなわち人の犠牲を説いているのは、それを欲する政治家が
よくすることだと思うのだ(…皇族はいわなくとも献身も玉砕もしてもらえよう…)。
しかも政治的な力も無いのに、政治家気質が頭をもたげる
人が多そうなのは、今に始まったことではなかろうが‥‥。
しかし、他者に犠牲になって欲しいという気持ちは共通すると思う。
つまり、これは‥‥自分を護って欲しいという親への欲求の残滓か、郷愁ではないのか。
つづめれば愛が欲しい‥‥そして端的に、犠牲愛というのが一番、自己利益が大きいという幼児性なのだろう。
(愛の法則とは、自分がして欲しい、自分の危機を自分の限界を超えて打破して欲しい、という渇愛の変形かもしれないのである)
宇宙の法則が犠牲交換(その相手が死なず、別の誰かが死ぬ)だったら笑えるではないか。
というのは、一つの運命を受け入れがたく(恐らく死の恐怖が強く、不安の変形が顕れ)、
何とか、それを免れるために、事態を急変させる存在といったもの(…自分を超えた他者が急に意を決して現れ、
助けてくれるような夢想として)、それを希求する、その依頼心に思われるのである。
これが生け贄思想につながると見えることは、いうまでもない。
…のみならず、これは自慰であろう。
(愛が自慰というような図式は、これまでにも主張してきたつもりである…)
※、カフェを出るので時間なし‥‥誤字等ご容赦されたい。
‥‥