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うちの親も、「旨い文章の日本標準」の信者で、とにかく新聞のコラムとかの文章が最高と思っているようだ。
(そんなもん、目的によるだろう。だが当方の“センテンスの長さ”に文句をいいたがる…)
…いっぽう和役者のおじさんは、分かりやすい文章でなければ文章でないというくらい
ファッショな唯物科学主義者。さらに荒井(…人の思想を荒荒しく井戸に投げ込むような人は誰でも荒井さん)の
おばさんも、2ちゃん調は極度に嫌いつつ、2ちゃんのコピペテンプレート文は、ありがたくサポートしているらしい。
こちらとしては荒井オバさんが嫌がるような文章を書くこと自体に悦びがあろうし、
人の基準からズレていくことは個別化にそぐうと思える。
(しかし、よくもケム板やランチ板で批判してくれたな…)
━━━━こういうことではないか。
「文章がまどろっこしいのには理由がある」→「自分の“ポリシーで”語尾を限定している」
→「短くすると似た語尾が密集する恐れがある」→「長くして調子を整えている」 “何でも背後に事情が有るんである…”
━━━━それに精神障害者としては強迫があって、細部に拘り(制約)が多い。
また、そもそも文章を作る上で運動上の目的に適った文体であるべきだろうし、
文書作成への付帯条件によっては、微妙に文章の勢いを落さざるをえないときもあるだろう。
(嘘を書いてでも生き生きした文章にしたい人は、活ケ活ケ娯ー娯ーだろうが論外として)
━━━━いちがいに「良い文章」だとか「出来が“劣る”とか」ユニバーサルな品評会ができるシロモノではないはずである。
目的に応じて、はっきりいわないほうがいい場合は意図的にわかりにくくしたり、噛み砕く手間を省いたりもする‥‥。
どうして皆は、こうでなくてはならないと、硬く規格を守っているのか…。個個の個性(や
用途に応じた文章)はもっと幅広く拡散していいだろう。
…それにしても彼らは、単に自分の経験則や勘に過ぎない基準で、なぜ自信ありげに、
なぜに人様の文章を、“座って菓子を喰らいながらツベコベいうかに”評論できるのか。
たとえ、世の趨勢がそうであれ、また合理性があったとしても、多様な表現が(規範において)許されないはずもない…。
それに読み易さといっても、無間地獄の情報集めに忙しい人の時間の都合に合わせる必要も
無いだろうし、読み飛ばしの習慣で、咥え煙草のノリでぞんざいに、片手(片手間)でダメ出しされても…。
自分は文章でよく褒めてもらった人間で、いまさら“理想の文章”みたいな“幻想”を追う必要も無いだろうし…。
だいいち上手い文章の基準が数値的に明確に示せるところまではいっていないはずなのだ。
また逆に、もし数値的に(根拠をもって)「望ましい書き方」が規定できるなら、その場合にはソフトに書かせたほうが早いだろう。
じっさい今の自分の文章は、いくつかの要件から割り出すような、
多分に(あるいは日本一?)人工的な文章なのかもしれない。印象として硬くないはずはなく、別に、それで結構だろう。
‥‥‥‥‥‥(纏めの教訓)
そうでなくても当方は“敵”だらけで、文章について「こいつ等」が言わなくても、
もともと世俗一般は煩い‥‥俗世と変わらない連中を強いて相手にする必要も無いだろう。