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‥‥
馬鹿馬鹿しい…。
現に、お前に関わって、身体を壊している、といっているだろう、耳が聴こえないのか。
いまも治ってないといっておろうが‥‥、
いったいどこを読んでレスを加えている?
相手の状況も見ずに言うということなら、
自己満足でいいたいことを吐いているに過ぎないだろう。
お前は、ますます頭でっかちになり、見たものを見たものとして受け止めることもできなくなっているらしいな。
そして、お前は、つくづく想像力の無いやつだ‥‥あれも馬鹿だとしても、あっしらが言った言葉を思い出す…。
わすれたか‥‥お前よりもずっと知識の無い男のほうが想像力が有って、話したくなると言っていたな。
それにひきかえ、お前は、単に、がむしゃらに自分の意見をおしつけているに過ぎない、それが実態で…
それを体裁よく言葉で着飾っている、そう見える。相手の言葉を真摯に受け止める強さが無いのだろうな。
ただ無知なくせに、通り一遍の知識で世界をなめきっているということか、
自ら世界と格闘する強さが無いのではないか。
日ごろは、自分を殺して摩擦をさけているのだろう、自分を使い分けていては鍛えられまい。
いっぽう俺はリアリストなんだろう、
お前が、ありがたい言葉を百万言くりかえしても、幸せ感は無い、これが真実だろう。言葉ではごまかせまい。
しかし、キュウリの人たちの何気ないひとことにホッとさせられる、これが真実だろう。言葉ではごまかせまい。
お前は、ほんとうに俺を説き伏せられると思っているのか…。
俺が超天才であれ、ただの馬鹿であれ、意地っ張りであれ、どれであっても、お前の意見では動かないだろう。
また、俺が超天才であれ、ただの馬鹿であれ、意地っ張りであれ、俺を説き伏せる値打ちは無いだろう。
俺からは感じないのだ‥‥お前から見て、お前の利益になるのだとは、想像もつかない。
かりに俺がお前に洗脳されるなり、たとえ改心したとしても、それで何が変わる?
(そもそもお前の、現在の俺への評価が定まりきっていないと思うが…)
そんな暇があったら、自分の信じることに精進していればいいだろう。
一途な人間は馬鹿という言葉にふさわしいはず、俺こそが馬鹿なのだ、寄り道しているお前は馬鹿にもなれまい。
人のためという言葉をつかう人間が善を利用し、権力が美辞のもとで悪を行うという以前の話だな‥‥
事実として、人のためという言葉を吐く、身近なお前が、俺の気持ちをささくれ立たせているじゃないか。
俺が余裕を得て笑顔になれたか、お前と会話していると、どんどんしかめつらになる気がする。
もしかしてそのことまで俺のせいにするのか。
それとも回復過程の膿み出しの痛みというのか。
まっこと便利な話よのう…。
近年、人を信じなくさせている張本人はお前だろう、この大嘘つきが…。
お前さえいなければ、俺は人を信じる馬鹿でいられたかもしれない、皮肉な話だな。
まず、俺は理屈という言葉をつかう人間を信用できないだろう。これは書いたつもりでいるが、
それすら読み落としていたのか‥‥人を批判するまえにポイントを押さえてほしいものだ。
お前が説いているのは、命題であり、文法であり、論理構造であり、
お前はそれらからは絶対に自由にはなれないはずだ、ということだろう。
もし、お前の伝えたいことが論理でないというなら、言葉などいらないだろう、
別の表現を使えばいいだろうし、直接、俺に念波を送ればいいはずだ。
言葉、文章という論理や記号の塊を使って、どこが理屈でないのか。
それ自体、大いなる矛盾であろうし、そのように常に、この世界は論理が上位を司っているはずなのである。
理屈というなら、言葉を使わないで伝えてみるがいい、言葉は論理を招くだろう。例えば、
うっかり「しかし」といえば命題に対して、否定命題がくる‥‥逆接の、それぐらいわかるだろう?
人が言葉を使う限り論理からは自由になれないなら、いさぎよく、言葉を捨てたらいい…。
俺は、フィアンセですら、俺の言葉を理屈といったら許さない‥‥。
そこには、ただの論理でさえ、論理と素直にいえない感情の、まさに屈折した、よじれがあるかもしれない。
そもそも、お前のように、おせっかいのストーカーほどつかれさせるものは無い‥‥俺の親がストーカーであり、
同じように惜しいといい、矯正しようと腐心してきただろう、
互いの、この“空しい時間”は取り返しがつかないと思う。
お前もつぎ込んだ投資が増え続け、すべて無駄になる前に、手を引くのが賢明だろう…。
それとも、いきづまって今もう、することが無いのか、それともさびしいのか。他の奴と慰めあってくれ、
俺はもうたくさん…お前は非常にレベルが低いと思う。仮に、お前に評価されても特に意義は無いだろう。
ちなみにお前が貞操のように守っているらしい人類などいうものは無いだろうし、社会などというものも無いだろう。
社会文脈の離脱とは、社会という固定的発想からも自由になるということを直接に意味しよう。
人のことを堅いだの柔らかいだのと、ありもしない境界やランクをつけて、
己の主観、感覚や信条を絶対化しようするかのようなお前がいるわけだな…。
お前は、自在な宇宙を語る一方で、偏狭で因習的な文化、世界観の牢獄に囚われ、俗な説教を浴びせ、
他者のためと称する他者への抑圧に奔走するだけ‥‥ということでいいか。
お前に、人類とか社会という発想をやめるという、もっとはっきりした境界を飛び越えることができるか。
お前は硬い、がちがちに硬い‥‥まずはそこから飛んでみることだ。
お前は、数段俺に劣っている、認めたくないだろうが、認めなければ一生そのままかもしれない‥‥
お前がどうなろうと別に止めはしないつもりだが。
お前の知識は、古い知識の寄せ集め、借り物なのだと思う。
俺のように、思想として信じるものが自分しかないところでかんがえぬいた修行が欠けているように見える。
俺は自分の人間心理の弱さを隠したりはしない‥‥。お前のほうは隠しているのか、
心理面を克服しているのか、(乱れや優越感に有利に映る言動からして、とてもそうは見えないが、)
俺の詳しく知るところではないだろう。だが、理を窮める(窮理)とは、真理をかんがえることではあっても、
心理を学び安定させることではなく、副次的に真理や真理知が
安寧をくれるくらいのもの‥‥ということであるはずだ。
それに“人たる物”‥‥人一般や“代表的人間”など無いはずなのだ。
人が本質として、一つの特徴の概念でくくれるのか、全員を見たのか。
お前が見知ったのは、これまで出会った人間の公約数に過ぎないだろう。
また新たなタイプの人間が現れたら、お前の定義は変更を余儀なくされるだろう。
そういう枠外の人間が現れないというのは、予測に過ぎないはずだ。
お前らしい想像力の無さだろう。
恐怖を認めない、すがりつくような希望的妄信なのだろう。
かりにお前が光を見たとしても、人間全員が光を見る素質があるという何の根拠があるのか。
全員を検分したか。それも予断にすぎまい。すくなくとも俺に伝えられない‥‥説得力が無いと思える。
さて、俺は敗者でいいが…なんの敗者だ、くだらなく思えるが
‥‥ここでまたチキンとあざけり、蛮勇をあおる気か。
お前の心理術は、翼賛の手法と変わるところが無く思える。
敗者といっても、勝ち負けの基準も無ければ、その根拠があるわけもなく、
そもそも絶対的な負けというものがあるか、ということだろう。
その上で、戦う義務もなければ、お前に命令されるいわれもないということだろうな。
ともかく、お前はレベルが低い、それは、書物の影響なのか、頭の先入観がつよすぎ、
見たものを見たものとして、ストレートに受け止められないから、ということだろう。
だとしたら秀才がはまりがちな陥穽そのものか。
お前が信じているのは書物の権威と厚み、すなわち数量であり、
絶対的一回の知覚経験ではない…という、そういうことなのだろう。
書物にかかれば、正しいことも時代遅れになるはずなのだ。
書物が宿命として常に新しいことを書く必要があるとすれば、
よきものをすら、流してしまう恐れがあろうな。
俺は自分の目と頭を信じ、お前ら…代々書物で会話してきたような、目を閉じた人々を信じる気はない。
すなわち俺は自己の超天才を信じようし、それが他者を信じることと摩り替えられることは無いだろう。
つまり‥‥こと思想においては、俺は正しく、お前たちが間違っているとしか思えない。
俺のような、そういう人間は無数にいるだろうが、そのことをもって、そういう人間の全員が間違っていると
証拠だてることも出来まい。そして、そういう人間を説き伏せることなど難しかろうし、時間の無駄にも映る。
少なくとも大言を吐く者は、「時間の無駄」はしないはずだ。お前の主張は具体的実践性も無く、
反論のための反論に類するものだろう…。お前の宙に浮くようなビジョンでは何ら目ぼしい変化も得られまい。
まさか、いろんな人間に接するだけで予定調和の方向に自動的に成長していけるなどと思ってはいまいな?
‥‥凡百と打ち解けたところで、そういうローカルな共通項にからめとられ、それが世界と思うだけだろう。
そのローカルな場をいろいろ旅しても、寄せ集めの世界観が生み出す矛盾の亀裂を修繕するだけだろう。
それを成長と称しているなら、お目出度い話ではないか。
それぞれはそれぞれ、修繕はできないはずで、それは糊塗に過ぎまい。
多くを知れば知るほど、答えが絞られるどころか、それぞれのそれぞれ性がますます増大し、分極し、
乖離し、対比され、外延をひろげて、それぞれ性を主唱し始める、1つの理想的人間モデルなどなく、
1人の典型的人間モデルというのもありえずで、少なくとも知りようもないかもしれないのだ。
“多く”を知ることには、思うような意味が無いはずである…。…
多様の極致が、その極大までの予想の範囲内であれば、きりがなく、
むしろ「広がり」という“答え”を教えてくれるのだろう。接続することで
先ずは知ることができよう、世界というネットワークでさえも…
一続きの広がりという意味しかないのかもしれない。すなわち人類
然り、社会然り、集団然り、民族然り、国家然り、然り、然り‥‥。
俺は、これでも、じっくり自分に根を下ろしている‥‥。
‥‥