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多数化闘争をする人は、多数化(そして資本化)が、勝敗の決め手であり、それが世界を決める基準であり、評価であるなら、
教義内容の優劣よりも、多数化そのものに収束するということになる‥‥自分達が正しいのは当たり前で、かつ多数化
できる能力を持つものが即ち現実的で正しさを“導けるだの何だの”と‥‥口には出さなくても思うものなのかもしれません。
そして結局は多数化にだけ尽力し、多数化だけを競っている‥‥また教義も多数化できるポピュラーな
内容かどうかを基準(…結果的に中心軸として)出来ていて、多数化できるものが多数化して勝ち、
また残るように書かれた書物が多数化することで(それを通して)残るのですね。